罪だったり罰だったり

チケットをおさえた時に「罪と罰」も購入して上演までに読もうと思っていただのだけれど、そんな時間を生み出すことはできずじまいで。

だから、短編三作「罪だったり罰だったり」「Who are you? Why are you here?」「世の中は間違いに満ちていて、いつだって僕はそれを黙って見過ごす」だったのだけれど、二本目三本目が、「罪と罰」にどう関係するのかよく分からなかった。

一作目。

これは、癌を宣告され余命が少なくなったと感じた男が、高校時代に殺されてしまった同級生への復讐として、裁判では無罪になってしまった容疑者を殺害するのだけれど、真犯人は自分の父親であったという、あらすじだけで書くと、驚愕するような物語だ。

死を宣告された男が、死ぬ前に正義を実行したいと考え、法では裁ききれなかった殺人者を自らの手で葬り去りたいと思ったということなんだが、違和感を感じる。第一、その同級生というのは、友人でもなく、話をしたこともほとんどないという設定だった。殺害の動機があまりにも薄すぎるのではないだろうか。

男は殺害をして死体を処分するために実家に帰ってくる。そこで母親や妹夫婦たちと時間をともに過ごすのだが、僕はこの場面を観た時に、時間が遡って殺害する前の場面なのかなと思ってしまった。母親が男に「何か隠し事してないか」と問いかける場面があるが、とてもそんな様子に見えなかったからだ。

そして、真犯人は自分の父親だと分かった場面。それはとんでもないショックな出来事であると思うが、彼はそのショックよりも自分が間違って殺害したことに、すぐにシフトしてしまう。妹も然り。

短編などにせず、もっと人の心の動きを繊細に重厚に描いて欲しかったと思う。命に対して軽く扱っているように思われて、僕は感情移入が出来なかった。

笑の大学

 

演劇などにはこれっぽっちの興味などもなく
上演禁止に持ち込もうとしていた検閲官が
劇作家とのやりとりの中で
次第に演劇の面白さを感じ取っていき
友情さえも培わすようになっていく物語だ。

戦前戦中の国家は、演劇や映画を
国威発揚に利用するがため
大政翼賛会の中に組み込んでいった。

多くの文化人たちは、自分が生きていくため
家族を養うため、
自分の思想を捨て、
国家の言いなりになった。

面と向かって国家と闘った文化人は、
牢屋に閉じ込められ
拷問にあわされ、獄死した。

でも、国家に従っているふりをしながらも
強かに、そしてやわからに
どこかに自分の思いをしのばせながら
生きた演劇人もたくさんいたはずだ。

この笑の大学に登場する劇作家も
そんな人物として描かれている。
可笑しいけど、涙が出そうになる。

この芝居は極上の演劇賛歌だ。

関数ドミノ

09年版をDVDで観た。
14年版よりも少しだけラストに希望があるそうだ。
確かに、「ドミノ一個」で耳から血を出して倒れた彼女を
彼は助けることができるのかもしれない、そんな余韻を残した。

しかし、ドミノを嫌い憎んできた彼が
彼自身がドミノであったことに気づいてしまい
今後、彼はどう変貌していくのだろう。

彼自身が言っていた。
ヒトラーはドミノであると。
ドミノは神であると。

僕は思う。
彼を覚醒させてしまったのだから
その後の世界にも決着をつけるべきだと。
作家こそが、その世界の神なのだから。

エルネスト もう一人のゲバラ

 

 我が同郷堺の映画監督阪本順治が何度もキューバに赴き、取材を重ね完成させた作品だ。今のメジャーな映画界では取り扱われにくい素材であるが、監督をはじめ出演者やプロデューサーたちがゲバラファンであることから奇跡的に映画化することが出来たと監督が仰っていた。

 映画の中のエピソード、例えば、カストロが夜中に医学生たちを訪ねて不満はないかと尋ねたら、学生たちは便所が汚いとか飯が悪いとか答えて、その後バスケットボールを一緒にして帰った話とか、友人が孕ませた女性とその子供の面倒をフレディがみた話とか、これらは取材から得た本当の話であるそうだ。

 ゲバラやフレディに最高の敬意を払いながら脚本を書いたためか、その心労で監督は現地でご飯が喉を通らなくなったらしい。それを案じた滞在先のメイドさんが、自分の昼食のサンドイッチを、わざわざ一口かじって「食べて」と分け与えてくれたそうだ。あまり裕福でないので質素なサンドイッチだったけれど、それでも困った人がいたら分け与えるというキューバ人の優しさに触れたと仰っていた。

 映画の中でゲバラたちが広島に行くシーンがあるが、実はその直前までゲバラたちは堺の石津にいたらしい。石津にある久保田鉄工で耕運機に試乗していた。キューバの資料館でそんな写真も監督は見てきた。そして監督が言うには、

「そんなことを知っていれば僕は石津に行ったんですけどね、まだ一歳でしたけど」

 オダギリジョーが司会者から「ゲバラやフレディのような命を懸けて国を守るというのはどう思うか?」と聞かれた時に「今の日本は守るべきものなのかどうかわからですけど、僕の場合は命を賭けるなら映画でその使命を果たしたい」というような趣旨のことを言っていた。

 監督も言っていたが、派手な戦闘シーンなどは少ない。フレディが祖国ボリビアの解放戦線に参加するまでに至った経緯を懇切丁寧に描いているからだ。フレディの最期もあっけない。でも、それがリアルなんだと思った。

