エルネスト もう一人のゲバラ

 

 我が同郷堺の映画監督阪本順治が何度もキューバに赴き、取材を重ね完成させた作品だ。今のメジャーな映画界では取り扱われにくい素材であるが、監督をはじめ出演者やプロデューサーたちがゲバラファンであることから奇跡的に映画化することが出来たと監督が仰っていた。

 映画の中のエピソード、例えば、カストロが夜中に医学生たちを訪ねて不満はないかと尋ねたら、学生たちは便所が汚いとか飯が悪いとか答えて、その後バスケットボールを一緒にして帰った話とか、友人が孕ませた女性とその子供の面倒をフレディがみた話とか、これらは取材から得た本当の話であるそうだ。

 ゲバラやフレディに最高の敬意を払いながら脚本を書いたためか、その心労で監督は現地でご飯が喉を通らなくなったらしい。それを案じた滞在先のメイドさんが、自分の昼食のサンドイッチを、わざわざ一口かじって「食べて」と分け与えてくれたそうだ。あまり裕福でないので質素なサンドイッチだったけれど、それでも困った人がいたら分け与えるというキューバ人の優しさに触れたと仰っていた。

 映画の中でゲバラたちが広島に行くシーンがあるが、実はその直前までゲバラたちは堺の石津にいたらしい。石津にある久保田鉄工で耕運機に試乗していた。キューバの資料館でそんな写真も監督は見てきた。そして監督が言うには、

「そんなことを知っていれば僕は石津に行ったんですけどね、まだ一歳でしたけど」

 オダギリジョーが司会者から「ゲバラやフレディのような命を懸けて国を守るというのはどう思うか?」と聞かれた時に「今の日本は守るべきものなのかどうかわからですけど、僕の場合は命を賭けるなら映画でその使命を果たしたい」というような趣旨のことを言っていた。

 監督も言っていたが、派手な戦闘シーンなどは少ない。フレディが祖国ボリビアの解放戦線に参加するまでに至った経緯を懇切丁寧に描いているからだ。フレディの最期もあっけない。でも、それがリアルなんだと思った。

この世界の片隅に

今更ながら、やっとというか
ついにというか
この映画がまだ製作中から
友人にずっと薦められてきて
で、今日、観た。

中にはこの映画は、戦争の実相を表現していない
戦禍に生きるって、こんなもんじゃない
と、批判する人もいるが
ま、僕はその時代に生きたわけじゃないし
批判している人も、その次代に生きていた人が言ってるわけじゃないので
なんというか
この映画の見方は人それぞれであっていいと思うし
それに、戦争中でも、田舎のほうにいれば
なかには空襲に遭わなかったり、
農作をしてひもじい思いもせず
生きていた人もいるらしいから
ま、それは一部だったかもしれないけれど
目くじらたてて批判するほどでもなく
その文学性を評価してもらえたらなと思ったりする。

Moonlight

いろんなことを深く考えさせられる映画だった。
黒人であること。
麻薬との関わり。
LGBTであること。

普通の映画なら描くであるような
エピソードはわざと省略し、鑑賞者の想像と創造に委ね、
視線はマイノリティーに向けながらも、
その距離は近づきすぎることもなく淡々と描いているようだった。

満月の夜に海辺で騒ぐ黒人の子どもは、
月の光を浴びてブルーに輝く
そうだ。

キチジロー

「沈黙」を観て、キチジローは自分だと思ったが、やはりマーティン・スコセッシ監督も同じことを言っていた。

沈黙

「形だけでいいのじゃ」と踏絵を迫る役人。それを拒み、ムシロで包まれて火に焼かれる信者。踏絵に従っても、十字架にツバを吐けと命じられ、そこまでは出来ずに、波打ち際で十字架に貼り付けられ、殺される信者。司教に棄教させるために、すでに改宗した信者をムシロに包んで海に放りなげたり、逆さ吊りにしたりして殺す為政者。

残酷なシーンも多々あるが、リアリティのある重厚な映像で、人物の描き方もステレオタイプではなく、特に塚田さんが秀逸だった。しかし特定の宗教に帰依していない自分にとっては、根底に流れるものに理解しがたいところがあったように思う。貧困や圧政からの心の救済としての宗教に踏みとどまらない恐怖を感じたからこそ為政者はそこまで迫害をしたのだろうけれど。

「形だけでいいのじゃ」とそこまで為政者は譲歩しているにも関わらず、信者はその形にまで拘る、そこが宗教に価値を置いていない僕には分からず、おそらく為政者と同じ恐怖を僕は味わっているのではないかと思う。何を思っているのか分からない恐さ。でも、逆に言えば、そこは為政者が立ち入ってはならない領域だ。卒業式で君が代を歌わない自由、日の丸に起立しない自由、それが冒されている今の時代にも通じるところがありやなしや。

JB&追憶の森

「ジェイソン・ボーン」を観た。確かにおもろかった。たぶん今までの4作品は全部映画館で観てると思う。そのたびに、おもろかったと思うけど、次の作品ができる頃には、どんな内容だったのかもう忘れてしまってる。覚えていたら、もっと面白いだろうに、DVD借りて予習するのは面倒くさい。きっつい炭酸の飲み物飲んだような感じかな。背もたれに持たれず、前のめりになっても疲れない映画であったことは間違いないけど、でも、すぐ忘れるんやろうな、今回も。

家では「追憶の森」を観た。マシュー・マコノヒーと渡辺謙とナオミ・ワッツの3人芝居の映画で、原題は「The Sea of Trees」。青木ヶ原の樹海で彷徨う男二人の話しだ。レビューを見ると、むっちゃ評価が低い。カンヌ映画祭でもブーイングがあったとか。確かに、ツッコミどころがいろいろあるし、僕がもっと若かったら、もしかしたら低評価かもしれないけれど、いまの僕には好きな類だ。痛みを持って生きる切なさに惹かれたのかもしれない。この切なさは、いつまでも覚えていそうだ。

海よりもまだ深く

切なくて胸が苦しくなるような映画だった。
とくに大きな出来事があるわけでもなく
ただ、なりたい大人にいまだになれていない大人を描いているだけだけど。
まるで、自分だ。

