沖縄戦と集団自決裁判について

昨日、沖縄県元知事の大田昌秀さんの話を聞きに行って来ました。本当は、原発の小出先生の講演会に行くつもりだったんですが、前日にMLで講演会のことを知り、こんなチャンスは滅多にないと思い、参加してきました。

内容はかなり密度が濃く、メモが追いつかないほどいろんな話をしてくれました。聞きっぱなしではもったいないと思ったので、ICレコーダに録音したものをまとめてみました。あくまでも自分のために行ったのですが、時間があれば読んでみてください。むっちゃ長いですが(笑)

最後の詩の朗読の後にまだ少しお話をされました。アメリカでは日本が2010までに憲法を変えて、2015年までに核武装するだろうと考えている らしいということです。また、一般の人が思うよりも核戦争の危機が迫っているとベトナム戦争当時の米国のマクナラマ元国防長官が著書の中で書いているそう です。

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2009年11月27日
「沖縄戦と集団自決裁判について」大田昌秀

【命令よりも説得】

大江さんと岩波の裁判について関連して考えることは、裁判を起こした人は、沖縄戦についてよく知らないのではないかということ。沖縄戦についてよく知っていれば、こんな裁判は起こせるはずがない。大江さんとも親交があるので、アメリカで資料を探し調べたところ、渡嘉敷での赤松隊の命令は見つからなかった。しかし慶留間島で、島民100~150名ほどのうち53名が自決している。その自決に関して日本軍の将校が命令(order)ではなく説得(persuade)したという記録を手に入れた。家族を殺せという命令を出しても拒否する人がいる。そういう人に対してこのままではアメリカに陵辱されると怖がらせ結果的に自決したということが考えられる。だから命令(order)よりも説得(persuade)のほうがより深い意味を持つのではないかと思う。曽野綾子の「ある神話の風景」の中に、これまで命令書は見つかっていないと書かれてはいるが、命令書がないとは書かれていない。そういう点で今後、資料を探して生きたいと考えている。「新しい教科書を作る会」の本を読むと、沖縄戦についていったい何をしっているのかと思う。

【縦の構造】

大江さんは裁判の陳述書の中でこういうことを言っている。
「私はこの集団自決が、太平洋戦争下の日本国・日本軍・現地の第32軍までを貫く『縦の構造』の力によって島民に強制されたという結論に到りました。そしてこの『縦の構造』の先端にある指揮官として島民たちの同様者を含む集団自決に直接の責任があったと渡嘉敷島の守備隊長の戦後の沖縄に向けての行動について、それが戦前戦中そして戦後の日本人の沖縄への基本態度を表現しているとして批判する文章を書きました。この批判は日本人一般のものであるべき自己批判として、私自身への批判を含みます。」
軍隊を知っている人なら、この「縦の構造」という言葉にピンとくる。そこで沖縄戦とはどういうものであったか、あらためて述べる。

【沖縄戦とは?】

沖縄戦を一言で言うと、最初から玉砕するということを前提として戦わされた戦争であった。作戦を指揮する東京の大本営は、沖縄にひとたび米軍が上陸したら玉砕するしかない、日本軍としては助ける方法がないということを知っていた。具体的にあげると、矢原作戦参謀(長身、アメリカの日本大使館で駐在武官経験、英語堪能)の「沖縄決戦」という著書の中で、「1944年末から1945年の初め頃にかけて、東京の陸軍中野学校出身(スパイ養成学校)の将校が数名、沖縄守備軍司令部(首里城地下30mに4kmの壕)を訪れ、沖縄守備軍首脳に対して『我々は一緒に戦うために来たのではなく、玉砕後の米軍統治下での情報を収集するために来た。』と明言した。八原作戦参謀たちは呆れ返って「我々が玉砕するまで貴様たちはそのへんの島で身を潜め身分を偽り地元の女と結婚をして待っておれ。」と皮肉を言った。」ということが書かれている。

何故そういう無謀な戦争をしたのか。
米軍が沖縄本島に上陸した時、日本本土の防衛体制は60%しか出来ていなかったので、出来るだけ米軍を沖縄に留め、その間に本土防衛を完成させようと図った。沖縄は防波堤あるいは捨石であったと言われている。

【沖縄戦の期間は?】

沖縄戦は昭和20年4月1日に始まり6月23日に終ったと教科書などに書かれているが、事実としては非常にまずいと考える。それは慶良間諸島で700人ほどの人が集団自決したという沖縄の重要な史実が完全に抜け落ちるからである。昭和19年10月10日の那覇空襲から始まったという説もあるが、慶良間諸島での地上戦が始まった昭和20年3月26日から沖縄戦が始まったと考えるのが正しいと思う。

また、6月23日に終ったというのもおかしな話である。その日は沖縄では慰霊祭が行われているが、それは間違っている。たくさんのアメリカの資料の中から分析すると、6月22日が正しいと考えられる。1960年頃までは、慰霊祭は22日に行われていた。何名かの人が23日が正しいと言い出したことによって変った。それは23日に戦争が終ったということではなく、沖縄守備軍の牛島司令官と長参謀長が自決した日である。正式に日本軍が無条件降伏したのは昭和20年9月7日(その後も若干戦闘は続いたが)であるので、その日を終結した日としたほうが良いと考える。また、6月26日に久米島に米軍が上陸したことにより、日本軍による住民虐殺が6月26日から8月20日まで久米島で起きている。スパイ容疑として幼子や赤ん坊を含む20名が殺害されている。そんなことも含め、6月23日に沖縄戦が終ったというのは、おかしい。