振って、振られて 2017秋

九条にある「座・九条」で「振って、振られて」という芝居を観てきた。

近未来の話で、第3次憲法改正(第1次:自衛隊の9条への明記および緊急事態条項追加、第2次:9条2項の変更)が行われ、ついに97条をはじめ10条から40条までの基本的人権の大幅改悪が行われた。これまで反対運動をおこなってきたN大学救助の林典子もついに国外へ脱出することになり、書類の整理をしているところへ、改憲派の椿が部屋にやってくる。そして…。

この戯曲は、くるみざわしんさんが、10数年ほど前、アイホールの想流私塾の塾生だった頃に、北村想さんが出した課題「日本国憲法」で、2000字の作品として書き上げたのが最初だったらしい。その後、書き足されて1時間程に膨らまし、戯曲賞にもノミネートされた作品だ。

 前説で作家のくるみざわさんが「面白いところは笑ってくださいね」と仰ったが、確かに改憲派の椿は、笑える人物として設定されてはいるが、僕は笑えなかった。もしかしたら10年前なら笑える余裕はあったかもしれないが、もう、この戯曲に描かれている世界は目前に迫っているので、息苦しくて、泣きたいくらいだ。椿のように無邪気に改憲を喜んだり、日の丸を掲げることにうっとりするような人たちは、実際にいる。

ほんとバッカみたいな世の中になってしまった。まるで、昔、筒井康隆や星新一が描いたかもしれないようなバカバカしい未来がやってきている。

最後にくるみざわさんが、声をかけてくれればどこでも上演しますと仰っていた。多くの方に観て頂きたい作品だ。何処かで上演しませんか?

仮説『I』を棄却するマリコ

I』ってなんなんだ。


インプット仮説
。これは、言語の学習者は彼らの現在のレベルより、僅かに高いレベルの言語のインプットを理解した時に進歩するとする。Krashenは、このレベルを「i+1」と呼び、「i」が現在の言語習得のレベルで、「+1」が次のレベルとの差分とした。

だとすれば、マリコは次のレベルに進歩したくなかったので、ウイングフィールドの窓から、ブロックを落としたのだろうか。いや、でも、マリコは監禁されていたのか。監禁されていたのは雄三ではないのか。だとしたら…。

いくつもの伏線が重なり合い、螺旋がごとく仮設が解かれる。香ばしい骨の香りが漂う周防町ウイング6階の一室。マリコは警察でさえたらし込むのだから、猫なんかじゃない、あれはきっと。

 

かさぶた式部考

 社会問題と和泉式部伝説、一人の障がい者を中心にして、その母と妻の思い、そして和泉式部の性愛など、様々なことがちりばめられた重厚な演劇だった。

 少し前に戯曲を読んだ。方言だらけで、読みづらくよく分からない。なので声に出して読んでみた。すると、情景が浮かんできて、映像として頭に入ってきた。それでも一部、分からない方言があったけど、なんとなく雰囲気で理解していった。

 で、昨日、舞台を観た。頭の中の映像と融合して、実体化していった。音読するだけでは分からなかった方言も、舞台で演じられるとすーっと体に入ってきた。

 そして特に後半の薬師堂の舞台は想像していたよりも美しかった。高い位置にある小さな薬師堂まで、自然木の小道が曲線を描き、造られていて、般若心経が書かれた長い布の束が、左右に空から垂れ下がっている。自然木の小道の下にも、般若心経の短冊のような布が垣間見える。そんな神秘的な舞台で、尼僧が豊市と絡む魔性ぶりが背徳的で艷やかだった。

 いろんな要素がからまり、まるで万華鏡のようなお芝居。かまどの火で照らされ赤くなった伊佐の顔だけが浮かびあがりながら幕が降ろされていく最後のシーンは印象的だった。

原因と結果とフライパンの狂詩曲

 

いきなり夫婦がしりとり会話をしている場面から始まる。
仲がいいのかなと思ったら、そうではなく離婚寸前のよう。
レストランの一室で、どんどん物語が展開していく。

しかし最初、時系列を組み替えていることが分からなかったので
あれあれ?とか、それはないやろ!とか文句言いたくなっていたのだが
最後のほうにその仕掛けを理解することができると
WOW!、なんて面白い!と思った。
あ、フライパンの意味もね。

このお芝居にはいたるところに、劇作家の長尾ジョージさんの分身がでているようで、とてもエネルギッシュで楽しいのだけれど、最後の、妻が夫の濡れたズボンを拭いているところなど、ちょっとしんみりさせられて、さすがだなと思った。

 

楽屋

 

 

 

 

閑静な住宅街の一角にあるTHE BONZEくらぶ。
まずはその一階でお酒を頂いた。
「百春」甘口だけど、後味がすっきりしてて、美味かった。
一階の応接室みたいなところも、とても落ち着いた雰囲気で
ほんのりお香が漂い、いい感じだ。
気持ちよくなったところで、木の階段をみしみし言わせて二階へ。
とても狭い部屋で、女優さんの足元まで座布団が敷かれていた。
Cがビール瓶でDに殴りかかり、瓶が割れるシーンはいったいどうなるんだろうと心配したが…。

どの女優さんもそれぞれ個性的で凛としたものを感じた。
AとBが化粧を繰り返していくなかで
どんどん綺麗になっていき
最後の三人姉妹を演じるところは、ハンガーにあった衣装を上からまとい
三人寄り添って語る場面はとても印象的で美しく感じた。

 

 

駱駝の骨壷

 