「あんたが種から植えたミカンの樹、こんなに大きくなったよ。
花も実もならないけどね。
でも、葉っぱに青虫なんかがいててね、なんかの役にたってるよ」

「『海よりもまだ深く』人を愛したことなんてないから
こんな毎日でも生きてられるんだよ」

樹木希林って、与えられた台本の台詞を言っているように思えない。
まるで彼女自身の言葉となって響いてくる。

まったく着地点を見つけることができないのは
自分だけなんだろうかと不安になるから
たぶん沁みるんだ、この映画は。

だから、何もかもうまくいっているあなたには
この映画は分からないと思う。

スターウォーズ/フォースの覚醒

このまえ「スターウォーズ/フォースの覚醒」をレンタルして見ました。第1作を学生時代、オールナイトで映画館で観たものにとっては、スターウォーズって特別の思いがあったので、最初の3部作の続きということで楽しみにしていました(だったら映画館で見ろよって感じですが)。
しかし、なんちゅうたらいいんですか、もう若い時に感じたドキドキ感や爽快感はなかったというのは、もはやディズニー映画になってしまったということですか。
悪役があかんのです。昔のダースベーダーは無慈悲で怖かったです。正義に立ちはだかる大きな壁でした。しかし、今回のファーストオーダーってなんですの。どっかにも書いてありましたが中二病やないですか。自分の思い通りにならないと、あの光がでる剣…えっとなんでしたっけ、えっとぉ、あ、ライトセーバー。そのライトセーバーを振り回して、宇宙船の機器やら壁を壊しはりますねん。んで、なんとファーストオーダーは、レイア姫とハン・ソロの息子やっちゅうないですか。息子が荒れてしまったから、夫婦の仲が悪くなり、しばらく別れてはったようなんですが、今回この映画で再会ちゅうわけで、それで、ハン・ソロは息子を暗黒から救い出そうと説得しはりますねん。ほんならなんと、ファーストオーダーは仮面をはずして、泣きながらお父ちゃんに「僕も苦しかったんだ」なんてこと言いながら、ライトセーバーはハン・ソロに渡そうとしますねん。
ところが、そこが積木くずしの最悪の息子ですわ。そのライトセーバーのスイッチ入れて、なんとお父ちゃんを刺してしまいますねん。ほんま最悪です。よわっちいくせに、そんな展開ですわ。ほんま、なんていうか、次元の低い話になってしもたスターウォーズです
で、思ったんですが、これって今の世の中を反映してるんやなと。このよわっちくてわがままでとんでもないことするやつって、おりますよね。あいつらです。…なんやアベとかハシモトやトランプと重なりますわ。ほんま。
はよ、この日本、そして世界を暗黒面から救い出さなあきまへんな。

 

The Revenant

すごい映画を観た。

今までに観たことがないようなカメラワークだった。
3Dでもないのに、どこから矢が飛んで来るかわからない場面もあって、ドキドキした。ストーリーとしては単純な内容だけど、あまりにも壮絶すぎる。クマに襲われて死にかけても、復讐のために蘇ったというアメリカでは伝記上の人物らしい。

しかし。一緒に観た連れ合いは、「内容がないやん」って、あっさり切り捨てる。

音楽もまた素晴らしい。エンドロールで音楽をしっかり聴こうとしたなんて、これもまた初めて。音楽の中に吸い込まれていくような感じになる。

しかし。連れ合いは、「むっちゃ暗いやん、気分が落ち込むわ」と切り捨てた。

ま、ええけど。

昔からディカプリオは他人のように思えない。自分をみているようだと感じるのだ。むかし、どこかで兄弟だったのかもしれない。

なんて言うたら、どないなるか分かっているので、誰にも言わないことにしている…。

野火

唯一、主人公の田村が笑う場面がある。
彼を拒否していた野戦病院の軍医が目の前で機銃掃射に遭い、頭が吹っ飛ぶ。そして病院も燃えてしまう。燃え盛る病院の前に突っ立ったまま、彼は笑う。でも、映像的には背後の火事が明るすぎるので、田村の姿はほとんどシルエットだけなのだが、何故か白い歯を出して笑っているのが見える。この映画の「狂気」の始まりだった。

田村がひとりジャングルを彷徨い、対峙する自然はあまりにも荘厳で、もしかしたらこれも狂気なのかもしれない。肺を病んでいる田村は真っ赤な血を岩の上に吐く。灼熱の岩の上で、その血が沸騰する。赤黒い花が咲き乱れていくようだ。肺病の吐血までアートに描こうとする監督の狂気を感じる。

ハリウッド映画などで「これが戦争の実相だ」とか「強い絆で結ばれた男たちのドラマ」とかなんとか宣伝された戦争映画があるけれど、この映画と比べたら、笑止千万ものである。この映画に「匂い」がなくて本当に良かったと思う。もし匂いがあったら貧血で倒れているか、ゲロまみれになっていたことだろう。

そしてヒューマンなドラマなど一切ない。どうやって自分が生き残るか。食うか食われるかの駆け引きだけの「餓鬼」となってしまうのだ。太平洋戦争での戦死者230万人の6割にあたる140万人が、この「餓鬼」にさせられてしまった。これこそ、戦争の実相だ

あん

いつも思うけど、河瀬直美監督の映画って、なんであんなに役者さんたちが自然な演技になるんやろう。役者さんたちだけでなく、スクリーンの中にあるものがすべて自然で必然のように見える。車の音とか子どもたちの嬌声とか風の音とか犬の鳴き声とか、セリフと重なっているのに邪魔にならない。カメラワークも人の目のように優しい。なのでいつもきっちりフレームの中に入っているとは限らない。カメラが追いつけないシーンもあったりする。だからこそ、観客も違和感なく映画の中に入っていけるのだろうか。纐纈あやさんの映画と共通する。

そして樹木希林さんは樹木希林ではなく徳江さんなんだ。あずきを蒸している蓋の上に頬を寄せるシーンにふいに涙が出てきた。徳江の姿があまりにも美しすぎて。徳江の透明感がたまらない。

差別から徳江を守れなかった千太郎(永瀬正敏)が、徳江の作った餡を食べながら涙を流すシーンも、同じように涙がポロポロでてきた。

泣けるから良い映画だと言っているのではない。なんていうか心をとても揺さぶられるし、たぶん何度観ても、その度に新しい発見がありそうな映画だと思う。

フューリー

DVDで観ました、これ。
つまらんかった。
どこが「反戦や博愛といった主義主張の一切を排した、ある意味で究極にピュアな戦争映画」か。むっちゃ安易な設定っていうか、この映画の結末。はぁ?って感じです。ところどころに残酷な場面を差し込んであるだけで、これがピュアな戦争だって言わんとってほしいわ。

