差別と日本人と僕

差別と日本人 (角川oneテーマ21 A 100)
差別と日本人 (角川oneテーマ21 A 100)
辛 淑玉,野中 広務

本屋に平積みになっていた。滅多に新刊など買わないのだが、吸い寄せられるように手にしてしまい、そのままレジに向かった。

「差別は享楽である。」とシンスゴさんは言う。
その享楽は麻薬的でもある。
どうあがいても、自分の心の中にある差別心はなかなか無くすことはできない。たいした根拠もなく「あいつよりはましや。」と言う思い。

小学校の時、友達に
「●●町を通る時は、親指隠さなあなんねんで。」と言われた。
意味がわからないので親に聞いたら、部落のことを教えてくれた。
「顔から違うねん。」
それを聞きながら、聞いていけないものを聞いてしまった何か息苦しいものを感じた。何処か間違っていると心の何処かで思っていた。

中学に入って、同和教育を受けたが、内容は覚えていない。でも、それまで感じていた違和感が、差別だと言うことに気づいたのだと思う。しかし、中学三年生の時の担任は
「ほんまこんな勉強させたくないんやけどな。寝た子を起こすようなもんやし。」と言いながら同和の勉強をしていた。今でも記憶に残っていると言うことは、担任の発言に疑問を感じていたからだろうと思う。

仲の良かった友達が、「俺んところ部落やねん。せやから字とか読まれへん。」と何かの会話の中で話された時は、とても複雑な気分だったように思う。僕はどんな返事をしたのかも覚えていない。何故か親の顔が浮かんで、腹立たしくなったいたような気がする。

三無主義全盛の頃、高校に入った。マージャン仲間の友人たちが、よく差別発言をしていた。
「あいつ、●●●●やで。ださっ~。」
一緒にいた僕はその時、どんな顔をしていただろうか。もしかしたら笑い顔だったんだろうか。同調して発言をすることはなかったが、それを諫めるようなこともしなかった。

同じように外国人差別を発言をしていた友人が、ある日、原付の免許をとった。その友人に免許証を見せてくれとせがんだ。その友人は渋っていたが、僕に見せてくれた。その免許証を見ながら、僕は凍り付いてしまった。国籍が日本じゃなかったのだ。僕はその欄を見なかったふりをして、その免許証を返した。彼が同胞を一緒になってからかっていたことにショックを受けた。しかし、お互いその話に触れることもなく、僕も誰にも語ることはなかった。

大学に入り、「部落解放研究」のオープン講座に参加してみた。単位は関係なかったが、お坊ちゃん学校の関学でどんな講座になるんだろうと興味があったのかもしれない。
第1回目の講座は、部落解放研究会がフィルドワークをしてきた発表だった。とある河川沿いにある部落の調査だ。何か最初から目線の高さの違いを感じながら聞いていた。彼が撮ってきた写真のスライドが流れ出した。
「このように住居も壊れそうなものが多かったのです。」と言いながら映し出されたのは、少し斜めに傾いた木造家屋の壁に支えるように手をあてて笑顔で写っている写真だった。とても腹がたった。差別される側の気持ちをまったくわかっていないと思った。かなりの文句を書いて提出したら、2回目の講義でそれが取り上げられ、謝罪していたような記憶がある。その講義はもうそれを最後にして、出席しなくなった。

これらが僕が成人する頃までの「差別」に関しての思い出だ。だからなんなんだと言う話だが。子どもの頃に沁みこまされたものは、なかなか褪せることはない。恐らく僕の親は今でも烈しい差別発言をするのではないかと思う。だからそんな話題はいっさいしないが。

そして、僕の心の何処かにも、その差別心はあると思う。差別はいけないとわかっていても、何かの拍子にぽっかりと差別心が浮かんでくるのかもしれない。

だから、この本を読んで良かったと思う。色々なレビューでシンスゴさんのヒステリックな一面に対して、批判めいたものが多いが、確かに断定しすぎな一面もあるが、被差別者としては当然の発言ではないかと思う。

しかし、「差別は家族を撃つ」と言う表記があったが、本書の最後のほうで、野中さんもシンスゴさんも、差別とは闘ってきたが、そのために今は孤独であるというようは二人のお話には、胸が塞がれるような思いがする。

最後に。本書に麻生のことも書かれている。やはり彼は最低だ。麻生財閥が経営した炭鉱は、被差別部落の人や強制連行された朝鮮の人々を奴隷のよう酷使した。そして、初選挙の時は、被差別部落のある町で「しもじものみなさん。」と言いながら演説をしたとか。また「創氏改名は朝鮮人が望んだ。」と言う東大学園祭での発言、そして大勇会の会合で「野中やAやらBは部落の人間だ。あんなのが総理になってどうするんだい。」と言った発言。
こんな人間が日本の総理をしていただなんて・・・。そんなやつを総理にした国民って・・・。