駱駝と名付けられた子供は、果たしてこの世に生を受けたのだったろうか。
羊水のなかで漂う子供だったのだろうか?
時折、大人たちが吐いた言葉を、リフレインする。
あれは羊水のなかで木霊する「ことば」だったのか。

生活力のない夫婦。
家賃も滞納しているのに、男はネットで骨壷を買う。
骨壷に入れる骨なんかないよと、駱駝は言っているのだけれど。

女の母親が鍋を持って登場する。
アル中だ。
料理酒を美味そうに飲み干す。
男はビールも提供する。
カラオケも始まる。男女と母親三人で歌う。
なんか気だるい。やがてノイズに変わる。

いつのまにか物語は、女の母親にシフトしていた。
だらしない男の子供を孕んだ母親として。
舞台の真ん中に幾何学的に組まれたパイプのなかの
四畳半ほどの窪地で演じられる舞台。

いつのまにか、その周囲に飲み干された様々な高さの真っ黒い缶ビールが並べられていく風景は、まるで高層ビルが立ち並ぶ街を俯瞰しているようだ。

最後はその窪地が海辺となったようだ。
妊娠している母親が海岸に腰をおろしている。
海岸で一人遊ぶ、どこかよその子。
「うちの子になるか?」って。

結局、駱駝ってなんなんだったんだろう。
生まれてもいないじゃないか。

 

忘れたいのに思い出せない

膝を痛めて歩けなくなったセンリという老女が認知症にもなり、次第に体の自由や言葉を失っていく過程で発生する家族の葛藤や、ホームヘルパーがもたらすアクシデントを描いた物語り。

センリの息子はガンマという大学教授で、その一人娘のトオルという孫と三人で暮らしている。冒頭、トオルが妊娠したらしく、父のガンマと口論する場面から始まる。どうも夫となる男性はいなく、一人で生むという。ガンマはかなり、ヒステリックに怒る。分からないでもないが、それにしても寝たきりの母センリにまで辛くあたるのは、感情移入ができない。

でも、トオルだけは、祖母センリと心を交わしているようでこの物語に登場する唯一の救い主だった。

若いホームヘルパー・タマミが登場する。おそらく普通のヘルパーとして描かれているのだとは思うが、介護の研修を経験した僕にとっては、それでもやはり、老人への接し方に問題があると感じた。いくら認知症であろうと、まずは本人の意思を尊重するところから始めなければならない。有無を言わさない押し付けは、人格を無視していることになる。そんなふうに感じる場面が少しあった。また、ベッドから落ちているところを発見した時も怪我の確認も何もなしに、ベッドに戻すのは、不自然だ。

で、何よりも気になったのがヘルパーの研修としてきていたゲンブの存在だ。とてもやる気のない青年として描かれている。で、なんと、トオルの別れた彼、妊娠させた男であった。彼女の家とは知らずにやってきたことになっている。それはそれで良いが、トオルの元彼氏として描かれているのだからこの物語が終わる頃には何らかの変容があるのだろうと期待していた。

ところが、どんどんつまらない人物になっていった。介護の研修に来ているにも関わらずもうひとりの研修生に仕事を押し付けたりタンスの引き出しから貴金属を盗んだり、それをとがめたセンリが「ど・ろ・ぼ」と言った口を手で塞ぎ呼吸困難な目にあわせたり、悪行ばかりが描かれていく。

その彼が昔、いじめられっ子だったいうことだけは示されるが、それ以外の人物背景は描かれない。その上にだ、いつのまにか、ヘルパーのタマミの彼氏になっていた。なんの魅力も描かれていない男の。

終いには、彼が貴金属を盗んだことがバレて、家を飛び出して、車にはねられてしまう事件が起きる。そんなことで、彼を終わらせていいのか?彼を撥ねたのは、この家に出が入りしている市役所の役人ということだったが、いくらゲンブが悪いとしても、撥ねたほうの役人の台詞も軽く、とても人身事故を起こした人物の台詞ように思えなかった。いろんな場面で命を粗末に扱っていると感じざるを得ない。

僕は、このやる気のない青年ゲンブをもっと深く描いてほしかったように思う。人それぞれにそれぞれの人生があり、みんななんらかの問題を抱えている。登場人物の誰かを輝かせるためだけに作られた人物であるのならあまりにもうすっぺらで、可哀想だ。

「Voice Training」

 

 「話し方教室」に通う様々な背景を持った生徒たちと先生。それぞれの悩みの元になる「モノを言うこと」の不自由さ。単なる発声練習だけでは解決はできない。お互いに傷つかないためにも、演じながら距離をとらなければならないのか。

 こんな台詞があった。

「鳥の雛っているやないですか。木の上の巣の中に。あ、鳥じゃなくてもいいんか、動物の子供。何匹か兄弟がおるでしょ?あれ、いっぱい鳴いて親に餌もらうんですよね。鳴かないでおとなしくしてたら、死んでしまう。動物は声を出さないと死んでしまう。人は余計な事を言うと生きていかれへん。不思議やと思いませんか?」

 伊藤計劃の「虐殺器官」を思い出した。

その小説のなかで「ことば」は「腎臓や腸や、腕や眼と同じような意味での『器官』」のひとつだということが書かれている。「ことば」は「人間が生存適応の過程で獲得した進化の産物」であり、それによって、情報を個体間で交換して、いろいろな危険を避けられるようになった」と。

 だから人間は大きな声をあげなくても、情報を交換することに酔って、生きていける?