セデック・バレ

1930年、日本統治下の台湾で起こった最大規模の抗日暴動・霧社事件(セデック族による運動会中の日本人を140人殺害)を元に脚色されたもので、いくつかの映画賞も受賞している映画だ。日本でも2011年大阪アジアン映画祭とミニシアター系で上映されたようだが、僕は知らなかった。第一部と第二部を合わせて4時間半の超大作だ。

「アバター」の史実的台湾版だとも言える。被植民地の原住民が統治者に対して、命と名誉をかけて闘う。首狩り族でもあるので、残虐な戦闘シーンもとても多い。映画では日本軍や警察隊は苦戦を強いられかなり死んでいるように描かれているが、実際には28人亡くなっているだけで、靖国神社に祀られているとか。

しかし、主人公モーナ・ルダオを演じるダーチン(青年役)とリン・チンタイ(壮年役)のカッコイイこと。二人共映画初出演にも関わらず、ものすごい存在感で迫ってくる。特にリン・チンタイはタイヤル族の部族長で牧師でもあるそうだ。あの足の筋肉にもほれぼれだ。モーナ・ルダオは、霧社事件のあと消息が不明になり、だいぶたってから遺骨が見つかったのだけれど、再び遺骨が消えてしまい、また出てくるという亡くなってからもミステリアスな存在だ。そのあたりは「セデック・バレの真実」というDVDでまた見てみようと思う。

とにかくこの映画は、抗日映画というよりも、モーナ・ルダオの映画というほうがすっきりくるような気がする。エンターテイメント的にもGoodJobだ。

「インターステラ―」を観てきた。

予告編もレビューも一切見ずに、先入観なしで観てきた。
あらすじも分からないので、どんな映画かと思っていたら
これは、「2001年宇宙の旅」と並ぶSF映画の記念碑的な作品ではないかと思うくらい心を震わせながら見入ってしまう映画だった。

舞台は食糧危機に陥ってしまった近未来で、そのためにかどうかはわからないが、莫大な予算が必要な軍隊やNASAなどは解体されてしまっているという前提の部分は、「そんなアホな、食糧危機やったら世界紛争がもっと多発して軍隊がなくなるわけないやん」と思い、さすが脳天気なアメリカハリウッド映画だなと、しらけていたのだけれど、話が少しずつ展開していくうち、そして舞台が宇宙に変わってしまうと、もうスクリーンに釘付けになってしまい、そんなことはどうでもよくなった。

映像も圧巻だ。
ワームホールにブラックホール、そして5次元の世界。
特にワームホールは美しすぎる!
そして畳み込むように時間と空間を超えて交わす父と娘の愛情。
ボロボロになってしまって鼻をすすっている僕を
まったく映画についてこれていない嫁さんは、宇宙人でも見るように僕を見ていた。

久々に重厚なSFを観て、とても幸せな気分だ。
さすがクリストファー・ノーラン監督!

 

「圧殺の海」を観てきた。

ヤマトではほとんど報道されることのない辺野古で行われている政府による新基地作りの実相が映しだされている。昔も今も変わらない沖縄への差別の実態。

基地のゲート前で沖縄の民衆を抑えこむために働かされている若い警察官たち。彼らはどっから見ても沖縄人だ。オバア(島袋文子さん)が話かけても返事はしないが、心が揺れ動いているのが分かる。

でも海上保安庁の奴らは人相が悪い。特にあのヒゲをはやしたやつ。カヌー隊の人たちにあれだけ容赦無いことを出来るのだから彼らは沖縄出身ではないのだろう。

何度も涙が出そうになった。こんな茶番をさせている政府に本当に腹が立つ。金儲けのための戦争、そのための準備をしているだけに過ぎないくせに。

映画に出てきた仲井真は目も表情も死んでいて蝋人形が動いてるようで気持ちが悪かった。そう、だから警官も機動隊も沖縄防衛局の連中も海保もみんな表情が死んでいる。悪魔に心を売ればあんなふうに見えるんだ。仕事は選ばなくっちゃいけない。

それに対して、山城さんを中心とする反対派のみんなのイキイキとした表情。彼らは誰かに命令されたのではなく、自分たちの意志で行動しているからだ。僕もそう生きるぞ。ほんま。

 

「ジョン・ラーベ~南京のシンドラー」を観てきた。

昨日観た「南京!南京!」と比べると、日本軍の蛮行の描かれ方が随分と少なく、この程度でびびって上映をしなかった日本の配給会社は、まったくチキンな奴らだと思った。

ジョン・ラーベ研究家の大阪府立大学の永田喜嗣さんによると、ジョン・ラーベはナチス党員ではあったが、反ユダヤでもなくゲルマン民族至上主義でもなく、意味もわからずにナチスに入党したのではないかと推測されるらしい。

また、「シンドラー」とも呼びがたい。それは、シンドラーのようにユダヤ人を金儲けの為に使用していくうちに心変わりをしていったのではなく、ラーベは最初から中国人を救う気が満々であったということだ。

永田さんに言わせるとラーベは「南京のドン・キホーテ」だ。周りの空気が読めないほど、まっすぐな正義感を持ち、そして心に国境を持っていなく、相手の立場がよく分かる人物だったそうだ。

今まで映画では4度ほどラーベが描かれたことがあり、その中ではこの映画が一番よくラーベが表現されているそうだ。しかし、それでも永田さんの話を聞くと、ラーベはもっともっとピュアで愛すべき人物だったように思えて仕方がない。

このピュアで空気が読めないほどの正義感が、南京の20万人を救う奇跡を起こしたのだ。「みんなドン・キホーテになりましょう!」と永田さんはおっしゃっていた。

 

ザ・イースト

だますアホゥにだまされるアホゥ♪
おなじアホならだまさな損損♪
ってな感じの世の中やね、今や。

もう矜持など持ち合わせてない。
理想も何もない。
ただお金があって、贅沢できればいい
ってな感じやろな。

ハリウッド映画だけど、なかなかオモロイ映画を観た。
テロリストの中に潜入操作する民間のエージェントの話だ。
テロリストもアルカイダのようなものではなく
環境破壊などをする大企業にお仕置きをするようなグループで
一般市民にとっては胸のすくような話でもある。

