高木静子さんの被爆体験

先日、被爆者の講演会があった。
講演者は高木静子さんとおっしゃる方で、大阪市内に在住されている。生まれも育ちも大阪なのだが、17歳の時、広島女子高等師範学校に合格され、その年に被爆された。お話は90分ほどあったのだが、その中の原爆が投下された時の話をまとめてみた。
お時間がある方は、どうか読んで頂ければ、有難い。

■入 学

広島女子高等師範学校は一九四五年七月二〇日に開校され、学校が始まった。17歳の私は、好きな生物学が勉強できると胸をときめかせ入学したのだった。

■八月五日

忘れる事のできないあの日の前日、八月五日(日)は一晩中空襲警報が鳴っていた。何度も何度も部屋と防空壕の往復をした。明け方四時ころにやっと眠れた。

■八月六日朝礼

そして迎えた六日の朝、眠い目をこすりながら八時に運動場に立った。優しかった校長先生は寝ていない生徒の事を思い何も話をせずに生徒たちはすぐに教室へと入った。まったく雲もなくきれいに晴れた空だった。

■そして、その瞬間

教室に入って、窓側の自分の席に座り、ノートを開きながら友達と話をしようとしたその瞬間、反対側の窓が光った。写真のフラッシュを何千倍も強くした光だった。まるで太い丸太で叩かれたように感じた。木っ端微塵になった窓ガラスが降りかかってきたのだ。そのまま校舎が崩れ落ち、私は柱か何かで挟まれてしまった。

■別れを告げる

みんなの叫び声が聞こえていたのが、急に鎮まり何も聞こえなくなり、真っ暗になった。その時以来、左の耳は聞こえないままだ。時間の経過がわからないままではあったが冷静になってきた。両親や友達の顔が浮かんできて、みんなに心の中で別れを告げた。

■白い円盤

しばらくして校舎が再び崩れだし、挟まれていた体が自由になった。
何も見えないまま夢中で這い出し、立ち上がった。目をこすって空を見上げると、真っ暗な空の真ん中に白い円盤が張り付いていた。これは太陽だった。原子雲の真下にいたのだ。

■ボロ雑巾のような子供たち

周りを見渡すと、校舎はまったくなくなっており、ガラクタの山になっていた。「熱いよ~、お母ちゃ~ん。助けて~」と言う声がする。付属小学校の四年生の子たちだ。全身ボロ雑巾のようになりながらキリキリまわっている。重なり合って動かない子たちもいる。気がつくと、自分も血まみれになっている。顔中から血が出ており、左首からはほとばしるように出ている。もんぺの中まで血がたまっていた。出血多量のために周りの景色がすーっと見えなくなってきた。

■逃げろ!

そこへ瓦礫の下から抜け出してきた友達が「早く逃げましょう。そこまで火が来てるのよ。」と駈け出したが、私は見えないので、「見えないの。連れってって。」と声をかけた。友達に右腕を抱えられながら逃げた。川土手に上ると、市内は真っ赤な炎をあげて燃えている。友達は市内に住んでいたが帰ることもできない。

■幽霊のように…

そのまま陸軍の仮設飛行場の吉島に向かった。意識朦朧のまま垣間見えた光景は、ちょうど広島原爆資料館にあるマネキンのように、
まるで幽霊のように彷徨っている人たちだった。飛行場の周りには大きな防空壕がたくさんあったので、友達はそのひとつに私を入れてくれた。その友達は自分の家族を探しに市内へと向かった。

■死体の中から這い出し…

次に意識が戻った時は、夕方になっていた。防空壕に中にくれない色の光が射していた。寒気が襲ってきた。よく見えない眼で周りを見渡すとたくさんの死体が横たわっている。このままでは自分も死体になってしまうと思ったので、動かすことができる右ひじだけを使って死体をかき分け、防空壕から這い出した。

■生きたまま燃やされる

そこで横たわっていると兵隊さん二人がやってきて「学生さんだね。」と声をかけられたので必至で返事をした。兵隊さんたちは「助かりそうだから助けてやろうや。」と言って、兵舎の中に私を担ぎ込んだ。もしその時、助かりそうに見えていなかったら、再び防空壕に入れられ、石油をかけられ燃やされていたところだった。

■生きろ!