 だがしかし、こうも書かれている。

「自分自身の『器官』によって滅びた生物もいるじゃないか。長い牙によって滅びた、サーベルタイガーのように。」

 そう言えば、いま現実に、その言葉の応酬で世界は危機にさらされている。愚かなリーダーを選んだ所為で…。でも、その危機感が高まることで、金儲けをしている連中もいる。

 なんだか訳が分からなくなってきた。

 一言で言えば、「ことば」ってすごい。

 ってことか…。

 

山人のリア

 

 昭和22年の紀伊山地を舞台に繰り広げられるシェイクスピア「リア王」をベースにした脚本家・岩崎正裕氏の作品。

 それぞれの役どころや立場などは見事に整合性のとれたものに置き換えられて、まるで昔本当に紀州であった物語のように感じさせられるほど完成度の高い作品だ。そしてその中にも、岩崎さんテイストが散りばめられており、反戦への思いも込められていた。

 例えば、エドガーはビルマ戦線から帰還し、厭戦気分になっているが、エドマンドは中国で多くの中国人を殺害しながらも、今なお親や兄弟を陥れてでも功名をたてることに血道をあげる。追い出されたエドガーは山中に引き籠もり、強制連行された朝鮮人になりすます。山中で様態が悪化したリアは大阪大空襲の幻に苦しめられる、などなど。

 また、原作にはない山の女神が登場するファンタジックな場面があったり、リアがコーディリアのために山中の花をいっぱい摘み取って、それをリヤカーに乗せて登場する切なくて可笑しい場面があったり、また、コーデリィアが亡くなった時、夫のフランス王が嘆き悲しむ場面があったりなど、もしかしたらシェイクスピアよりも人物がきちんと描かれているのではと思った。

 最後におまけ。道化が冒頭の部分で鼻血をだした。最初は演出なのかと思ったが、鼻血を無視した状態で物語が展開されていき、鼻に綿を詰めてもいたので、これは事故なのだと思った。後半あたりでやっとリアが「お前は鼻血までだして可愛いやっちゃのお」という台詞でやっと救われたって感じがして、ほっとした。あんまり走り回ったら鼻血がまたでるよとハラハラしながら見せて頂いた(笑)。

春に

突劇金魚 番外公演
『大大阪舞台博覧会 vol.2』参加作品(短編)
『春に』

Story…
一組の同棲中の男女。

男は目の見えない彼女の世話をし、本の読み聞かせをし、彼女の語る物語を代筆する。男はこの生活が永遠に続くと思っていたし、それを望んでいる。

そして、そことは別の、ある時代に生きる、一匹の生物。

彼は魚類が地球に誕生したころから生きていて
人類が誕生し、滅びていくのを見ていた。

彼は、いなくなってしまった「その種族」を懐かしみ
おそらく最後の人類にもらったラジオのモノマネをし続けている。

すべてのことは終わっていく。
そしてその上に次のものが積もっていく。

その境目のひとときを体験する物語。

富豪タイフーン

 

世間から隔絶した世界に住む富豪の夫婦は
自分だけのセオリーで暮らす。
息子は小学校2年から学校に行かず
30年近い時間をかけて高校2年までの内容を
家庭教師の元で納得するまで学んできた、
分かった瞬間の感動が忘れられないという彼は
最近は「複素数」がお気に入りだ。
妻は、夫に隠して黙って生み育てた娘がいた。
30年間、部屋に閉じ込めて、一人で愛を注いできた。
そんな富豪の家に、新しい家庭教師がやってくる。
そこから物語が始まる。

それなりの調和が保たれていた富豪の家も
家庭教師によって破綻が始まる。
まるで未開の地に暮らす原住民に
新しい文化が流入していくように。

夫は、世界が危険に満ちていることに気づき
家の中に30年間暮らすことができるシェルターを作り
そこに閉じこもってしまう。
息子は、愛に目覚め、メイドと駆け落ちをする。
娘は、人を幸せにすることに目覚め、政治家になることを決意する。
妻は、家出をした息子を探しに出たまま帰ってこない。
そして、家庭教師は大手の企業に就職が決まり、東京へいく。

家庭教師だけが、普段の世界に戻るのだけれど
富豪の家族は、バラバラになってしまい、先が見えない。

幸せってなんなのか?
知ることによる「欠落」は、自分の「欠落」でもあり
世界の「欠落」だ。
それを自分でどのように受け止めるのかは
人それぞれだ。

家庭教師と娘がみた
地球の中心の夕焼けって
なんなんだったんだろう。
娘は顔をほころばせていたが
家庭教師は複雑な顔をしていた。
さすが!

 

 

ガぺコレ

 

ファッション雑誌の表紙のように洗練された舞台
最初の6分は静止したまま

鳩だったんだ
南港の上を飛び回っている鳩だったんだろうか

イメージの奔流
次々と変わっていく場面
言葉の奔流
時空を超えて
やがて収斂していく

自分にとっての、この街とは

 

ガぺコレ プログラム

極東退屈道場#006「ガベコレ-garbage collection」は全35シーン(1時間55分)で構成されています。ダンスシーンについては、構成要素となったキーワードも記載しています。