その映画の一場面は、どこかで聞いたことのある話をアレンジしたものだった。

潜入に成功した調査官が食事に招待される。
しかし、拘束着を着用させられて食堂に連れられていくのだが
全員同じ拘束着を着ている。
スープに大きくて長いスプーンが入っている。
捜査官から「先に食べなさい」と勧められる。
捜査官は、口で大きなスプーンを横に退けて、さらに口で皿を手繰り寄せて、犬のように食べようとするのだが、みんなの冷たい視線を感じて諦めてしまう。
テロリストたちが食べ始める。
彼らは、その長いスプーンを咥えて、隣の人のスープをすくい
そしてそれをその人に食べさせたのだ。
お互いに食べさせ合うことによって、その食事会が成立する。

私達の生活がそうであれば
そして社会が、国々が、そうであれば
どんなに平穏に暮らせるだろうなぁ…

ハンナ・アーレント

ナチス政権によるホロコーストに関与し、数百万のユダヤ人を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担ったアドルフ・アイヒマンを、ハンナ・アーレントは「凡庸な悪」と名付けた。また、ユダヤ人の中にもナチスへの協力者がいたことも暴露した。それらのことにより彼女はユダヤ人社会のみならず多くの人々からバッシングを受けることとなり、親しい旧友さえも無くすこととなった。

ハンナ・アーレントは、アイヒマンの行為を“人類への犯罪”としたのだ。それは病床に伏したクルトとの会話にも表現されている。

「同胞に愛はないのか?もう君とは笑えない」

と言ったシオニストのクルトに対して

「一つの民族を愛したことはないわ。ユダヤ人を愛せと?私が愛するのは友人、それが唯一の愛情よ。Ich liebe dich.」

と彼女は答えるが、もう彼が振り向くことはなかった。

ラストの教室での講義が圧巻であった。聴いていて身体が熱くなり涙が溢れそうになった

「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考が出来なくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです」

「“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなるとです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう」

凡庸な悪ゆえ、“アイヒマン”は至る所に存在し、いっぱい見てきた気がする。誰も責任をとろうとしない日本人の官僚的気質はまるで、そのものだ。そして自分自身もなり得る可能性は十分にある。いや、すでにいろんな場面で加担してきたかもしれない。

色んな意味で大変な年になるかもしれない年明けにこのような映画を観たのは、何か示唆的でもあり、力をもらったような気もして、幸運であった。

かぞくのくに

静かな映画だった。その静けさの中に、さまざまな感情が塗り込められていたように感じる。しかしその感情の振幅に振り回されるほど、僕はその背景や歴史をきちんと把握できてはいない。

だから中途半端にしか勉強してこなかった僕にとっては、もやもやとしたものが残っている。もっと知らなければと、そういう思いが先に立つ。

彼の国の批判はいくらでも出来るが、「地上の楽園」を目指さざるを得なかった日本の社会というものが、どうであったのか。映画ではまったく語られていないだけに、逆に胸が塞がる思いだ。

彼の国へ急に帰国せざるを得なくなった時に妹を慰める言葉に、「思考停止は楽なんだ」と言いながらも妹には「お前はいっぱいいっぱい考えて、いろんな所に行くんだ」という台詞があった。

私たち日本人の大半は、今や自発的に思考停止してしまっている状態だ。とりあえず今の生活さえオモシロ楽しく生きていけりゃいいと。そう、此処こそがまるで地上の楽園であるかのように。

そんな様々なことを考えさせられてしまう良質の映画だったと思う。

 

ミャンマー軍政下20年の真実~フォトジャーナリスト・再会の旅~

「私はただのビルマのシンボルに過ぎません。もしこの国を取材したいのなら、私ではなく普通の人々を取材して下さい」というスーチーさんの言葉で、宇田有三さんは、ビルマを隈なく歩き、軍政下に生きる民衆の中に入って取材しようと決心した。

そしてこの春、民主化に動き出したビルマを訪れ、今までは顔や名前を明かせなかった人々と再会する旅にでた。

日銭暮らしの漁師や服の仕立屋までが、熱く民主主義や人権を語るビルマの人たちが映し出される。そのために命をかけて戦い、何度も牢獄に囚われてきた人たちだ。そのビルマが今、民主化に動き出している。何度も騙され苦しめられてきた人たちだから、心の中では半信半疑かもしれないが、スーチーさんの登場に熱狂的になっている民衆たちがカメラの前に居た。

形骸化された民主主義の中でごまかされながら生きている私たち日本人にとっては、とても勇気づけられるものがある。僕たちはまだまだ頑張れるんだって。日本はどんどん右傾化はしているけど、まだ諦めたらだめなんだと。

宇田さんは、先週の講演会で「ビルマは見る人の目によって違ったものが見えてくる」と言っていた。そうなんだとしたら、この映像だけを見て、ビルマを分かった気にはなってはいけないだろう。宇田さんか玉本さんかがちらっと言っていたが、田舎のほうに行くと、スーチーさんのことに対しても醒めた目でみている人たちもいると。また、スーチーさんの発言では武力を否定しているわけでもないと。

そんなビルマを20年も追っている宇田さんは凄い人だなと思う。民主化になってしまったら、僕の出番はなくなるともおっしゃっていたが、政治は玉虫色だ。これからも取材を続けていろいろ教えて欲しいと思う。

http://www.asiapress.org/archives/2012/05/29125658.html

轟音-龍神村物語-

1945年5月5日、和歌山県田辺市龍神村殿原の上空に轟音を轟かせた一機の飛行機が現れた。空襲の経験のない村人たちには、まるで飛行機の悲鳴のように聞こえた。そしてその飛行機が龍神村の山間に墜落して行ったのだ。

その米軍爆撃機「B29」には11人が乗り込んでいて、7人が死亡した。現場では身体の一部が散乱していたり、木に宙吊りになって死んでいた人もいた。住民はそんな遺体に石を投げつけたりした。

