イラクで私は泣いて笑う

イラクで私は泣いて笑う―NGOとして、ひとりの人間として (JVCブックレット)
イラクで私は泣いて笑う―NGOとして、ひとりの人間として (JVCブックレット)
酒井 啓子

毎日新聞の大阪版に毎週土曜日「棗椰子はつなぐ~大阪から見えるイラク~」が連載されている。アジアプレス所属の玉本英子さんが書いている記事だ。それが、今日(09.09.26)で終了した。最後の記事は、イラクのジャワヘリ小学校と東大阪の小学校がビデオメッセージをやりとりする様子を伝えている。お好み焼きを家で作っている様子、そしてお母さんがジョッキでビールを飲み干すシーンが流れると、スタンディングオベーションが巻き起こり、中には笑いすぎて涙を流すイラクの子もいたそうだ。それを見て、玉本さんは泣いてしまったという。

9月12日に玉本さんのイラク報告会を聞きにいき、それを機に、彼女がインタビューされている「イラクで私は泣いて笑う」をアマゾンで購入していた。それを先ほど読み終えた。裏表紙を見ると、今日新聞に掲載された記事の一部がそのまま載っていたので、少し驚いた。

この本には、日本イラク医療支援ネットワーク(JIM-NET)事務局長の佐藤真紀さん、日本国際ボランティアセンター(JVC)イラク支援ヨルダン駐在員の原文次郎さん、そして玉本英子さん、三人の方が東京外語大の酒井啓子さんにインタビューされたものが掲載されている。ここでは、玉本さんのインタビューに絞って書いておく。

玉本さんって、かなりの一匹狼である。元々はデザイン事務所に勤めていたが、94年にクルド人が自分の体にガソリンで火を付けてドイツの機動隊につっこむ映像をTVで見て、会社を辞め、その人にアムステルダムにまで会いにいったそうだ。そこからクルド人について知りたい欲求の赴くまま、彼の故郷であるトルコに渡り、次第に自分が知った事実を伝えなければという思いに駆られていったそうだ。

だから彼女はジャーナリズムについて何も学んだことはなく、全て独学で学びながらジャーナリストになっていったそうだ。また彼女の取材は通訳を付けないそうだ。通訳を付けると、逆に伝わらないものがあったり、また通訳自身の生命を危機に晒したくないからだそうだ。

何よりも彼女の一匹狼ぶりを感じたのは、イラクのアルビルとハラプチャで「原爆展」を行ったことだ。クルド人がフセインに毒ガスで殺された町「ハラプチャ」、地元の人たちはこの町を「イラクのヒロシマ・ナガサキ」と呼んでいて、原爆に関心が高く、伝えて欲しいという要請があったそうだ。そして彼女は、日本から資料などを取り寄せ、現地の人に翻訳をしてもらい、費用は全て自費で行ったという。この原爆展はイラク全土や中東などへニュースとして流れたが、日本には持ち込んでも取り上げてもらえなかったそうだ。

玉本さんは、イラク戦争を支持した側の加害者の国の一人として、現地の声を取材を続けていきたいと語っている。僕たちはこのようなジャーナリストたちを大切にして、応援していきたいと思う。腐ったマスコミを少しでもましな方向にさせていくのも政治と同じで、一般の人たちの声ではないかと思う。

「棗椰子はつなぐ アーカイブ」
http://mainichi.jp/area/osaka/natsumeyashi/archive/

ガザの悲劇は終わっていない

ガザの悲劇は終わっていない―パレスチナ・イスラエル社会に残した傷痕 (岩波ブックレット)
ガザの悲劇は終わっていない―パレスチナ・イスラエル社会に残した傷痕 (岩波ブックレット)
土井 敏邦

昨年末から今年の一月半ばまで続いたイスラエルのガザ攻撃の報道で、悶々とした気持ちで報告会などに何度か参加していたが、いつのまにかネットでも情報を得ることもあまり出来なくなっていた。しかし、最近、イスラエルが再び入植地を拡大すると発表したり、国連の「双方に戦争犯罪」という報告書が出たり、イランの大統領が「国際社会がイスラエルに罰を科すべきだ」と主張したりと、パレスチナ関連のニュースを目にすることが増えてきた。

で、土井敏邦さんの「ガザの悲劇は終っていない」を読んだ。2009年1月8日から2月19日までの、ガザ地区とイスラエルでの取材報告だ。イスラエル兵の非戦闘員に対しての残虐な殺戮の場面が数多く報告されている。

120人ほどの一族がひとつの建物に押し込められミサイル攻撃を受けたり、家の中に侵入してきた兵に夫と子どもたちを目の前で銃殺されたうえ金品を盗まれ家具に火を付けられたり、白旗を持って家から出た2歳半と7歳の子どもとその祖母が、銃弾を浴びせられ、その後、救急車を要請したもなかなか出動してくれなく、やっと来たと思ったら、戦車で踏み潰され、あげくの果て、親は子どもを抱いたまま逃げ出すが、体から内臓がこぼれだし・・・

イスラエルの一部の人たちは、自分たちが行っていることの不道徳さに気付き始めてはいるが、大半のイスラエル人は、ガザ攻撃は当然の報いだと信じてやまない。国連も、「双方に戦争犯罪」ということで決着を付けようとしている。

土井さんはあとがきで、『世界のメディアがガザの状況をほとんど伝えなくなった今、国際社会は「もう”ガザ攻撃”の問題は終わり、平和が戻った」と胸を撫で下ろしているかもしれない。しかしすべてを失い、将来、生活が改善される見通しも、問題解決の展望もまったく見えないガザ住民の失望や怒りは、その心の奥底に確実に鬱積しつつある。そしてそれが臨界点に達して爆発したとき、それは中東という一地域に限らず、全世界を震撼させる事態に発展するかもしれない。」と書いている。

西谷文和さんも「戦場からの告発」で、アメリカとイランの対立によって、イランはハマスやヒズボラを通じてイスラエルを攻撃させる可能性もあり、そうすると第三次世界大戦に発展していくだろうと書いている。

そして今、次のような記事が発表されている。
「イランの核問題で、アメリカ・オバマ大統領は9月25日、軍事行動の可能性を示唆し、強い姿勢でイランに警告している。」と。

証言 沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか

証言 沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか (岩波新書)
証言 沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか (岩波新書)
謝花 直美

現在高校1年の娘が、中学の時に使っていた教科書「新編新しい社会・歴史(東京書籍)」のP195には「1945年3月、アメリカ軍は沖縄に上陸し、激しい戦闘が行われました。沖縄の人々は、子どもや学生をふくめて、多くの犠牲者を出しました。」と、沖縄戦については、たったこれだけしか書かれていない。

先日、「沖縄戦・ある母の記録」を読んだあと、「集団自決の真実~日本軍の住民自決命令はなかった!(曽野綾子)」と「証言・沖縄集団自決(謝花直美)」の二冊を読んだ。この二冊は全く正反対の内容の本だ。

曽野綾子氏は、慶良間に駐屯した「海上挺進第三戦隊」に所属した元兵隊たちからの証言を元に書いた本であるらしい。それによると、特攻隊として慶良間に来たので、特攻船以外の武器などは持っていなく、島の人たちを守るなどという意識はなく、自分たちのことで精一杯だったと。だから、島民を集めて自決の指示など出す余裕もなかった。軍規に則って、スパイ容疑で住民を殺害したことはあるが、自決のために島民たちが持っていた手榴弾は、地元で召集された防衛隊員が勝手に配ったもので関知していない、と言うような中身だ。小説家であるからか、情景の描写などが少しくどく鼻についた。

曽野綾子氏に関しては、かなり昔に「太郎物語」を読んだことがあるくらいで、名前はよく知ってるがどんな人物なのか知らなかった。だからこんな本を書いているとは驚きで、曽野綾子のことを少しネットで調べてみた。すると、かなり悪評高き人物であることがわかった。一つだけ面白い例をあげておく。