1. さえずる鳩
2. プロローグ「連なる(呼ぶ)」:ダンス
3. ガベコレ
4. 埋め立てられた場所
5. 調査する男たち
6. 煙突について
7. 私にとってこの街は…
8. 市長宣言
9. 彼は「ポン引き」、街の無意識、町の鳩
10. 方舟
11. 都市とは、
12. 「plastic-iron-solitude」:ダンス
<孤独、闇、鉄、かたい、プラスチック>
13. 「炭色の肌」:ダンス
<明るいオレンジ色の炎/わたしの頭上で囲い囲われる/雪の感触、わたしのまわり(さわる)/熱い、根の様な基礎、指紋>
14. 都市のリズム
15. 埋立地には何をつくりたいですか?
16. 統合型リゾート(IR)立地に向けて
17. カジノの門前
18. NO WHERE LAND 〜物語の創造
19. 「最先端でくじく」:ダンス
<最先端でくじく/渋滞で止まる/ぶつかる、ふくらむ、はらむ、石になる/後ろに立つ男はゆっくりと女の中へ入っていく/思い出すように確かめる/再びもとの場所に立つと別の女がいる、加速する/最先端でくじく>
20. 「最速の鮫」:ダンス
<小高い場所、ガケ/風向き、鋭利な、疾走する、浮いて沈む/規則的に吹く、刻む/突然方向が変わる/決壊すると、遠さと近さが生まれる/燃焼工程>
21. 都市の仕分け人
22. ハイパーマーケット
23. オガサワラマラソン
24. 私にとってこの街は…
25. あるランナーの告白
26. うずまきのリズム
27. あなたが踏んだ場所は、すべてあなたのものに、
28. スニータ・ウィリアムズの告白
29. 方舟
30. 「連なる(縦)」:ダンス
<緑、街中、路地、上から下から/アスファルトの上の呼吸/息を確かめる/足の下に生えるもの、足の下へ押し込むもの>
31. 傷ついた島
32. エピローグ「連なる(loop)」:ダンス
33. 学問の厳密さについて
34. 私にとってこの街は…
35. 「球面を進む光」:ダンス
<実現を待っている無数の事実>

末期がんの“看取(みと)り医師” 死までの450日

住職であり医師でもある田中さんは、1000人以上の方の
最期を看取ってきた方で、DNR(蘇生措置拒否)を望む患者には、その意思を尊重されてきた。その田中さんが膵臓がんのステージ4であることが発覚し、亡くなられるまでの450日間を取材したドキュメンタリーだった。

田中さんもやはりDNRであり、最期は痛みを和らげる薬と睡眠薬で眠りながら死ぬことを望んでいた。医師でもある妻はそれを重々承知していた。

田中さんは、意識が混濁し始める。うわ言のように妻の名前を呼び続け「お願いします、お願いします」と懇願する。それはおそらく、痛み止めと睡眠薬を打って欲しいからだろう。妻は、躊躇する。それを投薬するということは、もう会話もできないままお別れになってしまうからだ。娘も「もういいんじゃない」と言っても、それでも投薬しなかった。

田中さんは意識が混濁し、体がふらつきながらも、妻の名前を呼び、そして抱きついて離れない。人までは手さえも繋ごうとはしなかった人が。しかし、やがて、田中さんは痛みを堪えきれず暴れるようになって初めて、妻は投薬した。

それでもだ。妻は諦めきれず、何時間に一度は、投薬をやめて田中さんを起こす。そして田中さんの好物だったアイスクリームを食べさてたり、ベッドにベルトで固定させながら立たせたりする。

そして、ある朝、撮影クルーに「今朝逝きました」とメールが入る。やすらなか寝顔だった。妻は、田中さんの胸をはだいて、延命措置の注射針の痕を見せてくれる。もう田中さんのDNRなど構ってはいられなかったようだ。なぜもっと早く発見することが出来なかったのかと悔やむ。葬儀が終わり、火葬場に向かう時、妻はとても行けないと言って泣き崩れる。

ありのままの姿を見せて頂いた。涙が止まらなかった。

https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/92935/2935010/index.html

田中さんは末期がんの方の傾聴もずっとされてきた。
話をひたすら聴くそうだ。
それによって、その方の物語が完成すると仰っていた。

田中さん自身はNHKの取材者に、「これは私へのケアです」
と言って、取材されていることを感謝されていた。
だから、旅立った後のお顔は、穏やかだったのだろうか。

身近な人の物語、完成させたいなぁ、いつか。

タイムズ

「演劇三昧」で観た。
とても無機質な感じがした。
そして自分は歳をとりすぎたのかもしれない。
想像も及ばない未来の形態なのか。
でも、フェイクエンジェルズは「馬」を選んだ。
還る場所を求めて。

ヒラカタ・ノート

観劇三昧で、この作品を観た。

架空都市ひらかたの巨大団地群を舞台に
ひとりの男が少年から青年になっていく過程で
彼女を交通事故でなくし
無為な大学生活、引きこもり
そして再び歩き始めるという物語を軸に
事故で亡くなった彼女が
その直後に団地の敷地内で歩いたという風景の描写や
そして、時空を超えた終末世界での
少女と老人の物語などを絡ませながら描かれた芝居だ。

コロスが登場した。
ボディーパーカッションの演奏や
一人の役をまるでハレーションのように
数人で演じたり
効果音をハミングでおこなったりなど
縦横無尽に舞台を彩っていた。

行間から滲み出る
自分の存在意義
生きることとは
何処に向かっているのか
そんな問いかけが
とてもせつなく
そして幻想的な文学作品のように思えた。

台風前昼

 

大阪は午前中から暴風警報が出ているが、時折、陽がさしたりして青空も見える。着実に台風は迫っているとは思うが、もう何十年も、まともに台風がやってきたことがないから、今回もどうせ大したことはないと高をくくってしまう。