生き残った4人のうち2人はすぐに捕まえられ、後の2人は山中に逃げ込んだが、数日後に捕らえられた。捕虜となった米兵は、憲兵隊が宿泊していた旅館に連れていかれたあと、御坊の憲兵隊へ、そして大阪へと送られた。町中を連れて歩く時、石を投げる人やら殴りかかる人もいたが、戦争に行った自分の息子を思い出し、白米のおにぎりを差し入れる人もいたようだ。

大阪へ送られた米兵は、国際法では捕虜は人道的に扱わられなければならないのだが、「B29は無差別攻撃をしたのだから、殺してもかまわない」などの理由で隠密に処刑されたのだという。大阪では52人、名古屋では38人、福岡では41人が処刑された記録があるようだ。

殿原では慰霊碑を建て彼ら11人を弔い、毎年慰霊祭をおこなっている。記録では1945年6月9日から行ったことになっている。ただこの点に関しては疑問が残る。慰霊祭の届けでは戦後に行われているからだ。戦時中に米兵の慰霊祭など行うと、スパイ扱いされるからだ。戦後、GHQから米兵への扱いについての追求を逃れ殿原を守るために工作をはかったのではないかとも考えられる。

しかし、映画ではその真相追求はさておき、戦後、慰霊祭を滞らせることなく、今も続けられているのは、龍神村の人々の心優しい気持ち、命を敬う気持ち、平和を尊ぶ気持ちがあるからこそだと、観ているものに訴えかけてくる。単なる工作であったのなら、70年近くも続けてこられるだろうか。

そして何より重要なことは、この映画を作ったのは大学生だったいう点だ。大阪芸術大学芸術学部映像学科の笠原栄理さんら9人が卒業制作として2010年12月から撮影に取り組み撮影テープは110時間にも及んだという。地元の人たちとも仲良くなり、心のこもった作品に仕上がっている。

笠原さんは「戦争について何もしらなかった。でもこの映画を制作する機会を与えてもらい、一つ一つの内容を調べながら作り上げていく中で、出会ったご高齢の方たちの生の経験を伝えていくことが、私の使命なんだと思えるようになってきた。驚いたことや胸が苦しくなったことを、伝えていきたい」と話していた。

素晴らしい作品だと思う。こんな作品作りの機会に恵まれた学生たちに嫉妬さえ感じるほどだ。そしてその機会を十分に生かし、歴史に残るような作品仕に上げた彼女たちに大きな拍手を送りたい。たくさんの人たちに観て欲しい作品だ。

ひろしま



「ユー・アー・ジェントルマン。パパ、ママ、ピカドンでハングリ、ハングリー。」

これは原爆孤児たちが生き残るために広島を訪れた観光客にかけた言葉である。原爆死没者慰霊碑の周囲にそんな孤児がたくさん居たのだと思う。宮島の防空壕にある骸骨まで売りつけて生活していたのだ。設置された1952年当時は、慰霊碑から望む原爆ドームは、公園内にあるバラック小屋で遮られ、上のほうしか見えない。

そんな戦争の傷跡も生々しい1953年に、原爆の悲惨さを後世に残そうと日本教職員組合が制作した映画が「ひろしま」である。全国の教員約50万人が一人50円ずつ拠出し2400万円の制作費を集め、またエキストラとして広島市民を九万人を集めたという超大作だ。

手弁当のエキストラたちによって、原爆投下直後の地獄図会が再現された。その映像は圧巻で、本編104分中の50分がそれに費やされている。焼けただれた皮膚が指先から垂れるような特殊メイクはなかったが、エキストラ全員が頭から灰を被ったため、撮影後の市内の銭湯は全て無料になったというエピソードもある。また、監督の演技指導がなくとも、エキストラたちの両手は自然に前に出ていて、八年前のその日を思い出しながら涙を流して市民はヒバクシャを演じていたようである。

また女学校の教師役の月丘夢路は、所属プロ以外の映画に出ることが難しい時代であったにも関わらず、女優生命をかけてこの映画にノーギャラで出演した。
このような超大作であるにも関わらず、反米色が強いなどという理由で全国配給ができず、学校上映さえもままならず、そのまま陽の目をみずに埋もれていったのたが、この作品の監督補佐を務めた小林太平さんの息子・小林一平さんによって2008年から広島を皮切りに上映が再開された。原爆投下後の様子が映画史上、一番正確に描かれていると言われるこの作品が、できるだけ多くの人に観られ、原爆の実相が伝わり「平和のメッセージ」となっていくことを望んでやまない。

ニッポンの嘘

ニット帽の裾からはみ出た髪を後ろで括り、眼鏡に白い髭を生やした福島菊次郎さんは、スリムな身体に一眼レフを首から二台ぶらさげ、対象物に向きあって様々な角度から撮影をする。時には寝転がってカメラを構える姿は無邪気でもあるが、悲しいかな地面にぶつかるような92歳のその姿は痛々しい。国家権力に立ち向かってきた反骨のジャーナリストの半生は壮絶で、その根底には、軍国主義に洗脳された己の青少年時代への悔恨と、国家に見捨てられた弱者に対する優しい眼差しを感じる。

福島さんは、23歳で2等兵として徴兵され地獄のような軍隊生活を過ごす。広島の部隊に配属されたが、原爆投下の一週間前に、大分方面に本土上陸迎撃部隊として配置転換となり、蛸壺壕の中で爆弾を抱えたまま終戦となる。

敗戦後、原爆ドームの中に生えた草を撮影しようとしたのがカメラを持つきっかけとなり、その後、被爆者の中村杉松さんを紹介してもらったが、最初のうちはカメラを睨みつける中村さんの目が怖くて撮影が出来なかった。しかし、数年通い続けたある日、「ピカにやられてこのざまじゃ。このままじゃ死んでも死にきれん。あんたぁわしの仇を討ってくれんかのう」と中村さんにお願いされてから本格的な撮影が始まった。原爆病でのたうち回り畳を掻きむしっている写真は、福島さんと中村さんの合作であると福島さんは言う。数年後写真集「ピカドン」を発行、写真展も行われたが、中村さんの仇をとれたどうかは福島さんには分からない。いや、その写真の所為で中村さんの家族は世間に晒され、バラバラになってしまい、踏み込みすぎたプライバシーに未だに恐れをなしているのが本心ではないだろうか。