曽野綾子の「ある神話の風景」の中に「沖縄タイムスが出した「鉄の暴風」の中で、米軍が渡嘉敷島に上陸した日を正しくは3月27日なのだが26日と表記されている。重要な日にちを間違っているので、この本は信用するに足りない。」というような趣旨のことが書かれている。しかし戦争中の間違った日付の記録はいくらでもあるので、日にちが間違っているからと言って、中身も全部違うという趣旨は到底納得できない。

【牛島司令官自決について】

また自分自身の著書の中にも6月23日が牛島司令官たちが自決した日と書いてあるのもあるが、それは先ほどの八原作戦参謀の「沖縄決戦」を読んで書いたものであった。しかしアメリカで資料を調べるうちに、八原さんの本には事実に反することが書いてあることがわかってきた。その本には6月23日午前4時半頃、牛島司令官と長参謀長官が自決したことを見届けてから壕を出たという趣旨のことが書かれていたが、アメリカの「G2」と言う諜報部の尋問記録では、八原さんは6月23日よりも以前に捕虜にされていることがわかった。牛島司令官の孫にあたる人とお話をした時も、命日は6月22日であると言っていた。また、アメリカの資料の中に、司令官たちの墓標の写真があり、そこにも6月22日と書かれていた。

「牛島司令官と長参謀長は武士道に則り、切腹をした。そして剣道五段の副官の坂口が介錯をして、米軍の手に渡らないように両者の首を持って逃げようとしたところ至近弾を受け、首もろとも吹っ飛んだ。」と記述されているものをよく見るが、アメリカから持ってきた写真を見ると、両者の首は繋がっているし、切腹した様子もない。もてはやされている「武士道」という言葉に、最近の教科書問題とも絡んで、危険なものを感じている。

【他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス】

沖縄返還の時に佐藤栄作の密使となってキッシンジャー米国務長官と核密約を結んだ若泉敬さんという方がいらっしゃるが、1994年に『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』という著書の中で、沖縄を日本に復帰させることが沖縄県民にとって一番幸せになると思い、核密約を結んででも復帰を早めることができたら、そのほうが良いと思ったというような趣旨のことが書かれている。その若泉先生がお亡くなりになる前に、沖縄県民と私宛てに遺書を残しておられた。その中で「自分は沖縄県民の為に、これ以外に方法はないと思ってやったけれども、政府はその後、沖縄県民にまったく配慮をせず、基地もいっこうに削減させない。県民に対して悪いことをしたと思ってやまない。結果責任を取り、武士道にのっとって摩文仁の国立墓苑前で自裁する。」というようなことが書かれていて、考えあぐねたことがあった。結局、自決はせず、病気で亡くなったが、若泉教授は亡くなる前の数年間、身分を隠し毎年6月には沖縄を訪れて、慰霊碑に手を合わせていた。

【縦の構造—前提とされた玉砕】

日本政府としは、当時どのような考えを持っていたのか。米軍が沖縄に上陸をして4週間ほどたった4月26日、鈴木貫太郎首相がラヂオで沖縄の軍・官・民に呼びかけた。

「沖縄にある全軍官民諸君。私のただ思うことは、御詔勅を奉じ、一億国民共に一致団結し、以ってこの大戦争を最後まで戦い抜き勝ち抜いて、米英の野望をあくまでも粉砕し、以って御心を安んじ奉らねばならんということである。不肖私自らも一億全国民の先頭に立って、戦争一本の旗印をもとに総突撃を敢行する所存である。我が肉弾による特攻兵器の威力に対しは、敵は恐怖をきたしつつある。私は諸君がこの心気を掴み、勝利への鍵をしかと握られることを期待してやまぬ。私共、本土にある国民、また時来たらば一人残らず特攻隊員となり、敵に体当たりを成し、如何なる事態に立ち入たろうとも絶対に怯むことなく、最後まで戦い抜いて終局の勝利を得んことを固く決意している。繰り返して申すが、沖縄戦に打勝ちてこそ敵の野望を挫折せしめる戦局の段階を見るのである。」

このように政府の政策が「玉砕」を前提としている。その過程で沖縄戦があり、その結果として沖縄守備軍の牛島司令官が沖縄に赴任して、配下の軍官民にたいしての最初の訓示の中で「軍・官・民、共生共死の実現、一体化を図る。防諜に厳に注意すべす。」ということを言っている。しかし実際は共生共死という発想はなく、食糧などは、民よりも軍が優先された。言わば「共死」しか県民には道が残されていなかった。慶良間諸島の集団自決も食糧問題が絡んでいる。

【国侍隊による密告】

昭和20年1月、名護市大政翼賛会北部支部で、秘密裏に33名ほどからなる「国侍隊」が結成された。メンバーは学校長、市村長、県会議員、農協会長、医師など一般住民に緊密に接している人たちが選ばれた。彼らは一般住民の言動を監視して、「戦争はいやだ。」というような発言をしたら情報部に密告して処刑させる役割を果たした。

司令部からの命令は「軍解放」という新聞掲載されていた。4月9日のそれに、「日本語以外の言葉を話すのを禁ずる。沖縄語を話すものは間諜(スパイ)として処分する。」というのが載った。5月5日には長参謀長の署名入りで、同じ命令が出た。当時の65歳以上の人たちは日本語をよく知らなかった。八原作戦参謀の本には、県民がスパイをしたという報告は何度もあったが、一度もその根拠が明らかにされたことはなかった、と書いている。軍は最初から住民に対して不信感を持ちながらのぞんでいた。