半世紀ほど前のことだが、その頃住んでいた家は、木造中二階建てで、通りに面するところは出格子になっていたので、台風がやってくると、その上に大きな戸板を打ち付けた。それは父親の役目で、近所の人たちも同じ時間に同じような作業をしていたので、大人たちは皆、お互い手伝ったりしていた。板に釘を打つける金槌の音が、近所に溢れた。

家の中では母親がロウソクやおにぎりの準備をしていた。そんな非日常に、不謹慎ながらわくわくしたものだった。で、台風は本当にやってきて、風は吹きすさび、家はガタガタと揺れる。停電もした。家族は、ロウソクを囲んで、おにぎりを頬張りながら、台風が通り過ぎていくのをじっと待った。台風が過ぎ去った頃、近所の男たちはステテコ姿で表にでてきて、空を見上げる。何やら談笑した後、戸板をはずす作業が始まる。そんなセピアなシーンが思い出される。

でも、子どもの頃を過ぎると、いつのまにか台風はやってこなくなった。いつも大阪の手前でどこかにコースがはずれてしまう。住んでいる家も、コンクリートの集合住宅になったので、ベランダを簡単に片付けるだけで、なんの準備もいらない。なにも協力しあう必要もない。サッシを閉めたら風の音もほとんど聞こえない。台風だからといって、家族も集まらない。

僕の周りには台風が来なくなったのではなく、見えなくなったのだろうか。

屋上のペーパームーン

ばりばり大阪弁だらけの犯罪コメディ!と表現したら、なんかダサイから、やっぱりピカレスクロマンか。でも、ロマンって小説って言う意味らしいから、ちょっと違うか。ま、どうでもええや。

1973年の未解決「大阪ニセ夜間金庫事件」がモデルの芝居。いつも上品な芝居ばかり観ているから(笑)、今回はのっけから、そのあまりにもヤクザで、ちょっとアホなアウトローたちの出現に、劇場の空気がぎゅっと少なくなり、息苦しくなった気がした。それぞれの役者さんの個性が強烈で、特に戎屋海老さん演じるフトマキのちゃらんぽらんで体弱そうな感じが、ハマってしまった。「山の声」の加藤丈太郎との落差に痛く感心する。

初演は、本当にビルの屋上で上演されたらしい。観たかったなぁ。想像しただけでも、どきどきする。

今から40数年前の犯罪って、監視カメラなどほとんどなかったから、ちょっと頭が良かったらやりたい放題やったかもと思う。なんせ、この事件、ハリボテの金庫に皆さん、お金を入れたんやから。計算あやまって、たくさん集まりすぎたらから、底が抜けてしまって発覚したんやし。なんか滑稽で笑ってしまうような犯罪や。もっとも、これがうまく成功してて、お金を預けた人が泣き寝入りして、人生どん底に落ちてしまっていたら、笑い事ちゃうけど。でも、なんか、抜け穴だらけの、ゆったりとした、ほっとしたものを感じるのは、僕だけやろうか。今の時代は、もうなんかすべてがデジタルになってしまって、生きづらいよなぁ。

「この先、世界はジワジワ崩壊していくだけや。それやったら、ここに居って、ここでケンカするんが真っ当やろ。そうは思えへんかイナリ?」

赤道の下のマクベス

ものすごく観たいです。
大阪でも是非、公演していただきたい!
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昨年、新国立劇場で連続上演された記憶も新しい『たとえば野に咲く花のように』『パーマ屋スミレ』『焼肉ドラゴン』と、日本の戦後史を描いた『鄭義信三部作』。来年春、待望の4作目『赤道の下のマクベス』が上演されるが、そのメインキャストが決定した。池内博之、平田満はじめ浅野雅博、尾上寛之、丸山厚人など、実力溢れるエネルギッシュな俳優たちが出演する。
舞台は1947年、シンガポール、チャンギ刑務所。第二次世界大戦のBC級戦犯として収容されていた日本人と元日本人だった朝鮮人の物語が描かれる。
【あらすじ】 
1947年夏、シンガポール、チャンギ刑務所。死刑囚のみが集められた監獄Pホールは、演劇にあこがれ、ぼろぼろになるまでシェイクスピアの『マクベス』を読んでいた朴南星(パク・ナムソン)、戦犯となった自分の身を嘆いてはめそめそ泣く李文平(イ・ムンピョン)、一度無罪で釈放されたにも関わらず、またつかまり二度目の死刑判決を受けるはめになった金春吉(キム・チュンギル)など朝鮮人の元捕虜監視員と、元日本軍人の山形や黒田など、複雑なメンバーで構成されていた。BC級戦犯である彼らは、わずかばかりの食料に腹をすかし、時には看守からのリンチを受け、肉体的にも精神的にも熾烈極まる日々を送っていた。ただただ死刑執行を待つ日々……そして、ついにその日が訪れた時……。

つねに庶民の側から温かくも鋭いまなざしで大きな世界を描く熱い鄭義信ワールド。今から期待が寄せられている。

〈公演情報〉
新国立劇場 開場20周年記念 2017/2018シーズン
『赤道の下のマクベス』
作・演出◇鄭義信
出演◇池内博之 浅野雅博 尾上寛之 丸山厚人 平田 満 ほか
●2018/3/6~25◎新国立劇場 小劇場
一般発売日 2018年1月20日(土)10:00~
〈料金〉 A席6,480円 B席3,240円(全席指定・税込)
〈お問い合わせ〉新国立劇場ボックスオフィス:03-5352-9999(10:00~18:00)
http://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/16_009660.html