映画の最後に、中村さんのお墓を参る福島さんの姿があった。一段一段階段を登り、墓に着いた福島さんは、まるで中村さんの両肩に手を下ろすように墓に手をつき、じっとしている。そして、ひざまずき、寄りかかり、両手の指を絡め握りしめ、「ごめんね、ごめんね」と涙を流しながらしきりに呟いていた。

身を危険に晒し家まで焼かれながら、国家の嘘を暴こうとしてきたその孤高な生き様は誰にも真似が出来ない。そして今は、年金を拒否して、一日1000円の生活しながら、「写らなかった戦後 ヒロシマからフクシマへ」を壊れかけたワープロで執筆中である。

森の慟哭

日本は世界最大の木材輸入国である。自給率はわずか24%(平成20年統計)で、オーストラリア(13%)、カナダ(10%)、アメリカ(8%)、マレーシア(6%)、チリ(6%)、ロシア(5%)、ニュージーランド(4%)、中国(3%)など、主に太平洋沿岸各国から大量の木材を輸入し、それぞれの森林生態系に多大な影響を与えている。

逆に日本国内では、皮肉にも伐採されなくなった人工林が荒廃し、土砂災害が発生しやくなっている状態である。2年前に訪れた吉野の山で伐採の体験をさせて頂いたことがあるが、「売れなくても木を伐採しないと山が荒れる、でも儲からない林業には跡継ぎがいない」と嘆いておられたのを覚えている。

今日、観た中井信介さん監督の「森の慟哭」は、主にマレーシア・サラワク州の森を取り巻く問題に焦点をあてた映画であった。サラワクは、かつて世界中に熱帯木材を輸出していた豊かな森を有していた。しかしその森林は急速に後退し、残された二次林も次々とアブラヤシ農園(パーム・プランテーション)やアカシア植林(製紙用チップ)に姿を変えていっている。パーム油はインスタント食品やスナック菓子などの食用製品、洗剤・化粧品などの工業製品に広く用いられていて、日本の日常生活に深く浸透しているものだ。

先住民族が住んでいた森林を、政府によって伐採権を与えられた企業が原生林を壊し、アブラヤシ農園に変えていく。単一樹種となった森の生態系は壊され、生き物が絶滅していく。そして生産性をあげるために撒かれた農薬で土地や水が汚染され、農薬被害で健康が害されていく。また、農園では、マレーシア人よりも安い賃金で働くインドネシア人やフィリッピン人が重宝され、地元の労働力が使われることも少ない。

先住民族のイバン族やプナン族の人たちは座り込み、道路を封鎖して土地を取り返そうとするが、警察が介入し、逮捕され暴力や拷問を受けたりしている。座り込んでいる姿は、辺野古や高江、そして大飯原発前に座り込んだ人たちと姿がだぶって見えた。

最後にプナン族マロン集落の代表アニさんが言う。「日本の方々は企業の伐採によって森の天然資源が急速に消えつつある現実を知って欲しいと思います。このままいくとすべて無くなってしまうでしょう。」

マレーシアの最大顧客は日本である。私たちの消費は、マレーシアの自然を壊すという犠牲の上に成り立っている。

ふじ学徒隊


「ふじ学徒隊」を観てきた。
沖縄戦で動員された女子学徒隊は「ひめゆり」「白梅」「瑞泉」など10校およそ500人。激戦の本島南部では、ほとんどの学徒隊が半数近くの戦死者を出した。そんな中、わずか3名の戦死者にとどまったのがふじ学徒隊である。この映画は、その元ふじ学徒たちによって語られる証言映像である。

1945年3月13日、積徳高等女学校4年生56人に対し、軍の命令で合宿看護訓練が行われた。しかし戦況の進展で訓練もほどほどに同月23日に野戦病院へ配属される。隊長の小池勇助軍医少佐は従軍か除隊かの調書をとった結果、31名が除隊、25名がふじ学徒として勤務することになった。この点、他の学徒はどうだったのだろう。調書はとられたのだろうか。調書が取られたろしても、過半数以上の除隊者が他の部隊ではあったのだろうか。

戦況が悪くなってきた時に小池隊長は「こんなことになるのなら、みなさんを預からなければよかった。申し訳ない。」と学徒たちに謝ったそうだ。そして敗色濃厚となった6月18日に、軍部から学徒の解散命令が出される。他の部隊ではそれからの一週間で、野に放り出された学徒たちは壮絶な体験をして、たくさんの命が失われるわけであるが、このふじ学徒隊では、小池隊長は軍の命令に従わず、すぐには解散は出されなかった。

小池隊長は、戦闘が沈静化するのを待ち、6月26日、ついにふじ学徒隊に解散命令を発令する。最後の訓示は「かならず、生き残れ。親元へ帰れ」だった。青酸カリも手榴弾も渡されることはなく乾パンが支給された。そして学徒たちが出ていったあと、小池隊長は青酸カリを飲んで自殺する。

戦時中に軍の命令に従わないことなど出来るのであろうか。おそらく命がけの行為であったと思われるにも関わらず、人としての優しさを最後まで失わなかった小池隊長に尊敬の念を感じる。

最近の社会が、戦前戦中に似てきていると指摘する人がいる。確かにそんなきな臭さを感じる今、自分なりの考えやフィルターを持つことが大事だと思うし、「人権」というブレない視点が必要だ。そんな感性をもっと磨きたいのだ。

 

ダークナイト ライジング

ハリウッド的な映画も好きだ。頭の中をからっぽに出来て、爽快になるからだ。ノーラン監督の「バッドマン・ビギンズ」を観た時は、今までのヒーロー物とは少し違う印象を受けたが、でもハリウッド的範疇からは逸脱してはいなかった。しかし第2作「ダークナイト」を観た時は衝撃を受けた。バットマンというアメコミのキャラを使って、こんなにも深い映画を作ることが出来るんだと感動した。言い尽くされてはいるが、ヒース・レジャーのジョーカーの存在感は圧巻で、は映画史上に残る悪役だった。