【消えた沖縄県】

八重山の石垣市の市長が亡くなった時、選挙も行われることもなく、軍が次の市長を任命したことがあった。これは軍政が布かれたのと同じである。八重山出身の人で戦前、県庁に勤めている人の中で、課長以上になった人はいない。上の役職はみな他府県の人がやっていた。唯一、八重山出身で課長になった浦崎純という人の「消えた沖縄県」という著書の中で、県庁がどういう状態で戦争に入っていったか詳しく書かれている。昭和19年10月10日の沖縄大空襲があった時、県知事は那覇から普天間の自然洞窟に逃げてしまい、そこから帰ってこなくなり、職員は決済を求めるたびに数時間歩いて普天間まで行ったと書かれている。その後、その知事は東京に用事があると言って出かけ、そのまま香川県の知事になったとそうだ。そして、その他の上級役人も米軍の上陸直前になって次から次と東京方面に逃げ出していき、警察部長ただ一人が残ったと書かれている。現実に、戦争はそういう状態で始まったゆえに、行政的な役割は果たされず、民は軍の命令どおりに動かされることになった。

【法的根拠のないまま戦場へ】

沖縄では法的な根拠がないまま、学徒動員がなされ2500名以上の男子中学生や女学校の生徒が戦場に送り出され、たくさんの犠牲者が出た。私たちも半そで半ズボンを着て、散発式の銃と120発の銃弾と2個の手榴弾を持って戦場に出された。学徒動員として軍需物資を作る作業に従事する法律はあったが戦場に派遣するという法律は当時まだ出来ていなかった。昭和20年6月22日、すなわち、守備軍首脳が自決した日に初めて「義勇兵役法」が出来、その法に基づいて男性は15歳から45歳まで、女性は17歳から41歳まで動員して戦場に送ることが正式にできるようになった。「新しい教科書を作る会」の本にはそう言った法的な問題に一切触れられていない。

【作られた証言】

梅澤さんという方が名誉毀損で大江健三郎さんと岩波書店を訴えている。「集団自決は梅澤部隊長の命令ではなくて、助役の宮村盛秀の命令であった。これは遺族救済の補償申請のためやむを得ず役場当局がとった手段です。右、証言します。」と宮村の甥っ子の宮村幸延が書いて梅澤に渡したと記録されているが、実は梅澤自身がその文章を書いて、梅澤が宮村さんに酒を飲ませて酔わせ、判をつかせたと証言されている。しかし、「新しい教科書を作る会」の人は、この証言があるじゃないかと言い、梅澤が命令したのではなく、宮村さんが命令したと言っているが、役場の平時主任である宮村さんにそんな権限があるわけもなく、おかしな話だ。

「鉄の暴風」で梅澤隊長が戦争が終わり降伏する時に朝鮮人慰安婦と一緒にいた記述に対して、事実に反すると梅澤は言っているが、それが事実であったという証言がたくさんされている。当時、沖縄のほとんどの市町村に慰安所が設置されていた。

【朝鮮人軍夫殺害】

沖縄戦について、色んな作家や評論家が書いている。曽野綾子も個人的によく知っているが、「ある神話の風景」だけはどうしても納得できない。ノンフィクション作家の本田靖春さんは「戦争を忘れつつある島」「沖縄県赤島の夏」といった文章を発表されているが、本田さんの沖縄戦の見方と、曽野さんや教科書を作る会の日とたちとの見方とは全然違っている。本田さんは的確に書いている。例えば、米軍が一番最初に上陸した赤島では集団自決はなかったが、朝鮮人が30名ほど殺害された事件があげられている。それは食糧難のために、稲穂をちょっとつまんだだけで死刑にされたようなことがあったらしい。それを目撃した朝鮮の軍夫の人が30年たって沖縄に来て証言しても、教科書を作る会の人たちは、そんなことはなかったと取り合わないでいる。何を根拠に否定するかわからない。

【女装して逃げる司令官】

繰り返しになるが、集団自決の命令はなかったと言っているが、その証拠は出されていなく、証明されていない。昨年、教科書問題でアメリカを訪れた時に驚いたことがある。
私は学徒隊の「千早隊」に所属していた。22名からなり、情報宣伝隊ということで、大本営から発表されるニュースを壕の中に潜んでいる兵隊や民間人に、戦況を伝えて歩く任務を負わされていた。昭和20年6月18日に学徒隊の解散命令が出た。私は守備軍司令部にいたのだが、その時、司令部首脳たちは軍服で正装をして最後の酒盛りをしているのを見た。その翌日、首脳たちは金モールのついた軍服を脱いで、沖縄の女性が着る黒い着物に着替えて壕を出て行くのを、私は見送っていた。その時に日本は負けたと思った。それでその当時の資料を去年、アメリカのワシントンで集めていると偶然あるものが出てきた。それは命令書だった。学徒隊が解散したその日に、再び戦えという命令が牛島司令官から直接でていたのだった。