さよなら家族

 

「伊丹の物語」として3年かけて地元を取材し、できあがったごまのはえさんの戯曲。
伊丹に住む豆腐屋を営む架空の家族の変遷を辿りながら、
伊丹の歴史をちりばめた心温まる物語だった。

とてもせつなくて、羨ましかった。
僕が伊丹の住人なら涙がハラハラと止まらなかったかもしれない。

細かな小道具はいっさい使わず、すべてパントマイムでおこなわれ
特に、高安美帆さんの豆腐を作り上げていくマイムは、とても美しかった。
なぜか、映画「あん」での、あずきを作るシーンが目に浮かんできた。

池川タカユキさんの、あのわけの分からんほどアホみたいな「こうじ」も良かった。
姉が突然泣き出して、それを心配したこうじが
「どないしたん」って聞いたら
姉が「お願いやから死んで」
それを聞いたこうじも泣き出して
二人でわんわん泣いてるところなんか最高!

しかし、171号線で、ゾウの行進があったとは。
そのゾウたちが武庫川で一晩過ごしたとは。
伊丹がストリップのメッカだったとは!

いつか自分の町の物語を作ってみたいと
思わせるほど、刺激的な演劇だった。
いっぱい笑って、いっぱい感動した。

ええわぁ、演劇って。

 

もうゴドーさんは待ちません

 

はるばる京都へ「ゴドーを待ちながら」を観てきた。
事前に戯曲を読んだ時も、何度も眠りに落とされたのだけれど、
舞台を観ても、この芝居の何処がいいのか分からず、
気づいたら寝てしまっていて、
結局良さが分からないままになってしまった。

ま、分からんもんは分からんでええと思ってる。

観客はなんか上品で賢そうな人が多かったような。
しかし、英語の劇に字幕がついてたのだけれど、
タイミングがずれてるし、端折ってるし、
ちょっとええ加減な仕事ではないのかなと思った。

あきらめない、世界を

 

「言葉の対極に暴力」という劇中のフレーズを噛み締めながら、振り返ってみる。

脚本・構成・演出の岩崎正裕さんが「ため息しか出ない現代社会を炙りだすために、私たちは『笑い』をその方法とした。」「しかし、その背景は深刻で重い。その重さは、日々を生きる私たちの肩にのしかかる。けれども舞台を生きる俳優たちが、軽やかにその重石を跳ね除けてくれるのではないか」とパンフに書かれていた。

「空爆のニュース日本に流れてむせびなくなり沖縄の老母」という短歌をかわきりに、放送禁止用語や放送禁止歌のレクチャーが始まる。戦前戦時中の治安維持法下での、検閲された舞台の再現や、戦後のまるでレコード会社の忖度で発売禁止になった、例えば「イムジン河」のことなどを、歌も交えながら、軽やかに展開されていった。共謀罪のコントもあったが、最初は笑えていたけれど、ただのコントで終わらず、心を揺さぶられる。

 特に、最後の短編戯曲「あまりに多くの人がベンチに」には、鳥肌がたつほど素晴らしかった。高校生男女の二人芝居だ。男子は、野球部の補欠ピッチャーだったが、マウンドにあがることなく負けてしまった試合を嘆く。ベンチに座ったまま、なにも出来なかったもどかしさを。それを受けて外国人のサラは、自分の体験を語る。自分が住んでいた村にゲリラがあらわれ川へと逃げたが、好きだったおじさんが少年兵に銃で頭を撃ちぬかれた。その時、川の中にいた自分は何もできなかった、と。他の俳優たちの声も、重層的に、まるでオーケストラのように迫ってくる。息苦しくなるほど、胸に響いてきた。

俳優のなかに現役の高校生だろうか、普段来ている制服のままのような人たちが3人いた。彼らが最後に「あきらめない、世界を」と宣言して幕が閉じられたのは、とても印象的だった。

そして何よりも存在感があったのは、河東けいさんだ。91歳。2年前は杖をついて出演されていたのに、今年は杖なしで出られていた。河東さんの声は、心の奥まで染み込んでくる。

いい芝居を観たあとは、誰かと語りたくなるというか
人恋しくなる。
なので、帰りに立ち飲みに寄った。
でも、やっぱり喋る相手はいないので、さっさと地酒を2杯飲んで帰ろうと思ったら
偶然にも、同じマンションに住む人と一緒になった。
芝居とは全然関係ない話をしたけれど、いい気分で帰ることができた(笑)