次に意識が戻った時は、朝の光が差し込んでいた。まるで昨日と同じような朝。何も食べていないことに気が付き、このまま食べなかったら死んでしまうと思い、あたりを見渡すとおにぎりが頭の横にあった。
動かすことができる右手の小指と薬指を使って、一粒一粒食べようとした。しかし、放射線の影響で腫れあがった口になかなか入らす苦労をした。米粒は糸をひいて腐ってはいたがそんなことは気にしていられなかった。

■血便

でも、放射能の影響か、すぐに吐き気がしてきた。年頃の娘だったので、その場に嘔吐することが出来ず、這って砂浜までいき、そこで嘔吐した。兵舎まで戻ったら、再び嘔吐感と腹痛に襲われ、再び這って砂浜に出ていき、用を足した。おそらく血便が出ていただろうと思う。そんなことを数回繰り返すうちに、力尽きて砂浜で横たわっていると、再び兵隊さんに見つけられ、兵舎に戻してもらった。

■六千六百人の中学一年生が死んだ

その兵舎には、他にも担ぎ込まれた人たちがたくさんいた。その中で今でも忘れられないのは十二歳の中学一年生の子供たちの姿だ。彼らは爆心地一キロ以内の場所で「建物疎開」に従事していた子供たちだ。「建物疎開」とは延焼を防ぐために、密集した建物の一部を壊して空地を作る作業である。八時十五分に子どもたちは、空地に整列していた状態だったので、熱線も爆風も遮るものは何もなかった。資料には、その時六千六百人の十二歳の子供たちが死んだと記録にある。

■こけて助かる

付属広女には三百五十人いたが、たった一人だけ助かった。整列した時に転倒したために、同級生たちの影に入ったのだ。一人生き残った彼も辛かったが、数年前、その人も亡くなった。

■全身うじ虫だらけ

兵舎にいた中学生はみな全身大火傷を覆っていて、焼けただれた皮が、体から滲みでてきた水で剥がれ落ちてしまう。ひどく臭い匂いがし、そこにハエがたかり、卵が産みつけれる。そして薄皮をはがすと、ご飯粒を敷き詰めたように一面ウジ虫だらけになっている。そのウジ虫たちがまた皮膚を食べようとするので、激痛が走る。

■すりつぶせウジ虫

兵隊さんたちは、一升瓶に食用油を入れ、一本ずつ棒を差し込んだものを用意して、治療をしてあげていた。私は火傷はしていなかったので、不自由な体で一緒に手伝った。その棒でウジ虫をかきとるのだ。かきとったウジがハエにならないように、肘や足の裏ですり潰したりした。

■お姉ちゃん、ありがと…

その傷口に油をたらしてあげると、子供たちは気持ち良さそうな顔をする。しかしほとんどの子供は次から次と息を引き取っていき、「お姉ちゃん、ありがとう。」とお礼を言って、そのまま亡くなった子供もいた。

■お母ちゃん…

その当時、亡くなる時は「天皇陛下、万歳!」と言って死ぬと決められていたにも関わらず誰一人、そんなことを言った子供は居なかった。
最期はみんな「お母ちゃん…」と微かに言っていた。吉島飛行場は市内から離れた海側にあったので、わが子が収容されているとわかる親はいなく、親子が再会している姿を見ることはなかった。

■町中死体の匂い

亡くなった子供たちは一ヶ所に運ばれ、火葬をした。そういう場面は広島市内のいたるところであり町中が死体の臭い匂いが充満していた。今もその匂いは忘れられない。

■優しかった兵隊さん、そして大阪へ

兵舎に収容されて5日目に学校の先生が訪ねてきてくれた。学校は焼けてなにもないので大阪に帰りなさいと言われた。そんな時でも「せっかく勉強にきたのに。」と言う思いはあったが、お世話になった兵隊さんにお礼を言って、大阪に帰ることにした。裸足では歩けないだろうということで、左右別の男物の下駄と、杖になる棒きれと、赤い汁椀と、乾パン20個を頂いた。最後まで兵隊さんに優しくして頂いた。

そして大阪へ向かったのだった。