『中学教科書において必修とされていた二次方程式の解の公式を、作家である自分が「二次方程式を解かなくても生きてこられた」「二次方程式などは社会へ出て何の役にも立たないので、このようなものは追放すべきだ」と言った(この後、夫の三浦朱門(後の文化庁長官)が教育課程審議会で削除を主張し、現行中学課程で「二次方程式の解の公式」は必修の事項ではなくなった)。』(Wikipedia「曽野綾子」より)

他にもいろいろあるが、ここではこれくらいにしておく。しかし、この本がきっかけで、高校の歴史教科書から日本軍の強制記述が削除されたらしい。

一方、謝花さんの本は、教科書から削除されてしまうことに危惧を感じた集団自決の生き残りの方々が、重い口を開き、集団自決の様々な場面を謝花さんに語り、その証言を元に書かれたものである。読み進めるのがとても辛く、思わずうめき声をあげてしまうほどだ。まさに地獄絵図である。「米軍の捕虜になったら女は強姦され、男は戦車の下敷きになって殺されるから、その前に自決しなさい。」と手榴弾を手渡されていたと記されている。そして、手榴弾が不発で死ねなかった人々は、親が子を、子が親を、絞殺したり、こん棒で殴り殺したり、岩に叩きつけたり、剃刀で首を切ったり、火の中に投げん込んだりと、想像を絶するような場面がこと細かくこの本には書かれているのだ。

こんな大事なことが、教科書には一切記述されていないのが、今の日本の現実。もちろん、大事なのは沖縄戦だけではない。伝えていかなければならないことが、他にもまだまだあるけれど。

報道されなかったイラク戦争

報道されなかったイラク戦争 (西谷文和の「戦争あかん」シリーズ)
報道されなかったイラク戦争 (西谷文和の「戦争あかん」シリーズ)
西谷 文和

先日参加したアフガニスタン取材報告会の西谷文和さんの本を読んだ。ところどころ大阪弁が混じっていて、肩肘張った感じがないので、とても読みやすかった。かなりの危険を冒しながら取材をされていることがよくわかった。一冊60ページほどの本なのですぐに読めた。

先日の「冬の兵士in大阪」にも参加されていて、ボールペンを浪人回ししながら懸命にメモっている姿が印象的だった。報告会で感じたことだけど、かなりアバウトな人だと思った。友人曰く、アバウトだからこそイラクやアフガニスタンで取材ができてるんちゃう、と。そのアバウトさが、西谷さんの懐の深さなんだと思うし、そんな人が世の中を変えていく力となっていくんじゃないかと思う。

しかし、「報道されなかったイラク戦争」のあとがきを読んでショックを受けた。西谷さんはいつのまにかヒバクシャとなっていたのだ。レバノンで取材中に赤ちゃんが誕生したが、遺伝子の異常で耳の形成異常と心臓に障害があったらしい。13日の命だったそうだ。ご冥福をお祈りします。

冬の兵士in大阪

シルバーウィークの二日目、僕は「イラク・アフガニスタン帰還兵の証言集会~冬の兵士in大阪」に参加してきた。まずは「冬の兵士」を撮影された田保寿一さんの熱い挨拶から始まった。

「大阪でのウインターソルジャーは特別な意味を持っています。すでにリックさんとアダムさんは大きな影響を日本の社会に与えています。9月16 日、民主党の平岡英朗議員が、9月17には外交防衛委員会の理事、民主党近藤昭一議員、今野東議員、相原久美子議員が二人の証言をつぶさに聞きました。イラクでアフガニスタンでアメリカが何をしているのか、民主党の議員たちの中にその認識が生まれました。彼らは二人の話を聞いて、「その通りだ、なんとかイラク・アフガニスタン政策を変えなければいけない。」ということを述べていました。しかし民主党は一つではありません。さまざまな考えを持った人たちがいます。二人の証言を聞いて下さった議員たちは党内でどう理解してもらえるかこれから模索することになります。そのやり方次第では、日本がイラク・アフガニスタン政策を見直すことが実現するかもしれません。そういうことを、すでにこの二人は成し遂げています。

また18日にはBS-NHKで二人の証言が放送されました。私がこの「冬の兵士」をアメリカで取材を始めた頃から、テレビ朝日に企画を持ち込んでいました。しかし取り上げられませんでした。帰国をしてDVDを作成してからはNHKにこの企画を持ち込みました。しかしNHKではイエスと言いませんでした。ところがDVDを観た三人の記者が私に接触してきました。NHKも民主党と同じように一つではありません。彼らが放送するには、何か別の力が必要でした。それが、この二人の来日でした。それでついに、二日前に放送することになりました。昨日、もう一人のNHKの記者から電話がかかってきました。二人を取材してもう一度放送したいと言ってました。

私は2003年にテレビ朝日を辞めました。日本のテレビ局に正直、辟易していました。しかし、少なくとも四人の記者たちがウインターソルジャーに注目してくれ、一生懸命努力してついに実現したのです。それは、この二人の力です。

しかし、この「冬の兵士in Japan」が成立するまでには大変な苦労がありました。まずDVD「冬の兵士」を制作・頒布するために集まって下さった市民たちの組織「冬の兵士制作委員会」の中で二人を呼ぼうという話がもちあがりました。しかし資金の目処が立ちませんでした。普通の市民の集まりなのでバックなどはなく、実際に経済的な問題などをどう克服していくか、全くわかりませんでした。そこで私が一番最初に相談したのは、この「Live In Peace」事務局の西中さんです。私は大阪に来て、彼に相談しました。すると即座に彼は、「お金も出しましょう、協力しましょう。」と言ってくださいました。一瞬に判断してくださいました。それで私はこれで出来るんだと確信を持ちました。実際にこの企画が動き出しています。大きな資金的援助を「Live In Peace」から受けています。この大阪集会だけではありません。「冬の兵士inJapan」を成立させた大きな車輪の二つ、東京の冬の兵士制作委員会と大阪のLive In Peace、もこのう一つの大きな車輪の集会なんです。だからとても大事な集会が今から行われます。」

■アダム・コケッシュ氏の証言■

私は17歳の時に海兵隊に入隊しました。故郷であるニューメキシコの先住民進学準備校で学びました。私が海兵隊に入隊したのは自分の人生をしっかりとしたものにしたい、正しい方向に向けたい、そして自分が正しいと信じていることのために戦いたいと思ったからです。

最初、私は砲兵隊の大砲手という部署を志願しました。ハウザー砲というのは大型の大砲です。その砲弾の重さは約100ポンド、直径155mmです。私は予備役に志願しましたが、それは大学に進学したいと思っていたからです。と言うのは予備役の義務というのは限られていて、毎月週末を一回だけ訓練に使えばよい、そしてひと夏の間に二週間訓練を受ければよいということになっていたからです。私は大学に行くのを一年遅らせて予備役のブートキャンプに行き、大砲手としての訓練を受けました。2001年に南カリフォルニアの大学に行き、心理学を学びました。

2001年の9.11事件では心をあまり煩わされることはありませんでした。それは遠く離れていたし、知人が被害にあったということもなく、また所属する予備役がアフガニスタンに動員されることも考えられなかったからです。アフガニスタンへの攻撃については私は強い意見を持ってはいませんでしたが、その当時説明されていたことは信じていましたし、短期で決着がつくだろうと思っていました。イラクの戦争に関しても、当時政府が説明していたことを信じていましたが、戦う価値のある戦争とは思えず、戦争には反対でした。

その当時の私はアメリカ政府が嘘をつくという伝統に染まっていることに気づいていませんでした。ある時、私は大学の仲間と抗議行動に出まして集会やデモやピースウォークをやったりしました。そしてみんなで手を繋いで平和の輪を作りました。そして世界中で戦争反対の声が巻き起こったわけですが、その侵略に反対する全ての声をブッシュ大統領は無視しました。

彼は戦争を推進する中枢、要、中心的な勢力という立場として、それを実行していきました。一緒に抗議をした仲間の中にはとても失望したものもいましたが、戦争を解決する手段としての戦争をやめさせるためには、単にデモをしたりスピーチしたりするだけでは足りなく、もっと用意周到に準備をして、じっくりと取り組むことが必要であると私は学びました。