【口頭で徴兵】

渡嘉敷や座間味に関しては、守備軍が首里城を放棄して摩文仁へ行こうとした時、全ての記録は焼き払えという命令が出ていた。慶良間のほうでそう言う命令があって文書を焼き払ったという記録が残っている。戦争の状態の中ではいろんなことが起こり得る。防衛召集する場合でも司令部で適正な手続きのもと行われるはずだが、沖縄戦では個人個人の兵隊が民間人に直接、「お前は招集されているから来い。」「食糧探して来い。」「砲弾を担いで来い。」などと命令した。戦場では理屈どおりに公式どおりに物事は進まない。

【有事法制では守られない国民の命】

国会で自衛隊が超法規的なことをしないように「有事法制」が必要だと議論されたことがあったが、戦争で法律を守っていけるかと自衛隊の大物が発言したことがある。実際は超法規的にならないと戦争などできない。国民の生命・財産を守るために有事法制が必要だと言われるが、自衛隊法には、国民の生命・財産を守るなどとは何処にも書かれていない。国家の独立と安全・平和を守ると書かれている。外交防衛委員会でそのことを質問すると、国家と国民は同じだと答えが返ってくる。軍事問題になると理屈どおりにはいかないことが多くなってくる。イラク戦争で沖縄の基地から6000名ほどの兵隊が、一年間ほど沖縄を留守にしてイラクで戦闘に従事していた。事前協議制では、日本の基地から米軍が戦闘地域に出ることは許されていない。その場合には事前協議するべきと謳われている。しかし、そんなことはなく沖縄からイラクへと派遣されていた。そこで外交防衛委員会で、事前協議対象にならないのかと質問をしたら、外務省の役人は、ならないと言った。その理由を尋ねると、沖縄にある米軍基地からイラクにある米軍基地へと米軍が移動したに過ぎないから、事前協議対象にはならないと答えた。全てがそういうふうにはぐらかされる状況があって、そういう状態は戦争になればさらにひどくなる。戦前には、330ほどの有事法制があったが、国民の生命・財産が守られなかったのは言うまでもない。

【名誉って?】

教科書問題で日本軍が沖縄の住民を殺害したということを、どうしても消したいというのが、この裁判の意図のように見える。自ら進んで国の為に死ぬことによって国の利益をはかるというような殉国の美談として取り上げているのが多い。「ある神話の風景」で曽野さんが「沖縄で生き残った人たちに会うと、死んでいった人たちは死をもって自らの名誉を守ったと考えない人はいない。」と語っているが、我々戦争体験者から言うと、あんな死をどうして名誉だと言えるのか理解できない。さらに教科書問題でみていくと、日本軍が住民を殺害するなんてありえないとか、日本軍が民間人に対して直接命令を下すことは絶対にありえないと書いている。しかし、私などが動員されて戦場に送られる時は、命令文などなく、司令部から少佐がやってきて、全校職員生徒が集められ、「今日からお前たちは軍に動員された。」と口頭で命令された。同期生は125名ほどいたが生き残ったのは37名であった。

【アメリカが助けた命】

自決への命令があったという記録は、例えば字誌などにもたくさん残されている。曽野さんや小林よしのり氏たちが書いたものを読んでみると、結局一番悪いのは米軍だと書かれている。米軍が無差別に爆撃したから集団自決が起こったというようなことが書かれている。ところが実際には、米軍は沖縄に上陸する前に、住民数や徴兵された数、非戦闘員の数などを調べあげて、サンフランシスコから10万人分の食糧と5万人分の女性の衣料と、医薬品などをもって上陸した。そして鉄砲や機関銃を持っているけれど戦うのではなく、住民を救出する任務を担った軍政要員が各部隊にいて、ピーク時には合計5000人ほどいた。また方言しかわからない住民がいることを知り、ハワイやサンフランシスコにいる方言を話せる二世たちを集めチームを作って日本へ送ってきた。方言で洞窟に住む人たちに話しかけて救い出した。一人で2000人を救った人もいる。

【土地を奪った米軍】

なので沖縄県の米軍に対する態度は1953年頃までは非常に良かった。それは戦争中に命を救われた人がたくさんいたことと、戦争が終ってからも、余った食糧や衣料やテントなどを無償で提供したり、基地の中で雇って仕事をあげたりしたからだ。沖縄人は米軍に感謝していた。ところが、1963年頃から、米軍は農家の人々の土地を銃剣を突きつけ、ブルドーザーで畑を壊し土地を奪って基地を作り始めた。土地を奪われた農家の人たちは南米のボリビアに移住させられ、まるで捨てられた民のように悲惨な目にあった。

【何故沖縄だけが切り離されたのか】

何故沖縄だけが日本から切り離され、27年間も米軍統治下に置かれていたのか。理由を戦争に負けたからだとする風潮が目立つが、戦争に負けたのは沖縄だけでなく日本が負けたのだ。米軍が1945年3月26日に慶良間諸島に上陸した次の日に、「米国海軍軍政府布告第1号」を出した。それは南西諸島は今日から米軍の占領下におかれるということが宣言されている内容だった。それは占領の定義から逸脱した行為であり、まだ戦争の勝ち負けが決まっていない時から占領下に沖縄をおいていた。南西諸島は北緯30度にあたり、鹿児島県の奄美大島も含んでいる。

【アジア侵略への踏み台】

何故、北緯30度なのか、それは、北緯30度は大和民族と琉球民族との境目の線であるということだった。奄美大島は琉球王国の領土だった。また日本軍も北緯30度以北は「本土防衛軍」、以南を「南西諸島防衛軍」と呼んでいて、沖縄は本土となみなしていなかった。アメリカではすでに戦争が始まった1941年から半年後には国務省とペンタゴンの間では、沖縄を日本から切り離してアメリカの占領下におくという計画を作り始めていた。それは、日本の非武装化、非軍事化をはかり、二度とアジア侵略をさせず民主化を図る計画を持っていた。アジア侵略の踏み台にされていた沖縄を日本から切り離す必要があった。