そして第三作「ダークナイト ライジング」を観た。ジョーカーが死んで7年が過ぎたゴッサム・シティ(ニューヨークに見える)には平和が訪れ、バットマンはもう必要とされなくなっていた。ブルース・ウェイン自身はジョーカーたちとの闘いで傷ついた身体も癒されることなく、杖なしでは暮らせない老いぼれた身体になっていた。また愛する人を失った心の傷で、屋敷の中に引き籠った生活を送っていた。しかし、ゴッサム・シティの地下では刻々と悪が息を吹き返す準備を始めていた。そしてブルースは策略にはまり全財産まで失ってしまう。ついに傷ついた身体のままで悪に立ち向かうが、簡単に打ちのめされてしまい、どこかの国の地下牢獄に閉じ込められてしまうのだ。

第2作で、バットマンは存在価値を否定され、その上ハービー・デント検事や警官殺しという泥を被りながら街から姿を消したけれども、なんとか生きてこれたのは、レイチェルとの心の繋がりを信じたからではなかっただろうか。しかし、本作で執事からレイチェルはウェインを愛していなかったことも伝えられる。そしてその執事さえもウェインの元を去る。とことん陥れられたバットマンに再度立ち上がる理由や動機はいったい何処にあったのだろうかと思う。僕には分からない。

そんな本質的な暗さとは裏腹に、物語は度肝を抜かれるような映像で展開されていく。冒頭の飛行機のハイジャックなど、考えられない方法でありながらもリアリティのある衝撃的な映像だった。そんな場面が随所にある。しかし残念がら第2作のような深みは無くなっていた。そこまで落とされたのなら、もうロッキーのように立ち上がらなければ仕方がなく、ハリウッド的に強引に結末まで進んでいく。地下牢はファンタジー過ぎるし、中性子爆弾の爆発の仕方は解せない。まるでアトムじゃないかと思った。アトムのように太陽まで連れていってくれたら納得もいくが、海で爆発させて大丈夫なのか。まだアメリカ人は核爆発を甘くみているんだなと思わされた場面だ。

またしてもバットマンの自己犠牲で街(いや世界?)は救われたのだけれど、最後にカフェでくつろいでいるウェインとキャットウーマンを執事が目撃する。ウェインはこちらを向いてウィンクまでする。これはどう考えても執事の見た幻としてしか考えられないのだが…。バットマンの遺志を継ぐであろうロビンの存在を匂わす場面もある。正直言って、これらの場面にはがっかりした。最初にハリウッド的な映画も好きだと書いたが、この映画はそれを超えたものだと思っていたからだ。期待度が高すぎたのかもしれない。

ロラたちに正義を!

ナルシサさんのお父さんは、ゲリラをかくまったという疑いをかけられて、日本軍に銃剣で皮膚をはがされる。そのお父さんを助けようと棒を持って立ち向かった幼い弟と妹もその場で銃剣で刺殺される。そしてナルシサさんは姉と一緒に駐屯場へ連行され、テラサキという日本兵に強姦される。ナルシサさんが10歳の時の出来事だ。

アナスタシアさんは兵士だった夫と共に日本の憲兵隊に捕まった。夫は拷問で顔を引き裂かれ、殺害される。アナスタシアさんは要塞に半年間閉じ込められ、一日六人の日本兵に輪姦された。

ピラールさんは、ゲリラの疑いで日本兵に捕まり、返事をしなかったため頬にタバコを押し付けられたり、耳を切られたりした。今でもタバコの痕と切り落とされた痕がくっきりと残っている。

他にも日本兵の歓迎会を開いた小学校で、先生から日本兵について行きなさいと指示され、そのまま監禁されて強姦されたりなど、様々な証言が映し出される。

「カタロゥガン!ロラたちに正義を!」(2011年、監督:竹見智恵子、編集:中井信介)という映画を、昨日観た。「ロラ」とフィリピン語で「おばあちゃん」という意味だそうだ。

フィリピンでは日本兵による性暴力の被害にあったと名乗り出た女性たちは400名ほど。実際に被害にあった女性はその何倍にもなると言われている。90年代、被害女性たちは日本政府相手に謝罪と補償を求める闘いを開始したが、日本政府は、わずかなチャリティ・マネー(アジア女性基金)で責任を回避し、今も問題は解決していない。ロラたちはこのままでは自分たちいの正義は回復されないと、80才を過ぎた今も街頭デモに参加し、闘い続けている。

映画を観ながら、男と言う性、残虐性をむき出しにさせられる戦争に嫌悪、悲痛、絶望感が渦巻き、吐き気さえ催した。しかしながら、自分が当事者の兵隊であれば、それを回避できただろうかと思うと、男であることも辞めたくなる。戦争の実相はこんなもんであろう。

今日、野田はヒロシマで「非核三原則を堅持する」と言ったが、「武器輸出三原則はすでに緩和されているし、原子力基本法も改悪され「我が国の安全保障に資すること」というどうにでも解釈できるような文言が基本方針に盛り込まれている。徴兵制を復活すべきだという著名人や政治家もちょろちょろ出てきている。オスプレイは日本全国の上空で飛行訓練が行われそうだし、沖縄から基地が消えそうもない。その上、大阪で基本的人権が侵害されているような条例が次々と施行されている。戦争の臭いがプンプンするではないか。一歩でも半歩でもそこから遠ざかるためにも、このような映画はもっと見られるべきで、ロラたちにきちんと謝罪ができるような日本にしていきたい。

 

いのちをつなぐ~纐纈あやさん~

「祝の島」監督の纐纈あやさんにお会いしてきた。上映会の後の講演会や交流会でたっぷりとお話を聞かせて頂いた。映画は今回で三回観たことになるが、観 るたびに感動があり、とても心地よくなる映画である。昨年、神戸で小出裕章先生と纐纈あやさんとの講演会で、初めて彼女のお話を聴き、その時から是非もう 一度お話を聴きたいと思っていたところ、なんと今回、居酒屋で隣に座ってお話を聞けることになり、夢にも思っていない幸運が訪れた。

今 まで色んな方にお会いしてきて、“ホンマもん”の人ほど腰が低く、威圧感がないということを経験してきたのだけれど、やはり纐纈さんもそんな人だった。と ても明るく気さくでお酒が好きな人だった。そしていっぱい喋りながらも、自分から遠く離れた席に座っている人のグラスが空いていることに気がつく気配りの 細やかな人だった。

祝島には日本一の棚田がある。纐纈さん曰く、祝島の奥のほうにあり、一時間ほどかけて歩いて行くと急に視界が開けて、そこには天空にそびえる城壁のような棚田が見えてくるそうだ。纐纈さんはその棚田が大好きで、棚田だけで一本映画ができるほど撮影をしたそうだ。