今でもイラクやアフガニスタンでは戦争が続いていますが、イラク戦争は2003年5月に集結したと宣言されました。そしてそこから占領が始まりました。占領の使命というものは、イラクの人々を搾取し続けること、そしてこれに地上軍が任務を全うするために駆り出される、これが占領の内容でした。ですが、その当時の私はアメリカ政府の言う事をそのまま信じていました。だから、イラクを滅茶苦茶にしてしまったけれどこれからはそれを綺麗に後片付けをするんだ、そしてイラクの社会を復興するんだ、と思っていました。そして私はその任務につくことを誇りに思っていました。

自分が実際そこに行くまではそんなふうになっていないとは分かりませんでした。私は予備役の砲兵部隊から民事部隊へ籍を変えてもらうように志願し、民事部隊の三等軍曹としてファルージャに配備されました。そこで服務したのは2004年2月から9月まででした。私たちに言われていたことは、「民事部隊の仕事が最も大切なんだ、イラクの気候にはお前たちの仕事が欠かせないんだ。」というふうに言われていました。そのような重要な仕事の最先端にいるのが民事部隊なのだと聞かれていました。

しかしながら私たちの任務を実行するためには、自分たちの力だけでは足りなく、歩兵隊の司令官に懇願をしてその部隊の後について行かなければなりませんでした。自分の存在を正当化しなければならないほどの状態でした。そのことを一生懸命に努めるあまり「みなさんのお悩み、代行します。」というキャッチフレーズまで作りました。その当時は結構面白いキャッチフレーズで、良いと思っていましたが、よく考えてみると、イラクの様々な問題について、人々が心配しなくていいように、心を煩わせなくていいように、自分たちが心配をしてあげるというのは、非常に心がかき乱されるような事態でありました。

つまり私たちの仕事というものは、復興をやっていますという仕事でしたから、そのことによって、歩兵部隊、司令官、議会、大統領、ひいては米国民の全てがが、全てがうまくいっていると勘違いして、心配しなくて済んでいるという、そういう役割を自分たちがしていたということです。自分たちがイラクに派遣されている目的はただひとつ、占領を美化するためだけであったと思います。そして現実を誤魔化して、実際よりも良いことをしているというふうに虚偽の演出をしすぎると、最後にはみじめな思いをするだけです。

私の班は2004年4月にユーフラテス川に掛かっている橋のところで検問所を設けて、人々の通行をコントロールするという役目を担っていました。その時期はブラックウォーター社の四人の傭兵が殺されて焼かれて、この橋に吊るされていた事件の直後のことです。この民事部隊のチームは6人編成で、それが三つあり、つまり18人のメンバーが人口25万人のファールジャ町全体を担当していました。

ユーフラテス川の西にクルド人の町がありましたが、米軍がそこにいるために、この犯罪的な包囲のため、町から隔離、分断されてしまったわけで、孤立していました。そして食糧が届かないという状態になっていました。そのケアをするのも自分たちの仕事でありました。確かに私たちは500人の人に食糧を調達しました。それは良いことであったが、それしか出来ませんでした残りの25万人の惨状に対しては何も出来ませんでした。

私の友人も砲兵隊にいましたが、彼らは同じ時、反対側からファルージャの町に爆弾を撃ち込んでいました。彼が撃ち込んでいた砲弾はハウザー砲と同じ大きさのものでした。しかしそれは一つの砲弾ではなく、空中で炸裂して、それがさらに炸裂するという構造でした。ひとつひとつから紫色の光が出るもので、不発になってしまう確率が高いものでした。

私の友人の部隊は、この不発弾を処理するために派遣されました。友人は、小さな少女が二人の兄弟とともに不発弾の一部を持って振り回して遊んでいる場面に出くわしました。爆弾は炸裂し、三人の子供たちは死んでしまいました。友人はそれを見ていなければなりませんでした。

ファルージャの包囲はある時点で、女と14歳未満の子供は外に出そうという決定をしました。まだ空爆が続いている最中でした。私たちは、この決定は気高いものだと、この時は思っていました。しかし、ファルージャの市民にはとても大変なことを強いていたことになります。家族全員で空襲を耐え忍ぶか、あるいは家族を分断して残るものと立ち去るものになるか、どちらかしか選択肢がないという状況に追い込んだからです。一箇所しかない橋の検問所から、女と 14歳未満の子供は出てよいというだけで、なんの安全の保証もなく、「あそこにモスクがあるから、そこに避難すれば。幸運を祈るよ。」としか言えませんでした。

海兵隊員ひとりひとりがファルージャにいる動機はもともと良いことをしよう、助けになることをしようということでした。ところが実際に私たちがしたことは、恐ろしいほどの数の難民を作り出したということでした。この占領や包囲の結果、人口2500万人の国の250万人が国外難民、さらに250万人が国内難民となりました。そして戦争の直接の暴力によって命を絶たれたのは100万人にのぼると言われています。

私たちは法律のもとで平和で平穏な日常を営んで、ごく当たり前の生活が保証されています。そんなごく当たり前の基本的な法律こそがイラクの市民が望んでいることであります。しかし、米国がイラクに押し付けているのは、そのような法律ではありません。軍事法の元では軍の気まぐれで日々の営みが簡単に影響を受けてしまいます。

昔、戦争に従事したある将軍が「戦争はぼろ儲けの手段」というようなタイトルの本を書いていまして、その中で戦争で儲けるのは一握りの非常に強大な力を持った連中だけであると書かれています。それは現在でも真実であります。米国の政府は、イランやアフガニスタンの人々を助けるために何かやっていると言っていますが、彼らが助けているのは、このような犯罪のみであります。そしてこのような国々における搾取に対して人々がやめさせるような活動をすることを阻止することであります。

現在のアメリカ政府がとっている対外政策は、明らかに帝国主義のそれであります。そしてそれは、日本が前の戦争にいたるまでにとっていた政策とまったく同じであり、侵略的な対外政策であります。ある意味、私たちはみなさんの経験から学んでいます。しかしながら学んだということは、道徳的に正しいことをする、しなければならないということではありません。何を学んで改善したかと言いますと、現在の米国の対外政策の推進者たちがしていることは、より邪悪で、虚偽に満ちていて、危険で、そしてより強力なプロパガンダを使っていると言う点で改善したということです。

私は日本国憲法第九条に大変大きな尊敬の念を抱いております。それは見事に表現された文章であり、そして多くの人々がこれを支持していることも知っています。それを理解し、擁護し、支持して下さっているみなさんにお礼を申し上げます。残念なことに、現在の日本政府のとっている政策の多くは日本国憲法第九条に実際には違反していると思われます。

日本国政府も日本国民もいかなる理由があろうとも米国政府のこのような犯罪的な占領を支持しなければならない義務も理由もありません。犯罪にたいしては抵抗する義務のみがあります。この短い日本滞在期間だけでも、イラクとアフガニスタンの人々に支援の手を差し伸べたいという多くの日本人に会いました。これらの人々の支援の形、そして感情がいかなるケースにおいてもアメリカの政府、米軍、NATO軍、イラク政府、アフガニスタン政府の助けになるものでないことを願います。何故ならば、イラク政府とアフガニスタン政府は米国政府の道具に過ぎないからです。

それから幸いにもここにいる間に第二次世界大戦で戦争に従事した元日本兵たちにも会いました。彼らは自分たちの戦争体験を風化させないために、若い人に伝えるために活動を続けています。私たちの努力は、そのような人たち、私たち全てその努力はとひとつのものであると思います。近い将来私たちの手で紛争を解決する手段としての戦争を終らせることが出来るのを願います。

■リック・レイズ氏の証言■

私はいつも国のため、そして自由と正義のために戦いたいと願っていました。私は海兵隊に入隊することで愛国者としての夢が実現できると信じていました。しかし9.11以降に目撃、体験したことで、自分の夢が永遠に砕かれてしまいました。ですが、私の愛国心と名誉を重んじるという気持ちがなくなったことはありません。それだけに、ある時点では喜んで命をかけようと思っていたそのものに対して、異議申し立てをするということが、非常に難しいことになりました。