【沖縄の土地が欲しかった明治政府】

今年は薩摩侵略から400年、琉球処分から130年ということで様々な催しが行われているが、廃藩置県が他府県よりも8年遅れて明治12年に沖縄になされた。スタンフォード大学のジョージ.H.カーの「沖縄―一島嶼民族の歴史」の中で他府県の廃藩置県と沖縄のそれとは根本的に違う。他府県の場合は同一民族、同一文化、同一言語ということを踏まえて近代的な国民国家を作るために廃藩置県をおこなった、ところが沖縄のそれはそうではなくて、日本の南の門をかためるために、日本軍の部隊を沖縄に常駐せしめるために、廃藩置県がおこなわれたと書かれている。言い方を変えると、同一民族としての沖縄の人を迎えようとはしないで、その沖縄の土地が欲しかった。

【軍国主義の欠落した文化】

ハワイ大学のリーブラ人類学教授の「沖縄の宗教」という本の中で、日本の文化と沖縄の文化は根本的に違うと指摘している。日本は「WARRIOR’S CULUTURE(侍の文化)」であって、常に武力を称える文化である。それに対して沖縄は「Absent militarism(軍国主義の欠落した文化)」優しさの文化、文の文化、女性文化というような言い方をしている。一例として、本土の床の間には刀や兜が飾られるが、沖縄では三味線が飾られるということがあげられる。

【李鴻章の予言】

廃藩置県の時に明治政府は沖縄に対して色んな命令を出したが、そのうちの二つを聞かなかった。一つは、中国との関係を断ち切れという命令、もう一つは熊本の第六師団の分遣隊の常駐させよという命令であった。どうしても受け入れることは出来ないので、沖縄の国務大臣級の三士官の一人が東京に出てきて折衝するが、話はまとまらなく、体を壊してしまい悶死してしまう。そこで明治政府は、400名の軍隊と1600名の警官を送り込んで、強制的に廃藩置県を実行した。すると中国の外務省の李鴻章が「日本が沖縄を強制的に併合すると、次は台湾を取り、朝鮮も取って中国に侵略するだろう」と明治12年に予言した。そしてそれがその通りになってしまった。つまり、沖縄が日本の中国・アジア侵略の踏み台になったために、日本が再び沖縄を踏み台にしてアジア侵略をなすことを未然に防止するため、一種の担保措置として沖縄を日本から切り離し、日米の共同管理下に置くと共に非軍事化して、将来は国際機関に委ねて25年ごとに監視させ、日本のアジア侵略を恒久的に防ごうと考えたわけである。

【沖縄の軍事化の始まり】

マッカーサーが日本に進駐しようとした時、日本にはまだ400万ほどの正規の軍隊が残っていた。それに対し、連合軍は20万たらずの軍隊で占領にきたので、もしも日本軍が反乱したらという懸念が連合軍の首脳たちに出てきた。するとマッカーサーは沖縄に軍隊を置いておけばどんなことにも対応できると言い、沖縄の軍事化が始まり、今日まで続いている。

【吉田総理が結んだ安保条約】

県民の一人として嘆かわしく思うのは、日米安保条約は国益にかなう、日本の平和の為には不可欠だと言いながら、安保条約や地域協定には基地を沖縄にに置くとは何処にも書いていない、日本全国何処にでも基地をおけるようになっていたにも関わらず、沖縄だけに基地を加重に負担している。しかも平和条約を結んだ時に当時の吉田総理はその条件として、将来沖縄は日本に施政権を返して欲しいけれども、今は米軍が基地として使いたがっているから、基地として貸すということを条件のひとつとして書き入れなさいと、当時の西村条約局長に指示した記録がある。その貸し出し期間はバミューダ方式で99ヵ年である。

【耐用年数200年の基地】

もしかするとそのことが今も生きているのかもしれない。何故なら、今、辺野古に基地を作ろうとしているが、日米両政府の書いた文章とアメリカの会計検査委員が出したものと全く違う。普天間副司令官が言うには、今の普天間の基地の四分の一から五分の一に縮小して基地を作ると書いてある。ところが普天間の文政官の方は航空母艦35隻と同じ大きさ、つまり関西新空港なみになり、予算は7000億円ほどかけると書いている。水上基地なら1兆円から1兆5000億円ほどになるであろうと。そしてそれは、普天間の代わりになる基地としてではなく、普天間より20%強化されたものを作ると。今、普天間では周りに民家が密集しているのでヘリに爆弾は積めないので嘉手納で積んでイラクに出撃している。新しく作ろうとしている基地は、陸上からも海上からも爆弾が積むことが可能で、最新式のMV22オスプレイというヘリを配備する計画だから、建設期間は政府は5年から7年と言っているが、会計検査院は少なくとも12年はかかると言っている。そして運用年数40年、耐用年数200年になるような基地を作ると書いてある。そういう基地を求めたら我々は沖縄の子どもや孫たちにいったいどういう望みを与えることができるのか。ですから、戦争体験をしたおじいちゃんおばあちゃんの年齢にあたる人が4年間も座り込んでいるわけです。