そこでは平萬次さんという方が70年間、米作りをしている。その萬次さんの祖父の亀次郎さんが、一生をかけて直径1メートル以上もあるような岩を積み重 ね、数段の巨大な棚田を作ったのだ。亀次郎さんは、孫の世代の頃には農業も機会化されて大きな面積が必要になるだろうと考えて、当時の常識では大きすぎる ような棚田を作ったそうだ。しかし、その次の世代には原野に戻っているだろうとも言っていたようだ。

祝島の人たちは、目には見えない人 たちの話しをよくするという。もう亡くなってしまった人たち、そしてこれから生まれてくるだろう子どもたちの話をする。今ある命は、過去からえんえんと受 け継がれてきたからこそ存在し、そして未来につなぐために命があるということなのだろう。だから、祝島には日本一の棚田があり、そして原発に30年間も反 対し続けているのだ。

それに対して、原発の存在そのものはなんて刹那なものなんだろう。今この瞬間の享楽のために、未来を確実に壊している。

纐纈さんは、「映画は目に見えないものを伝えるためにある」と言った。とても素敵な言葉だ。今は、目に見えないものがどんどん切り捨てられて、数字が要求 される世の中になりつつある。そんな現代に警鐘を鳴らし続けていってほしいし、僕もなんらかの形で応援していきたいと強く思った。纐纈さんから元気をたく さん頂いた。感謝!

息もできない


「人を殴る奴は自分が殴られるとは思わない」と冒頭のシーンで主人公のチンピラがつぶやく場面がある。まったくそうだ。思ってもいないから、殴られたら気が狂ったように相手をぶちのめしに行ったりするのだろう。

これはチンピラと女子高校生の話である。
チンピラが子どもの時、父親が母親に対する暴力を妹が間に入り止めようとして、妹が父親に刺し殺されてしまう。病院に駆け込もうとした母親も、その途中で交通事故に遭い、死んでしまう。父親は15年の服役の後、今はチンピラと一緒に暮らしている。そして毎日、息子に殴る蹴るの暴力を受けている。父親はただ泣きながらごめんなさいごめんなさいと謝るだけである。

女子高校生の父親はベトナム戦争の功労金で生活をしているが、頭がおかしくなってしまっている。数年前に死んでしまった母親のことも理解出来ていない。食事のたびに母親への愚痴を聞かされ、やがて暴れだす。その母親は屋台を営業している時に、チンピラの集団に襲われて、その時に殺されたのだった。兄もまともな仕事をしようともせず、妹にお金をたかる毎日。女子高校生は家では飯炊き女のようにこき使われていたのだ。

そんな二人が出会ってしまう物語だ。暴力と唾を吐く場面が非常に多く不愉快な気分にもなる。まさに息苦しくなってくるような映画だ。しかし愛を語り合うわけでもない二人の純愛的な部分に惹かれていくのである。暴力といえばセックスもペアで付いてきそうなもんだが、キスの場面さえなく、「好きだ」の一言さえない。

やっと大切にするべき人が見つかり、生活を変えようと思った時に、彼自身が振るってきた暴力のお返しが彼を襲う。彼も「人を殴る奴は自分が殴られるとは思わな」かったのだ。彼女のために新しい人生を送ろうと「思った」だけで、彼女に伝えていたわけでもない。勝手に彼ひとりが思っただけのことだった。でも伝えることさえ出来ずに、皮肉にも彼女の兄に殺されてしまうのである。彼女の兄はやがてその世界で頭角を現すであろうことを匂わせる場面でこの映画は終わっている。

暴力の連鎖は受け継がれていく。それを断ち切ろうとしたほんの一瞬の輝きが、救いであったような気がする。

“私”を生きる


土井敏邦監督の「”私”を生きる」を観た。東京の三人の教師が登場する。一人は中学校の家庭科の先生で、卒業式の国歌斉唱で不起立を続け、三年間にわたり半年の停職処分を受けてきた根津さん。もう一人は小学校の音楽科の先生で、キリスト者として天皇制につながる「君が代」伴奏を拒否し、何度も理不尽な異動を強いられた佐藤さん。佐藤さんの祖父は、戦時中に天皇制に異議を発したために、獄中で拷問死にあったそうだ。三人目は、教育委員会による学校現場への言論統制に、現職の校長として初めて公に異議を唱えた土肥さん。

安倍内閣が教育基本法を変えてから、教育現場への締め付けは日増しに厳しくなってきている。その中でも東京都は、特にひどい状態だ。「自分に嘘をつきたくない、子供に嘘をつきたくない。」「天皇制を批判して殺された祖父と同じような目にあっている。」「教育の場から言論の自由を奪うとは、どういうことか。」それぞれの先生たちは、自分の信念を曲げることなく、それこそ命がけで戦っている様子が伝わってきた。

彼らの行動を全面的に納得して受け入れることは出来ない面もある。例えばある教師は「イデオロギーで行動しているのではない。」と言っていながら、3月31日に支援者たちが彼女の勤める学校の前に集まり、校舎に向かって彼女に対する処分への抗議を叫んでいる場面がある。そしてやがて当事者の先生が校舎の窓から「やめさせることは出来なかったわよ~!」と叫んだ。支援者たちは泣きながら喜んでいた。

これはどうかと思う。第一に処分をするのはその学校の校長ではなく、教育委員会であるはずだ。校長室にむかって叫んでも何の意味もない。しかも学校の前は住宅街だ。多分同じ学校の職員や近所の住民は嫌な思いをしたことだろう。僕はこの場面で、とても気持ちが引いてしまった。彼女の教育への情熱やら、自分の信念を貫き通そうとする思いは、僕はとてもかなわなく、頭がさがる思いだが、もし身近に彼女がいたとして、同じように行動したり彼女を支えたりすることは出来ないかもしれないと思った。

と、書いてはきたが、根本的には僕は彼ら彼女ら側に与したい。教育委員会は間違っているからだ。日本国憲法第十九条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」に違反しているからだ。

色んな意味で学んだり考えたりしなければならないことが、たくさんあったように思う映画だった。ひとつ言えることは、教育界そのものが、やはり危険な方向に向かっていると思わざるを得ないことだ。教育が滅べば国が滅びる…。