私は海兵隊の歩兵部隊としてアフガニスタンとイラクに配備されました。そこで発見したことは米国の対外政策は全く無力であるということでした。さらに分かったことは、この対外政策は米国民の利益になっていないし、国の安全保障にも貢献していないということです。そうではなくてこの対外政策は、私欲と利権にのみ奉仕することが分かりました。

9.11事件があった夜、私はオーストラリアに居ました。そして連絡が入り、アメリカが攻撃されていると伝えられました。その翌日、私たちの部隊はインド洋に派遣され、そこで一ヶ月留まりながら、米国政府が次の計画をたてるのを待っていました。私たちの部隊がパキスタンを経由してアフガニスタンに入る前夜から、米軍は攻撃を始めました。

アフガニスタンに配備されてからの私たちの任務は、タリバンやアルカイダと疑われるものを見つけて、拘束することでした。現在のやり方では、これを如何に実行しようがテロリストの容疑者と、一般の罪のない市民を区別することは不可能です。

私は、この二つの占領の有様の多くを、自分が服務した夜間パトロールと急襲家宅捜索を通じて目撃しました。私たちが得た情報というのは、米軍が雇った通訳を通じて手にしますが、通訳が情報を提供する理由は金銭のためでした。その情報は虚偽ばかりでした。

提供された情報に基づいてに私たちは急襲家宅捜索をせよとの命令を受けます。その方法は、ドアや窓やテーブルや椅子や、そういったもの全て破壊する、時には人の命まで奪う、そしてモノであれヒトであれ、とにかく自分たちの作業に邪魔なものは全て破壊する、そんな方法でした。

武装勢力を識別することは不可能でしたから、結局は誰も彼もがテロリストと疑うことになりました。このようなパトロールのあり方はすべて共通していました。良心にもとる形で暴力を振るい、それに付随して人々に害をなし、そして結局はイスラム教徒は全てテロリストなんだというパラノイアにいつもとり付かれている状態でした。これらの急襲家宅捜索の結果も全て同じでした。私の知る限り、犯罪者に出会ったことは一度もありません。

米国の対外政策がこのように無力であることを、現場でこの目で目撃したのです。今日、この同じやり方がPRT(地域復興チーム)によって行われています。PRTの活動もまた虚偽に満ちた情報に基づいて破壊の限りを尽くし、そして人やモノに対する危害が付随しています。

私は民間人としてアフガニスタンを再訪しました。カブールで政策立案者や国連機関の職員、世界銀行の職員、人権団体、カルザイ大統領の甥が運営している団体、政府機関の復興担当の高官、戦争と平和の研究所にいるジャーナリストなどの人たちに会いました。そこで確認できたことは、アメリカの対外政策は以前と同じで、今でも間違っているということでした。そして、アフガニスタンの人々の真の敵は誰であるかということがわかりました。それはタリバンではなく、アフガニスタン政府と米国を中心とする連合軍であります。

私は常に愛国者であるということは、いかなる状況に置いても国のために戦うことだと思っていました。しかしながら政府の方針が国民の利益に奉仕しない時、真の愛国者というのは政府のために戦うのではなく、国民のために戦うものであるとわかりました。

■質疑応答■

▲オバマ大統領について▲

「オバマ大統領は確かにこれまでの大統領の中では、ましな人かもしれません。その意味は彼がこれまでなかったほどの強大なプロパガンダマシーンを持っていると言う意味です。ですからこのプロパガンダマシーンを使って自分が良い大統領だということを演出しますので、これまでになく危険な大統領だと私は思います。世界の人々を欺いています。人々は変化を求めてオバマを選出しました。しかしながら選出にいたるプロセス、選出されるために必要だった方策、手段、そうしたものは変化しておりません。ですからブッシュ大統領の時に背後で蠢いていた人たちは、今オバマの背後で蠢いています。オバマ大統領は彼らを代表しています。」

▲メディアについて▲

「メディアの中には選択的に情報を流しているメディアと、そうではないものがあります。選択的に情報を流しているのは、マスメディアです。アフガニスタンでも確認しましたが、マスメディアは真実を抑圧するように働いています。メディアの奉仕する範囲からアフガニスタンの2500万人は排除されています。今、「戦争と平和研究所」に集まっているジャーナリストたちは、地下活動をしなければなりません。アフガニスタン政府の実態を暴露しようとするたびに、投獄と暗殺の脅迫を受けています。

勇敢で優れた指導者ということで知られているアフガニスタンの女性議員マラライ・ジョイヤ氏に会いました。彼女がアフガニスタン政府の実態を暴露しようとした時に、議会から追放されました。その後、五回暗殺の脅迫を受けています。彼女は今、国外に逃亡し身を隠しています。他の優れた指導者たちも同じ運命を辿っています。

メディアというのは道具に過ぎません。強力な道具ではあります。それを政府は自分の道具として活用しています。政府の説明をそのまま流す機関となっています。できる時には私たちも自分たちのメッセージを広める道具として使いたいと思います。メディアが直接的間接的に企業の利益に奉仕するものとして堕落していることは、忘れてはならないと思います。私たちも自分たち自身のメディアを立ち上げて対抗するべきです。私の考えを形成する上で様々な情報源にアクセスします。大手メディアもそのひとつとして見ますが信用はしません。その他の様々なものから事実を探すようにしています。冬の兵士作製委員会のみなさまのお力により、先日BS-NHKで二人のことがフィーチャーされまして放映されました。これは私たちがメディアを利用している良い例で、その内容は大変優れたものでした。でもこれは非常に稀なことなので、自分たち自身の独立したメディアを育てていくことが大切です。

メディアに登場しない物語として紹介します。アフガニスタンを再訪した時に700人ぐらいの人が暮らしているにある難民キャンプを訪問しました。そこは、一年前にケムリン省で爆撃を受けた人たちが難民としてカブールのほうに流れてきて難民キャンプを形成したのです。そこにいる間、アフガニスタン政府からもアメリカからも国連からも援助はありません。彼らが受け取った支援というのは100人対して4ポンドの米が一日一回配給されるだけです。それが支援の全てです。そこの世話役の一人に会いました。その人は米軍の空爆により、家族を五人失っています。娘が一人居ますが、腕をもぎ取られています。彼が見せてくれた中に、政府が五人の命に対して補償するという書類がありましたが、一年半たった今でも何も行われていません。この話は一切メディアには洩れていません。真実を抑圧するためにいかに強いシステムが働いていることを物語っていると思います。」

冬の兵士―イラク・アフガン帰還米兵が語る戦場の真実
冬の兵士―イラク・アフガン帰還米兵が語る戦場の真実
Aaron Glantz,TUP

映画「BASURA」&四ノ宮監督トークショー(私的memo)

「大人たちは全て死ねばいい。そうすればこの国はよくなる。」
と島木譲二似の運転手が語るシーンからフィルムが回り始める。

広大な敷地のゴミ捨て場。そこに舞うビニールのゴミたち。やがて空高く舞い上がり、タイトル「BASURA」の文字が映し出される。「BASURA」とは「ゴミ」と言う意味のタガログ語だ。

四ノ宮監督は20年前と何も変っていないと、マニラを取材しながらつぶやく。町にはストリートチルドレンが溢れている。メリージェーンと言う11歳の女の子は、売春をしながら小遣いを稼いでいる。その目はもう子供ではなく、何処か虚無感が漂う表情だ。「私のお客。」と中年男性の腕を取りながらシナを作る姿は生々しくもあり痛々しくもあり。

マニラ市内には900万人が住んでいるが、60パーセントは正規の仕事についていないそうだ。20年前よりも、ホームレスの家族も確実に増えている。繁華街の路上でダンボールを敷き、家族が寝ている姿が映し出されている。彼らは町のゴミを拾って、1日300円から700円の収入を稼いで生活しているのだ。