【沖縄の痛みを本土へ】

もし日米安保条約が国益にかなるのであれば、何故本土の人もその負担と責任を分担しないのかと県民は強調している。これまで沖縄の痛みは本土の人に移すべきじゃないということで、基地を本土に移せと一切言わなかったのだが、ところが最近は政府があまりにも言う事を聞いてくれないので、基地を本土に移してその痛みをわからせないと理解してもらえないということが強まってきていることと同時に、沖縄は日本から離れて独立すべきだという声がじわじわとあがってきて、研究所や本がたくさん出ている状況になっている。

【永井隆 いとし子よ】

いとし子よ。
あの日、イクリの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠よ、カヤノよ。
お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世に留めて、ついにこの世から姿を消してしまった。
そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものは何であるか?
――原子爆弾。
・・・いいえ。それは原子の塊である。
そなたの母を殺すために原子が浦上へやって来たわけではない。
そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。

戦争が長びくうちには、はじめ戦争をやり出したときの名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだころには、勝ったほうも負けたほうも、なんの目的でこんな大騒ぎをしたのかわからぬことさえある。
そうして、生き残った人びとはむごたらしい戦場の跡を眺め、口をそろえて、――戦争はもうこりごりだ。これっきり戦争を永久にやめることにしよう!

そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、なんとなくもやもやと戦争がしたくなってくるのである。どうして人間は、こうも愚かなものであろうか?

私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。…
わが子よ!
憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。
憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。
どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。
自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。
これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。

しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。
日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から憲法を改めて、戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ声が出ないとも限らない。
そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。

もしも日本が再武装するような事態になったら、そのときこそ…誠よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんな罵りや暴力を受けても、きっぱりと〝戦争絶対反対〟を叫び続け、叫び通しておくれ!
たとい卑怯者とさげすまされ、裏切り者とたたかれても〝戦争絶対反対〟の叫びを守っておくれ!

敵が攻め寄せたとき、武器がなかったら、みすみす皆殺しにされてしまうではないか?――という人が多いだろう。
しかし、武器を持っている方が果たして生き残るであろうか?
武器を持たぬ無抵抗の者の方が生き残るであろうか?・・・

狼は鋭い牙を持っている。それだから人間に滅ぼされてしまった。
ところがハトは、何ひとつ武器を持っていない。
そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる。
愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。

いとし子よ。
敵も愛しなさい。
愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。
愛すれば愛される。
愛されたら、滅ぼされない。
愛の世界に敵はない。
敵がなければ戦争も起らないのだよ。

嗚呼、我ら植民地的国民・・・。

「いのちの輪を つなぎなおすために―上関・高尾・辺野古―」というイベントに参加するつもりだったけど、何故か直前になって気が変り、リブインピースさんの「沖縄県民大会の参加報告と普天間基地問題」に参加してきた。

事務局の方が11/7~9に沖縄を訪れ、辺野古座り込みの参加、宜野湾市の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故(2004.8.13)現場へのフィルドーワーク、県民大会参加、東村高江のヘリパッド建設予定地座り込み参加などについての報告だった。

事務局の方が座り込みについて、緊迫感よりも、天気もよく人も少なかったので、まるで自然浴をしているようで眠たくなったと感想を述べると、今回の参加者の一人の沖縄出身の人が「座り込みは体力的に大変で、それを続けてきた高齢の方が亡くなりつつあるので、座り込みが出来るも減ってきている。」と、発言があった。

そして続けて、「民主党になってから、沖縄の基地問題が全国区になったので嬉しい。大阪でもこのように基地問題について話し合われているのを知って勇気付けられるし、もっと沖縄の人が頑張らないといけないと思う。しかし、基地がなくなったら生活に困るやろうと言う人がいるが、そんなことを言われるのは腹が立つ。返還されても新都心のように成功している例もある。」と言うような内容のことを話された。

また、ヘリ墜落事件に関しては「『米兵の操縦技術が高かったので民家に墜落しなかった。』という小泉の発言を聞いて、このまま沖縄に住んでいたら殺されてしまう。」と危機感をもったことや、「ヘリの残骸で半壊した民家の人たちは政府の人に『修理にかかった費用は出す。』と言われたが、所得水準も低い沖縄の人に、家を修理するお金なんて、ない。」と、当時のことを思い出して発言されていた。どうも、この事件を機に、基地問題への取り組みを行ってきた人のようだ。とても自然に行動をされているように感じる。何処かの団体に所属することもなく、友達を通じて連帯しているらしい。

恥ずかしながら、僕は基地問題についても無知であるので、詳細はまだまだわからないので、もっと知らなければと思う。沖縄に押し付けている基地をどないかせなあかんと思う。沖縄、いや日本の何処にも米軍の基地なんかほんまいらんよな。嗚呼、我ら植民地的国民・・・。

ウランいらん

大阪駅前第2ビルまで、豊田直巳さんの写真を見に行った。「イラク戦争と劣化ウラン」という題名がついていた。モノクロの写真ばかりが5―60枚はあっただろうか。

例えば、街で僕は人にカメラを向けることができない。怖いのだ。怒られたらどうしようとか思ってしまうのだ。戦場で兵士に、あるいは一般市民にカメラを向けることにいったいどれほどの勇気がいるんだろう。想像ができない。