紙屋町さくらホテル

 「紙屋町さくらホテル」は、井上ひさしが、1997年に新国立劇場の杮落としのために書き上げた作品だ。井上ひさしの新作は、なかなか台本が仕上がらないのが有名で、この芝居でも、抜擢された大物俳優たちが数人、辞退したほどだった。案の定、上演2週間前でやっと最後のページが仕上がったそうだ。
 井上ひさしが選んだ人物は「丸山定夫」という新劇の団十郎と呼ばれた、大正から戦時中にかけて映画や舞台で大活躍をしていた役者だ。丸山定夫は、「築地小劇場」という劇場で花開いた役者であった。
 「築地小劇場」は、関東大震災(1923)の後、土方与志伯爵が私財を投げ打って建てた、日本初の新劇専門の劇場で、新劇運動の拠点となったが、東京大空襲(1945)で焼失した。築地小劇場が完成した翌年(1925)に治安維持法施行、その3年後には特高警察が全国に設置され、脚本の検閲も厳しくなっていった。役者や演出家たちは、時には留置場に勾留されたりもしながら、それでも芝居を続けていった。
 築地小劇場の演出家の八田元夫が1933年2月に数日勾留されたことがあったのだが、開放された翌日に、同じ警察で小林多喜二が拷問死させらている。八田が勾留された時に、たまたま法務官が警察署にいたから、拷問されなかったのだろうと後述している。
 しかし、1941年、大政翼賛会の中に日本移動演劇連盟というのが設置され、演劇人たちはプロパガンダのために、強制的に地方巡業の演劇隊に組み入れられてしまった。その中の一つが、丸山定夫を中心とする「桜隊」であった。
 井上ひさしは、その「桜隊」を、ひらがなで「さくら隊」と称し、実在の人物と、井上ひさしが創造した人物を織り交ぜて、「紙屋町さくらホテル」を作り上げた。実在の人物は、丸山定夫、園井恵子、長谷川清の三人だ。園井恵子は元宝塚の女優で、映画「無法松の一生」に出演して全国区のスターだった。長谷川清は元海軍大将で、実際に天皇の密使であったが、現実には桜隊との接点はなかっただろうと思う。また、桜隊が最後に取り組んでいた芝居は「無法松の一生」ではなく、三好十郎の「獅子」という戯曲だった。「桜隊」がいた場所も紙屋町ではなく、堀川町で、そこは爆心地から数百メートルの場所にあったため、当時そこにいた9人の役者たちは8月下旬までに全員死亡した。
 苦難の道を歩みながらも演劇に取り組んできた人たちを讃え、演劇の素晴らしさを高らかに謳っているのが、この芝居の真骨頂だ。そんな台詞を書いてみる。
「俳優はこの世に生をうけたありとあらゆる人間を創り出すことができるんです」
「人間の中でも宝石のような人たちが俳優になるんです」
「なぜならこころが宝石のようにきれいで、ピカピカに輝いている者でないかぎり、すなおに人のこころの中に入って行って、その人そのものにになりきることができないからです」
「ほんの数分間のうちに、突然、「ああ、いま、わたしは自分の人生の本当の意味を知っている」と、そう思い当たるときって、ありますね」
「わたしはいま、一人ではできないことをしている、一人の人間の力をはるかに超えたなにか大きなもの、なにか豊かなもの、なにかたのしいもの、それを望んで、それをたしかに手に入れている。わたしの探していたものはこれ、ここにわたしの人生の本当の意味がある」
 戦争というものは、もしかしたらブラックホールだ。そこにあった確かなものを容赦なく飲み込んで、虚無にしてしまう。儚くて悔ししい。
 でも国策に翻弄されながらも、キラキラ輝きながら生きた丸山定夫や園井恵子たちを、井上ひさしがパラレルワールドの中に息を吹き返させた。そして今回、その世界を「演劇集団よろずや」が大阪に、再び蘇らせてくれた。そうやって僕は過去と繋がっていきたい、繋がってるなんて勝手な思い込みかもしれないけれど。無念にも消されてしまった彼らの思いの片鱗の、さらにその一部でも良いから感じてみたいのだ。
 僕は思うのだが、1940年台の膿を、日本人は出しきらないといけないと思う。出して出して出し切った頃にやっと、何かが見えるような気がする。
 戯曲を読むだけでは感じなかったこと、それは熊田正子の存在感やら、戸倉八郎のキュートさ。もちろん、どの人物もキャラがくっきりたっていたけれど、熊田さんに関しては、どっから見ても広島人にしか見えなかった。もちろん、大島教授のN音についての話からの教え子の特攻隊の話には、思わず泣いてしまったし、園井恵子の少しコミカルなところも面白かった。ああ、芝居っていいな。

この世界の片隅に

今更ながら、やっとというか
ついにというか
この映画がまだ製作中から
友人にずっと薦められてきて
で、今日、観た。

中にはこの映画は、戦争の実相を表現していない
戦禍に生きるって、こんなもんじゃない
と、批判する人もいるが
ま、僕はその時代に生きたわけじゃないし
批判している人も、その次代に生きていた人が言ってるわけじゃないので
なんというか
この映画の見方は人それぞれであっていいと思うし
それに、戦争中でも、田舎のほうにいれば
なかには空襲に遭わなかったり、
農作をしてひもじい思いもせず
生きていた人もいるらしいから
ま、それは一部だったかもしれないけれど
目くじらたてて批判するほどでもなく
その文学性を評価してもらえたらなと思ったりする。

きゅうりの花

なにかもやもやする。
軽妙な会話劇で展開していくけど
孕んでいるものは、なにかずっしりと重くて暗い。
そしてそれを、カタルシスすることもなく幕は降りてしまった。

遠い夏のゴッホ

土の中で将来、一緒に地上に出てセミになろうと誓いあったゴッホとベアトリーチェのふたり。ところが、ゴッホの計算違いで、1年早く、ベアトリーチェを残したまま、ゴッホはセミになってしまう。セミの命は長くて一ヶ月。でも、ベアトリーチェとの約束を守りたく、出来るだけ鳴かずに長生きしようと決意する。でも、そんなゴッホにさまざな試練が待ち受けていた…。

とても、美しい物語だった。
変わっていくものと変わらないもの。
ゴッホは、変わらないものを守り続け、やがて奇跡を起こす。

ナマの舞台で観たかったなぁ。