スモーキーマウンテンの住宅はここ数年で様変わりしたそうだ。国が団地を建設して、そこに無償で提供したらしい。四ノ宮監督の映画が世界各国で上映され、スモーキータウンが世界に知れ渡った所為で国が動いたかもしれないと、監督がトークショーで語っていた。その住宅のお陰で、新生児の死亡率は極端に下がったらしい。

しかし、そこに住む人たちの仕事と言えば、やはり九割の人がゴミ拾いをしていて、何も変ってはいない。昔は裕福層(しかも大阪市ぐらいの広さの土地を持っているような極端な裕福層)が一割で、九割がゴミ拾いなどをしている貧困層だったそうだが、今は、裕福層の一割はそのままで、公務員などの中間層が二割、そして貧困層が七割というのが、フィリピンの現状らしい。国そのものを根本的に変えていかなければ、この現状は変っていかないだろうと監督は語っていた。

監督がスモーキータウンの子供たちをテーマにしようとしたきっかけは、地獄のような場所に住みながらも、澄んだ瞳を持ち、家族を思いやる優しさを持っていることに心を打たれたからだ。毎日ゴミ拾いをして得たわずかな収入をほとんど親に渡している。そして教会で祈っていることは、「私はゴミ拾いをずっとしてもいいですから、弟や妹を学校に行かせてください。」「私の命が短くなってもいいから、お父さんの病気を治してください。」と、自分を犠牲にしてまでも家族を思うその心に監督はショックを受けたそうだ。そのことがそれまで物質的な豊かさしか求めてこなかった人生のターニングポイントになったとおっしゃっていた。

そして監督自身が、スモーキータウンをテーマに撮り続けることができた源は、ノーラ夫人だそうだ。奥さんがフィリピン人でなかったら、逃げ出していたと思うとおしゃっていた。スモーキーマウンテンでの撮影は劣悪な環境の中でかなり過酷であったらしい。やはり健康まで損なわれてしまい、限界を感じたそうだ。そしてその瞬間に、生きることでの大切なことが見えてきたと強く語っておられた。そしてゴミ捨て場に育てられ、フィリピンに育てられ、フィリピンに感謝しているともおっしゃった。

この「スカベンジャー」「神の子」「BASURA」三部作は、若い人たちに是非観てもらいたいということで、高校生以下は無料だ。そして観るだけで終らずに、次に何か行動を起こして欲しいとおしゃっていた。すでに、この映画に出演していた人のところへ、物資を送る運動とか、現地でのスタディツアーが始まっているらしい。ツアー以外でも、日本の若い人たちが、スモーキータウンをよく訪れているそうだ。

次回作は、第二次世界大戦の時にフィリピンで餓死した日本兵の人たちをテーマにした映画だそうだ。体が悪いので、この映画が最後になるかもしれないと、少し弱気な発言をされていたのが気になった。

「フィリピンに知的好奇心をむけ、フィリピンを体験するということは、同時に日本と日本人を見つめ直すということに繋がる。私たちがフィリピン・フィリピン人に関わるということは、フィリピン・フィリピン人をサポートするということではなく、フィリピンを通して世界から私たちが支えられたり励まされたりするということだ。」とトークショーに同席した阪大のフィリピン研究家の津田教授が最後に締めくくっておられた。

現代フィリピンを知るための61章【第2版】 (エリア・スタディーズ 11)
大野 拓司,寺田 勇文

忘れられた子供たち

忘れられた子供たち スカベンジャー (ハートシリーズ)
忘れられた子供たち スカベンジャー (ハートシリーズ)
四ノ宮 浩


1995年に上映された映画で1989年から6年をかけて作られたドキュメンタリーだ。フィリピン・マニラの北部にある当時東洋最大のスラムと言われたスモーキーマウンテンで、ゴミ拾いをして生活をしている子供たちに焦点を当てて撮影されている。

一日300台のトラックが運んでくるマニラ市内のゴミに、背中に大きなカゴを背負った大人や、ドンゴロスの袋を引き摺った子供たちが群がり、その中からビンや金属や拾って、その日のうちにジャンクショップに売りにいくのだ。午前中の数時間で30kgほど集め、30ペソ(150円)になるそうだ。

ゴミの奪い合いからケンカが絶えず、殺人になるケースも少なくないらしい。映像にも殺された人が映し出されていた。
またゴミの中には、赤ん坊の死体や、切断された体の一部が混じっていることもよくあり、太ももから切断された足がフィルムに納まれていた。
悪臭や吐き気から逃れるためにシンナーを吸うんだとJRと名乗る青年が言っていた。その彼は幼いときに親と離れ離れになり、ゴミの中からかき集めたもので家を作り、一人で暮らしている。

エモンと言う13歳の男の子は、母親と幼い二人の弟たちを養うために、夜中に町のゴミを拾って生活をしている。後三人の兄弟がいたが、ゴミ山でトラックに轢かれ死んだり、はしかで死んだり、行方不明になったりで、三人を亡くしているが、この映画の撮影中にも、すぐ下の弟が行方不明になっている。

20年以上の前の話だから、たぶん今は少しは良くなっていることだろうと思いたいが、最新作「BASURA」がこのシリーズの三部目として上映している最中で、そのイントロダクションを読むと、どうもあまり変っていないことが伺える。

この世界の貧富の格差は、いったいなんなんだろう。
「モスキートタウンに生まれなくて良かった。」と心のどこかで思ってしまうが、世界は何処かで繋がっているのだから、この人たちの貧困のお陰で、僕たちはもしかしたら多少の贅沢ができているのかもしれない。

しかし、日本の自殺者数は毎年3万人を超え、自殺率は10万人に対して24人のところ、フィリピンは2人だそうだ。日本人とモスキートタウンに住むフィリピン人とではどちらが幸せなんだろう。この映画の最後のほうで、JRの妻になった女の子が語った言葉が印象に残った。

「私たちにいい生活は必要ない。1日3回食べられて、子どものミルク代が不足しなければいい。私たちは家族みんな一緒なので幸せですよ。」

———————-
スカべンジャー
再生可能なゴミを拾い、転売して生きる人々。

「フリージャーナリストです。日本語で言えば無職です。」

報道されなかったイラク戦争 (西谷文和の「戦争あかん」シリーズ)
報道されなかったイラク戦争 (西谷文和の「戦争あかん」シリーズ)
西谷 文和

「フリージャーナリストです。日本語で言えば無職です。」
と西谷文和さんの自己紹介から始まったアフガニスタン取材報告会に行ってきた。

西谷さんはイラクには何度も行かれているが、アフガニスタンは今回は二回目だそうだ。

一回目は八年前である。他国のジャーナリストと共にウズベキスタン経由でアフガニスタンに入った時、まるで中世の国に来たように感じたらしい。それは電気もガスもなく、家は泥で出来ていたからである。

アフガニスタンについて間もなく、明け方に震度3ほどの揺れを感じ飛び起きた。しかしそれは地震ではなく「バンカバスター」という爆弾だった。地上に落ちた爆弾はそこで爆発することなく、地下20mほどの深さで初めて爆発する。おそらく弾頭は劣化ウランだろうということだ。ウサーマ・ビン=ラーディンが地下に隠れていることを想定して、そんな爆弾を使ったそうだ。中世で時間が止まったようなアフガニスタンに、そんな最新鋭の武器を使うアメリカ。力の差は歴然としている。またクラスター爆弾の不発弾と、食糧支援でばらまいたリッツの箱が似ているため、間違って不発弾を触ってしまい被害にあった子供たちがたくさんいるという。なんとも無神経なアメリカ。

そして今年六月に二回目の取材を行なってきた。カブールでの映像が流れる。戦争によって障害者になった人たちのデモ行進が行なわれている。その中の一人が言っていた言葉。「アメリカやアフガニスタン政府に援助するのではなく、私たち障害者に直接援助してください。」日本は今までに約2000億円の支援をしているにも関わらず、そのお金は途中で消えていき、映像に出てきた両足を失くした障害者の人には月600円の支給しか出ていないと言う。(ちなみにアフガニスタンの生活費は田舎でも月一万円はかかるらしい。)