豊田さんの写真に写っている瓦礫の中の女性たちは、とても悲惨な状況の中にいるはずなのに、凛としたものが伝わってくる。生命の美しさを感じているのだろうか。

写真を観たあとは、エルおおさかに移動をして、「非人道的兵器の禁止に向けて」というシンポジウムに参加した。地雷廃絶日本キャンペーン (JCBL)の目加田説子さん、林明仁さん、ウラン兵器禁止を求める国際連合(ICBUW)ジャパンの振津かつみさん、そして豊田直巳さんが、それぞれ 30分の持ち時間で話をされた。とても30分ではもったいなく、お一人で最低1時間は聞きたいような内容だった。特に豊田さんの話は沖縄密約から始まり、 屈斜路湖の毒ガスの話からいろいろ発展して様々な話を聞かせて頂いた。詳しい内容に関しては、時間をみつけてまとめたいと思っている。

会場の片隅で、いろいろな本が販売されていた。その中で、豊田さんも付箋をいっぱい付けて読んでいた目加田説子さんの「行動する市民が世界を変え た」という本が気になって見ていたら、林明仁さんが、「面白いですよ。是非買ってください。2000円でいいですから。」とおっしゃった。税別で2000 円だった。つい大阪的な根性を出してしまい、「もう一息!」と言うと、目加田さんに聞きにいってくれて、なんと1800円でいいですよ、ということになっ た。すみません(ーー;)

最後に会場に来ている人たちの紹介があった。その中で光っていたのは、滋賀県高島市から制服で来ていた女子高校生の吉永さんだ。「地雷をなくそ う!世界こども委員会」で様々な活動をされているようで、50人ほどんのおっさんおばはんを前にしてもたじろぐことなく、活動内容や自分自身の思いを落ち 着いて語っていた。すごい女子高校生がいるもんやと感心した。彼女の存在を知っただけでも、今日は価値があったような・・・。

http://blog.canpan.info/blm/
吉永さんのblog

天井のない牢獄

天井のない牢獄とはパレスチナのことだ。パレスチナの人々はイスラエルに囚われている。10mの高い壁で覆われ、そこから出ることも出来ず暮らしている。封鎖されているのは人だけでなく、あらゆるものが閉ざされている。

そんな中で昨年の年末から今年の一月にかけて大規模な空爆が行われた。イスラエルは、パレスチナからミサイルが放たれたという理由で、最新鋭の兵器を使って、ハマスを掃討するという名目で、無差別ともとれるような攻撃をしかけた。23日間の攻撃で1400人ほどのパレスチナ人が殺された。もちろんハマスとは関係ない子どもたちも400人以上殺された。それに対してイスラエルは民間人3人と兵士10人が死亡したという。

ロケット攻撃したハマスが悪いのだという人もいるが、生かさず殺さずじわじわと追い詰めてきたのは、イスラエルだ。日常的にも、検問での嫌がらせから始まり、土地や家を問答無用で破壊、奪略、そしてきまぐれな発砲などでパレスチナ人を虐待してきた。イラクやアフガニスタンで米兵たちがやってきた末期的な症状と同じだ。
今年のガザへの攻撃があった頃は、パレスチナに関するニュースは新聞などでも少し取り上げられたり、ネットではよく見ることができたが、最近は情報がほとんど停滞しているようで、あまり目にすることがなくなっていた。

僕自身も、忘れそうになっていたところ、今日、「パレスチナ子どものキャンペーン」の報告会「ガザの希望の種子」があったので参加してきた。

http://ccpnews.blog57.fc2.com/blog-entry-34.html

事務局の中村哲也さんが八月にガザを訪れた時の報告だった。
状況は、瓦礫の撤去さえも出来ていなく、崩れ落ちそうな危険な場所も放置されている。封鎖により建築資材関係も入ってこないので、割れてしまったガラス窓はビニールで覆い、生活をしている。これからの季節、そのままでは寒さがしのげない有様だ。

国連からの食糧や医薬品の配給があるのだが、賞味期限が迫っているものであったり、使用期限が切れている医薬品であったりして、まるでゴミ捨て場状態になっていると。また発電所の復旧も不完全なので、一日8時間の停電あり、その為に、上下水道の稼動もままならない状態である。上水道は地下水をくみ上げているのだが、地下水の豊富な場所はイスラエルの入植地になっているため、最近は地下水に海水が混じるようになってきた。また、海の汚染もひどくなっていて、海水浴をすると熱を出して寝込んでしまうほどであるらしい。いったい海に何を流し込んでいるんだろう・・・。

ガザの人たちの心理状態も良いわけがなく、自殺者が出始めているらしい。今までは、殺されることはあってもあるいは自爆攻撃はあっても、自らの命を絶つことなどなかった世界で、だ。子どもたちも荒れてきているらしいく、これまでにはなかったような行動、例えばカンニング、窃盗、暴力が目立ってきているらしい。

しかし、そんな状況の中でも、自国産業を興そうと頑張っている人や、農業に力を入れているパレスチナ女性たちの紹介があった。パレスチナ子どものキャンペーンは農業支援にも踏み出すようだ。驚いたのは、ジュース工場のペットボトルを作る機械だ。エジプトからのトンネルを通して運び入れたのだが、その機械が大きくてトンネルを通すことが出来なかったので、半分に切って運び入れたらしい。だから、溶接の痕があった。なんという大雑把さとバイタリティ!