赤十字病院には戦争被害者だけでなく、近所の人に銃撃されて負傷した人もよく担ぎ込まれてくる。それは、長引く戦争で、一般市民にまで銃器が出回っている所為である。

カブールの避難民キャンプの映像が流れる。土の上に転がったゴミのようなパン屑。これが彼らの食糧である。これに水をかけて食べている。水道、ガス、電気もなく、狭いテントにすし詰めの状態で暮らしている。衛生状態も非常に悪い。大人も子供もかなり汚れている。この避難民キャンプには、国連の援助もストップされている。それは、このキャンプにタリバンが潜んでいるという理由でだ。イスラムの教えで、収入の10パーセントを寄付しなさいというのがあるが、それによって金持ちからもらったパン屑だけで生活しているのだ。ライス前国務長官の「アフガンの一つや二つ壊してもいい。」と言うような発言から、レバノンであったような虐殺が心配されるということだった。西谷さんは、この時、トラック一台分の食糧を届けたのだが、騒然となり一瞬でなくなったとか。

その他に様々な話を聞くことができた。戦争の民営化、「カーライルグループ」を通じてのブッシュ一家とビン=ラーディン一家の関係や、ブッシュ政権に関わった政治家たちとの関係、(結局は金、金、金じゃ!金儲けの為の戦争じゃ!)、テロとの戦いの中でどれだけのお金を無駄に使ってきたか、湾岸戦争勃発に仕組まれた少女ライラの嘘の発言や演技、イラクでの米兵撤退により自爆テロが増えたというマスコミの嘘(スンニ派VSシーア派の自爆テロ合戦はアメリカが仕組んだ!?)、イラク戦争に関わったことを総括せよと国会へ西谷さんが行き、イラクの劣化ウランの被害者の映像などを持って面会を求めたが、見に来たのは社民党と共産党だけだったとか、劣化ウランの問題をマスコミが取り上げないのは原子力発電やアメリカが絡むからだとか・・・興味深い話をたくさん聞くことができた。

とにかく道理がないこの戦争は、泥沼になっていくだろうとの西谷さんの見解だった。
そして、いったいどれだけの無実の民間人がこれからも殺されていくのだろう・・・。

昨日はイラク、そして今日はアフガンの現状を聞いたが、見渡してみると同じような顔ぶれのような気がした。少し前からこのような報告会や勉強会に参加しているが、平均年齢が高い! 退職されたような年齢の方が一番多いように見える。二十代から三十代前半より若い人が少ないのはとても残念だ。ま、僕も偉そうに言える立場ではないが、これを最後まで読んでくださった方は、こんな報告会のような機会があれば、一緒に行きませんか?

西谷さんは、10月からまたイラクやアフガニスタンに取材に行かれるそうだ。どうかご無事で行かれて、また報告を是非聞かせて欲しいものだ。

玉本英子さん講演会

ビデオジャーナリストの玉本英子さんの講演会を聞きにいってきた。
現在のイラクの状況を、玉本さんが撮影したビデオを見ながらのお話であった。

2007年4月の映像では、スンニ派の自爆攻撃で黒焦げになった車をバックに、「なんてことはないよ」と笑っている子供、そしてその近所の文房具屋さんにたむろする子供たちは、二日に一回しか学校に行けない、行っても先生がいないと、これも笑顔で答えていた。

2009年3月、バクダットにあるザハラ公園での映像。大阪の服部緑地のような場所で、家族連れがたくさん遊んでいる。その人たちにインタビューをすると、「こんな休日を迎えることができる日が訪れるなんて思いもしなかった。」と笑顔で答えていた。2年前に比べると、治安は良いが、空爆のあとがそのままである。そして検問の数が多いので、力で抑えつけての平和であるようだ。バクダットの状況が良くなったのは、2008年からの米軍とイラク軍による武装勢力掃討に因るものだ。

バクダットから北へ170kmにあるサダムフセインの生まれ故郷であるティクリートは、かつて反政府勢力の拠点であったため、今もフセインの肖像画が建物の壁などに残る町である。しかし、イスラム教は偶像崇拝を禁じているので、目のところだけが剥がされてあった。このティクリートも治安が良くなっている。それは、旧イラク軍の司令官を、現イラク軍に呼び戻し、そして検問を厳しくしたからだそうだ。

その町でケバブを売っている28歳のバシールさんにインタビューしていた。頭は禿げ上がり老け顔で50歳ぐらいに見えていたが・・・。彼曰く、「オバマがもしイラクのことを考えているのなら、米軍が殺したイラク人たちを保障すべきだ。それをしてから撤退せよ。このまま出て行ってはならない。」

しかし、その後米軍基地を取材しているが、ノーアポにも関わらず、司令部の中を撮影しても何らストップもかからず、もう完全な撤退モードになっていた。このまま撤退してもイラク軍は大丈夫かと言う質問を米兵にしても、上を見ればキリがないと答えられたとか。通訳に同じ質問をしたら、イラク軍は指揮系統がなっていなく、武器もなく戦闘機もない状態だと答えたそうだ。

イラクの治安がよくなった大きな要因として、民兵組織SOI(Sons of Iraq)があげられる。公務員並の給与で民兵を雇うプログラムだ。そのお金はもちろんアメリカから出ているのだが、その給与によって、お金のために武装勢力に加担していた民間人が激減したそうだ。SOIの民兵たちは、自分たちは米軍に利用されているのではない、イラクのために働いているんだという自覚はあるそうだが、アルカイダからはアメリカの傀儡だと狙われたり、またマリキ政権にとっても、その存在は障害になっているそうだ。

大阪の太平寺小学校とイラクのアルビルにあるジャワヘリ小学校との交流の架け橋も、玉本さんはされていて、お互いに自己紹介カードの交換をしている姿はとても微笑ましかった。平和教育は、戦争の悲惨さを伝えるだけでなく、そこに住んでいる一人一人の存在を認め合うことも大切なのではと言うようなことをおっしゃっておられた。

最後にエズディ教の話。イラクでイスラム教、キリスト教につぐ第三の宗教だ。ゾロアスター教とキリスト教とその他もろもろがミックスされた宗教で、多神教である。またエズディ教徒になるためには、父も母もエズディ教でないといけないと言うかなり特殊な宗教であるらしい。フセイン時代にかなり弾圧をされたが、今も無差別殺人が続いていて、悪く言えば、殺されっぱなしで、それは、エズディ教の人たちは報復はしないからだそうだ。それは教えとして報復をしないとあるわけでもなく、彼らの信条としてあるものらしい。

以上は、自分へのメモ、記録として残しておきたいのでまとめてみた。少し不思議に思ったのは、劣化ウラン弾の話が出てこなかったことだ。玉本さんは、そのことについては取材していないので、他の団体やジャーナリストに当たって欲しいとおっしゃっていたが、何回もイラクに取材していながら、そのことが目に入らないのは、もしかしたら、劣化ウラン弾の影響ってそんなにわかりにくいものなんだろうか、ということである。孤児院への取材もあったが、やはり劣化ウランの被害の話はなかった。地区にもよるものなのかな。もしかして従軍取材だから、そこは避けなければならなかったとか。

そう。「南京 引き裂かれた記憶」のインタビューワーの松岡環さんも会場に来られていた。松岡さんは、玉本さんがノーアポイントメントで取材することを称えていたが、玉本さんはアポイントメントをとって取材してまわると、武装勢力に待ち伏せされる可能性があるからだと答えておられたのを聞いて、なるほどと思った。

しかし、玉本さんは宇多田っぽく、結構美人だった。(笑)
(なんのしかしや~)

以上、おしまい。

被差別部落の青春

被差別部落の青春 (講談社文庫)
被差別部落の青春 (講談社文庫)
角岡 伸彦

題名から、小説なのかなと思ったら、ルポタージュだった。筆者の経歴を見ると、同じ時期に同じ大学にいたことになる。本書を執筆するにあたり彼自身が部落出身であることをあかして、百人以上の人に取材をしたそうだ。

僕自身も「部落問題」については何か釈然としない違和感を感じていたのだが、この本を読むことにより、少しすっきりしたような気がする。部落問題の歴史を「水平社宣言」を中心に勉強しなければならないと思うし、日本にもこんな歴史があったことは知るべきだと思う。でもその頃にあった差別がそのまま今も残っているはずはなく、でも、差別がなくなっているとも言えず、でも有効に使われているとは思えないお金のばら撒き方に疑問を感じていたり・・・。

この本の著者自身も差別をほとんど経験したことがなく、本に登場する被差別部落の若い世代の人たちも、差別を感じたことがないと答える人が多かった。これは、差別と闘ってきた人たちの成果がここに現れているのだと思う。日本も捨てたもんじゃないと思った。でも、調査会社に、部落出身であるかどうかの依頼はまだまだ絶えていないそうだ。特に同和教育が盛んに行われてきて地域に多いそうだ。また調査を依頼してくる人の中には、同和問題に携わっている人もいるとか。

「差別と日本人」のシンスゴさんの書いた文章もそうであったが、『悲惨な差別の実態の強調が、あたかもすべての部落の現実であるかのような印象を与えてきた。』と書かれている。確かのそのほうがインパクトもあり、被差別者の心情が伝わりやすい。『部落の描かれ方は、差別がまだまだ厳しいという悲観論か、さもなければもうなくなっているという楽観論のぢちらでしかなかった。』筆者は、その間を描きたかったそうである。その真意は充分伝わった本であった。

どうか一撃で私たちを殺してください。

沖縄戦 ある母の記録―戦争は親も子も夫も奪ってしまった…

沖縄戦 ある母の記録―戦争は親も子も夫も奪ってしまった…
石川 真生,安里 要江,大城 将保

友人の薦めで読んでみた。
今まで、沖縄戦のことは、なんとなくしか理解していなかったが、この本を読んで、輪郭がはっきりしてきたような気がした。

安里さん一家が空襲や艦砲射撃から逃れるために沖縄の各地を逃げ回った様子が克明に書かれている。
兵隊から守られることもなく、家族を一人一人失っていく。埋葬する余裕もなく、遺体は放置したままその場から逃げさっていくのだ。生き延びようとしながらも、「どうか一撃で私たちを殺してください。」とも願うアンビバレンツな状態に陥っていく。子は親を見放し、親は子を見放す地獄のような様相の中でも、安里さんは自分の子どもを守るが、やがて腕の中で冷たくなってしまう。
この本では、具体的な自決せよと言う軍の命令は書かれていなかったが、最後に逃げ込んだ洞窟の中では、子供が泣いたら殺すと脅されたと書いている。その洞窟にガソリンが撒かれる直前に安里さんは救出された。

集団自決に関して、もっと知りたいと思った。他の書物をもう少し読んでみよう。

差別と日本人と僕

差別と日本人 (角川oneテーマ21 A 100)
差別と日本人 (角川oneテーマ21 A 100)
辛 淑玉,野中 広務

本屋に平積みになっていた。滅多に新刊など買わないのだが、吸い寄せられるように手にしてしまい、そのままレジに向かった。

「差別は享楽である。」とシンスゴさんは言う。
その享楽は麻薬的でもある。
どうあがいても、自分の心の中にある差別心はなかなか無くすことはできない。たいした根拠もなく「あいつよりはましや。」と言う思い。

小学校の時、友達に
「●●町を通る時は、親指隠さなあなんねんで。」と言われた。
意味がわからないので親に聞いたら、部落のことを教えてくれた。
「顔から違うねん。」
それを聞きながら、聞いていけないものを聞いてしまった何か息苦しいものを感じた。何処か間違っていると心の何処かで思っていた。

中学に入って、同和教育を受けたが、内容は覚えていない。でも、それまで感じていた違和感が、差別だと言うことに気づいたのだと思う。しかし、中学三年生の時の担任は
「ほんまこんな勉強させたくないんやけどな。寝た子を起こすようなもんやし。」と言いながら同和の勉強をしていた。今でも記憶に残っていると言うことは、担任の発言に疑問を感じていたからだろうと思う。

仲の良かった友達が、「俺んところ部落やねん。せやから字とか読まれへん。」と何かの会話の中で話された時は、とても複雑な気分だったように思う。僕はどんな返事をしたのかも覚えていない。何故か親の顔が浮かんで、腹立たしくなったいたような気がする。

三無主義全盛の頃、高校に入った。マージャン仲間の友人たちが、よく差別発言をしていた。
「あいつ、●●●●やで。ださっ~。」
一緒にいた僕はその時、どんな顔をしていただろうか。もしかしたら笑い顔だったんだろうか。同調して発言をすることはなかったが、それを諫めるようなこともしなかった。

同じように外国人差別を発言をしていた友人が、ある日、原付の免許をとった。その友人に免許証を見せてくれとせがんだ。その友人は渋っていたが、僕に見せてくれた。その免許証を見ながら、僕は凍り付いてしまった。国籍が日本じゃなかったのだ。僕はその欄を見なかったふりをして、その免許証を返した。彼が同胞を一緒になってからかっていたことにショックを受けた。しかし、お互いその話に触れることもなく、僕も誰にも語ることはなかった。

大学に入り、「部落解放研究」のオープン講座に参加してみた。単位は関係なかったが、お坊ちゃん学校の関学でどんな講座になるんだろうと興味があったのかもしれない。
第1回目の講座は、部落解放研究会がフィルドワークをしてきた発表だった。とある河川沿いにある部落の調査だ。何か最初から目線の高さの違いを感じながら聞いていた。彼が撮ってきた写真のスライドが流れ出した。
「このように住居も壊れそうなものが多かったのです。」と言いながら映し出されたのは、少し斜めに傾いた木造家屋の壁に支えるように手をあてて笑顔で写っている写真だった。とても腹がたった。差別される側の気持ちをまったくわかっていないと思った。かなりの文句を書いて提出したら、2回目の講義でそれが取り上げられ、謝罪していたような記憶がある。その講義はもうそれを最後にして、出席しなくなった。

これらが僕が成人する頃までの「差別」に関しての思い出だ。だからなんなんだと言う話だが。子どもの頃に沁みこまされたものは、なかなか褪せることはない。恐らく僕の親は今でも烈しい差別発言をするのではないかと思う。だからそんな話題はいっさいしないが。

そして、僕の心の何処かにも、その差別心はあると思う。差別はいけないとわかっていても、何かの拍子にぽっかりと差別心が浮かんでくるのかもしれない。

だから、この本を読んで良かったと思う。色々なレビューでシンスゴさんのヒステリックな一面に対して、批判めいたものが多いが、確かに断定しすぎな一面もあるが、被差別者としては当然の発言ではないかと思う。

しかし、「差別は家族を撃つ」と言う表記があったが、本書の最後のほうで、野中さんもシンスゴさんも、差別とは闘ってきたが、そのために今は孤独であるというようは二人のお話には、胸が塞がれるような思いがする。

最後に。本書に麻生のことも書かれている。やはり彼は最低だ。麻生財閥が経営した炭鉱は、被差別部落の人や強制連行された朝鮮の人々を奴隷のよう酷使した。そして、初選挙の時は、被差別部落のある町で「しもじものみなさん。」と言いながら演説をしたとか。また「創氏改名は朝鮮人が望んだ。」と言う東大学園祭での発言、そして大勇会の会合で「野中やAやらBは部落の人間だ。あんなのが総理になってどうするんだい。」と言った発言。
こんな人間が日本の総理をしていただなんて・・・。そんなやつを総理にした国民って・・・。

高木静子さんの被爆体験

先日、被爆者の講演会があった。
講演者は高木静子さんとおっしゃる方で、大阪市内に在住されている。生まれも育ちも大阪なのだが、17歳の時、広島女子高等師範学校に合格され、その年に被爆された。お話は90分ほどあったのだが、その中の原爆が投下された時の話をまとめてみた。
お時間がある方は、どうか読んで頂ければ、有難い。