明日をも見えない閉塞状況の中で、何とか頑張ろうとしているパレスチナの人たち。それを支援しようとするNGOの人たち。本当に頭がさがる思いだ。

今日のオバマの演説で、核の問題に触れたとき、北朝鮮とイランの名前はあげたが、イスラエルのことは一言も言っていなかったように思う。パレスチナ問題はアメリカの政財界とは切り離せない問題なんだろうなと思う。とにかくガザには一般人は入国することができないので、辻元清美でも呼んで、みんなでツアーしようやないかという話も報告会が終ってからの座談会で出た。その日のためにお金ためておこうかなと思ったりした次第だ。

沈まんかったら寝られへんがな

先日、「沈まぬ太陽」を観た。その前日にたまたま仲代達也の「不毛地帯」をTVで観たばっかりやったんで、山﨑豊子の世界ってこんなんなんやって思った。

作品としては、不毛地帯のほうが好きやな。「沈まぬ太陽」は、人物の色分けがはっきりし過ぎてる。ええもんと悪いもんの区別がね。主人公の渡辺 や、NAL(国民航空)を再建しようとする会長を演じる石坂とかが、まるで武士のようにカッコよすぎる。「不毛地帯」の仲代は、自らも悪に染まっていく過程に共感ちゅ うか共感したらあかん感覚ちゅうんか、そんなアンビバレンツを感じるんやけど、「沈まぬ太陽」はその点でいうと、キレイすぎてあかん。

それから主人公が「アフリカ」に対して抱く思いや感情がいまいち伝わってけえへんかった。アフリカに傾倒するエピソードもなかったし、ただ現実からの逃避の場所としてしか思えなかったのは残念で、アフリカに対して失礼やと思う。 浅すぎる。

映画の冒頭の象を射殺するシーンは、今の日航を象徴しているんかと思ったんは考えすぎやろか。しかし、御巣鷹山の事故を再現には泣かされた。あれ は辛すぎる。あの事故が起きたのは航空会社の体質が一因だったと言いたかったんやろうな思った。ついでに、劣化ウランを積んでいたことなども描いて欲し かったな。その為に、事故直後は、自衛隊は現場に入ってこなかったということも。ま、そこまで描くと、また違った方向になってしまうけどな。

ノンフィクションな出来事の中にフィクションを織り込んで、その中に理想的な人格の人物を作り上げて物語を作るちゅうのは、なんか虚しいな、ほんま。

パギやん&姉様キングス

パギやん(趙博)の「声体文藝館」なるものに行ってきました。映画を語ってくれるライブです。評論ではなく、映画そのものを語りで実演してくれるのです。

今回の題材は「泥の河」でした。宮本輝の「河三部作」のひとつです。僕は映画は観ていないのですが、小説は昔読んだことがありました。でも、ほと んど内容は忘れていたのですが、今日のパギやんのライブで鮮明に蘇りました。まるで映画を観てきたようです。 最後のほうはすすり泣きが聞こえてきたりして、思わず僕も涙ぐんでしまいました(笑)

会場のレインドッグスという梅田のライブハウスは超満員でした。年齢層は高かったです。50代以上が多かったように思います。前座で「姉様キング ス」が出演したんですが、これもまたオモロカッタのです。小唄、都々逸、阿呆陀羅経など古典的音曲芸を中心とした芸で、その質が高いこと!一発でファンに なってしまいました。

刑事とか公安とかってか?

奈良女子大の学園祭企画で森瀧春子さんの講演を聞きに行ってきた。

キャンパスに入ると、屋台がずらりと並んで、ええ匂いがぷんぷんしていた。この光景は昔も今も変らんなぁと思いながら、会場を探し回った。たどり着いたのは、屋台の賑わいもライブの音も聞こえて来ない奥まった校舎の中の一室だった。

入り口に受付があったので、名前と住所を書き、資料をもらおうとすると、電話番号も書いてくれと言われた。「なんで、そんなんいるんですか?書い てもかけてこないでしょ?それは個人情報やし。」と書き渋っていたが、執拗にいうのでメルアドだけを書いた。今まで、いくつかの講演会に参加したが、こん なことを強制されたのは初めてで、ちょっとむかついた。で、会場に入り、コンビニで買ったサンドイッチを食べていると、後ろから男性に話しかけられた。ど うも警察関係の人間だと思われたようで、探りを入れられたのだ。教室の黒板を見ると、森瀧さんの講演だけでなく、全学連の書記長の名前が書かれていて、な るほどそういうことかと、何びびっとんねんって感じだった。

教室には30名ほどいた。10数名が女子学生っぽく(まじめそうな子ばっかし)、数名の男子学生(全学連の関係者か?)が数名、そして僕よりも年 配の方々が数名。こんな校舎の隅っこの教室でせんと、講堂なんかで堂々とやればええのにと思った。そしたらもっと人も集まっただろうに。

講演が始まると、学生のような人たちはメモを一生懸命にとっていた。僕もいつもは取るのだけれど、最初に気分を害していたんで、メモに没頭する気 にもなれず。今日は聞くだけにしておこうと思った。森瀧さんは劣化ウランの廃絶に取り組んでおられるようで、ウラン採掘の話から始まり、劣化ウランとはな んぞやから、イラクに出かけてその調査活動や被曝した子どもたちの話などをして頂いた。質疑応答では、広島での学校教育の話になり、「平和教育」そのもの が今、自主規制で危機的な状況になっているとお話されたのが印象的だった。

講演が終わり表に出ると雨足は強くなっていたが、相変わらず屋台の学生たちは売り子に精を出していた。(あんたら、テキヤにでもなりたいんか?)