■入 学

広島女子高等師範学校は一九四五年七月二〇日に開校され、学校が始まった。17歳の私は、好きな生物学が勉強できると胸をときめかせ入学したのだった。

■八月五日

忘れる事のできないあの日の前日、八月五日(日)は一晩中空襲警報が鳴っていた。何度も何度も部屋と防空壕の往復をした。明け方四時ころにやっと眠れた。

■八月六日朝礼

そして迎えた六日の朝、眠い目をこすりながら八時に運動場に立った。優しかった校長先生は寝ていない生徒の事を思い何も話をせずに生徒たちはすぐに教室へと入った。まったく雲もなくきれいに晴れた空だった。

■そして、その瞬間

教室に入って、窓側の自分の席に座り、ノートを開きながら友達と話をしようとしたその瞬間、反対側の窓が光った。写真のフラッシュを何千倍も強くした光だった。まるで太い丸太で叩かれたように感じた。木っ端微塵になった窓ガラスが降りかかってきたのだ。そのまま校舎が崩れ落ち、私は柱か何かで挟まれてしまった。

■別れを告げる

みんなの叫び声が聞こえていたのが、急に鎮まり何も聞こえなくなり、真っ暗になった。その時以来、左の耳は聞こえないままだ。時間の経過がわからないままではあったが冷静になってきた。両親や友達の顔が浮かんできて、みんなに心の中で別れを告げた。

■白い円盤

しばらくして校舎が再び崩れだし、挟まれていた体が自由になった。
何も見えないまま夢中で這い出し、立ち上がった。目をこすって空を見上げると、真っ暗な空の真ん中に白い円盤が張り付いていた。これは太陽だった。原子雲の真下にいたのだ。

■ボロ雑巾のような子供たち

周りを見渡すと、校舎はまったくなくなっており、ガラクタの山になっていた。「熱いよ~、お母ちゃ~ん。助けて~」と言う声がする。付属小学校の四年生の子たちだ。全身ボロ雑巾のようになりながらキリキリまわっている。重なり合って動かない子たちもいる。気がつくと、自分も血まみれになっている。顔中から血が出ており、左首からはほとばしるように出ている。もんぺの中まで血がたまっていた。出血多量のために周りの景色がすーっと見えなくなってきた。

■逃げろ!

そこへ瓦礫の下から抜け出してきた友達が「早く逃げましょう。そこまで火が来てるのよ。」と駈け出したが、私は見えないので、「見えないの。連れってって。」と声をかけた。友達に右腕を抱えられながら逃げた。川土手に上ると、市内は真っ赤な炎をあげて燃えている。友達は市内に住んでいたが帰ることもできない。

■幽霊のように…

そのまま陸軍の仮設飛行場の吉島に向かった。意識朦朧のまま垣間見えた光景は、ちょうど広島原爆資料館にあるマネキンのように、
まるで幽霊のように彷徨っている人たちだった。飛行場の周りには大きな防空壕がたくさんあったので、友達はそのひとつに私を入れてくれた。その友達は自分の家族を探しに市内へと向かった。

■死体の中から這い出し…

次に意識が戻った時は、夕方になっていた。防空壕に中にくれない色の光が射していた。寒気が襲ってきた。よく見えない眼で周りを見渡すとたくさんの死体が横たわっている。このままでは自分も死体になってしまうと思ったので、動かすことができる右ひじだけを使って死体をかき分け、防空壕から這い出した。

■生きたまま燃やされる

そこで横たわっていると兵隊さん二人がやってきて「学生さんだね。」と声をかけられたので必至で返事をした。兵隊さんたちは「助かりそうだから助けてやろうや。」と言って、兵舎の中に私を担ぎ込んだ。もしその時、助かりそうに見えていなかったら、再び防空壕に入れられ、石油をかけられ燃やされていたところだった。

■生きろ!

次に意識が戻った時は、朝の光が差し込んでいた。まるで昨日と同じような朝。何も食べていないことに気が付き、このまま食べなかったら死んでしまうと思い、あたりを見渡すとおにぎりが頭の横にあった。
動かすことができる右手の小指と薬指を使って、一粒一粒食べようとした。しかし、放射線の影響で腫れあがった口になかなか入らす苦労をした。米粒は糸をひいて腐ってはいたがそんなことは気にしていられなかった。

■血便

でも、放射能の影響か、すぐに吐き気がしてきた。年頃の娘だったので、その場に嘔吐することが出来ず、這って砂浜までいき、そこで嘔吐した。兵舎まで戻ったら、再び嘔吐感と腹痛に襲われ、再び這って砂浜に出ていき、用を足した。おそらく血便が出ていただろうと思う。そんなことを数回繰り返すうちに、力尽きて砂浜で横たわっていると、再び兵隊さんに見つけられ、兵舎に戻してもらった。

■六千六百人の中学一年生が死んだ

その兵舎には、他にも担ぎ込まれた人たちがたくさんいた。その中で今でも忘れられないのは十二歳の中学一年生の子供たちの姿だ。彼らは爆心地一キロ以内の場所で「建物疎開」に従事していた子供たちだ。「建物疎開」とは延焼を防ぐために、密集した建物の一部を壊して空地を作る作業である。八時十五分に子どもたちは、空地に整列していた状態だったので、熱線も爆風も遮るものは何もなかった。資料には、その時六千六百人の十二歳の子供たちが死んだと記録にある。

■こけて助かる

付属広女には三百五十人いたが、たった一人だけ助かった。整列した時に転倒したために、同級生たちの影に入ったのだ。一人生き残った彼も辛かったが、数年前、その人も亡くなった。

■全身うじ虫だらけ

兵舎にいた中学生はみな全身大火傷を覆っていて、焼けただれた皮が、体から滲みでてきた水で剥がれ落ちてしまう。ひどく臭い匂いがし、そこにハエがたかり、卵が産みつけれる。そして薄皮をはがすと、ご飯粒を敷き詰めたように一面ウジ虫だらけになっている。そのウジ虫たちがまた皮膚を食べようとするので、激痛が走る。

■すりつぶせウジ虫

兵隊さんたちは、一升瓶に食用油を入れ、一本ずつ棒を差し込んだものを用意して、治療をしてあげていた。私は火傷はしていなかったので、不自由な体で一緒に手伝った。その棒でウジ虫をかきとるのだ。かきとったウジがハエにならないように、肘や足の裏ですり潰したりした。

■お姉ちゃん、ありがと…

その傷口に油をたらしてあげると、子供たちは気持ち良さそうな顔をする。しかしほとんどの子供は次から次と息を引き取っていき、「お姉ちゃん、ありがとう。」とお礼を言って、そのまま亡くなった子供もいた。

■お母ちゃん…

その当時、亡くなる時は「天皇陛下、万歳!」と言って死ぬと決められていたにも関わらず誰一人、そんなことを言った子供は居なかった。
最期はみんな「お母ちゃん…」と微かに言っていた。吉島飛行場は市内から離れた海側にあったので、わが子が収容されているとわかる親はいなく、親子が再会している姿を見ることはなかった。

■町中死体の匂い

亡くなった子供たちは一ヶ所に運ばれ、火葬をした。そういう場面は広島市内のいたるところであり町中が死体の臭い匂いが充満していた。今もその匂いは忘れられない。

■優しかった兵隊さん、そして大阪へ

兵舎に収容されて5日目に学校の先生が訪ねてきてくれた。学校は焼けてなにもないので大阪に帰りなさいと言われた。そんな時でも「せっかく勉強にきたのに。」と言う思いはあったが、お世話になった兵隊さんにお礼を言って、大阪に帰ることにした。裸足では歩けないだろうということで、左右別の男物の下駄と、杖になる棒きれと、赤い汁椀と、乾パン20個を頂いた。最後まで兵隊さんに優しくして頂いた。

そして大阪へ向かったのだった。