The Men Who Bombed Hiroshima

 

輪郭の薄くなった入道雲が背丈も低く向こうの空に在る。日差しはまだ肌に差し込むような勢いはあるが、光の束が細く感じる。笑い事では済まされないほどの暑さになった夏もやっと終わりの始まりを告げようとしているのだろうか。

そんな暑さに完全に体調のリズムを壊されてしまった八月の終わりに、熱い芝居を観た。「広島に原爆を落とす日」先日亡くなられたつかこうへいの作品だ。愛する女性の為に政府に指令を受けた在日朝鮮人が広島に原爆を落とすという、わけのわからない物語だ。

つかこうへい作品には、昔、映画や小説で触れたことはあったが、舞台は初めてだった。どの役者も最初からかなりのハイテンションのまま、半ば絶叫のような台詞で物語は進んでいく。まるで全力疾走だ。だから聞きとれない台詞もあり、最後まで我慢できるだろうか、吐き気を催したらどうしようかという不安が頭をかすめた。

しかし、いつのまにか洗脳されるがごとく、その世界に馴染んできている自分が居た。物語はハチャメチャだが、筧利夫が放つ熱気とその台詞に体が縛られていき、息苦しさと快感を感じてしまうのだ。ベクトルの角度は一定だが、方向が瞬時に入れ替わり、その太さと長さが心の子宮を突っつくのだ。メッセージの伝え方がカッコいい。靖国神社の協賛を受けた「歸國」とは比べ物にならない。

恐らくそこまで感じなかった人には、姦しいだけで終わった芝居かもしれない。万人に愛されるものでないような気がする。実際、僕の並びに座っていた人は途中退席したまま帰って来なかった。

初舞台の仲間リサは良かった。乳を揉まれるのはつか芝居の恒例らしいが、彼女の左胸が気になって仕方なかった。しかし、リア・ディゾンは唯一足を引っ張っていたように思う。マイクが口の横についているのにも関わらず声が小さく、オーラも何も感じない役者だ。

カーテンコールが何度かあった。最後は会場の明かりもついたので、もう終わりだと思って立ち上がろうとした時に、何度目かの幕が開いた。筧利夫がゼスチャーで立つように促したので、観客は立ち上がりスタンディングオベイションとなった。頭上で何かが炸裂した。たくさんの金銀のテープが舞い降りてきたのだ。最後の最後までテンションの高い舞台だった。お陰で、体調が元に戻ったみたいだ。癖になりそうだ、まったく。

 

まるで胡蝶の夢~インセプション~

昔読んだ夢枕獏の「サイコダイバーシリーズ」を思い出したが、サイコダイバーがどんな話だったかはあまり思い出せない。

「インセプション」は人の夢の中に入り込み、そこからアイデアを盗み出したり、あるいはアイデア(感情)を植え付けたりして、人を操作するという荒唐無稽な話である。なにがしらの機械を媒介してなにがしらの薬を点滴すれば共通の夢が見られるらしい。そしてターゲットとなる人の夢の中に入っていく。また「設計士」と呼ばれる舞台となる夢を設計する人物も登場する。設計士が考えた通りの舞台が夢の中でできあがる。エッシャーのだまし絵の世界だって作ることができるのだ。

夢の中では本来自由だ。気付けば死の恐怖からも逃れられるからだ。僕は子どもの頃、思った通りの夢を見ることができた。高いところから飛び降りたいと願ったら、夢の中で崖の上に立つことが出来た。そして「これは夢なんだろうか。」と躊躇しながら飛び降りた。股座から風を感じながら目が覚めた。そんな記憶がある。今はもうそんなことは出来なくなってしまったが。

映画では、夢の中で夢に潜り込み、さらに夢に潜り込んでいき、どんどん階層が深くなっていき、それぞれの階層で物語が展開していく。夢の階層が深くなるにつれて時間の速度が、覚醒時の5分が夢の中では100分、夢の中の夢では2000分というふうに変化していくのだ。

主人公のコブはかつて、愛する人とお互いをより深く知りたくなり、夢の階層深く潜り込み、そこで50年暮らし、二人だけの世界を築き上げた。しかし、やがて夢と現実の区別が出来なくなった彼女は自らの命を絶ってしまうのだ。そんなトラウマを引きずったまま物語が展開していく。

映画では、彼のトラウマも癒され、子どもたちとも再会する場面で終わっているが、果たして物語はこれで終わっているのだろうか。子どもたちは全く歳もとっていなかったし、服装も夢に出てきた姿と同じだった。そもそも彼女は本当に自殺をしたのだろうか? 彼女が立っていた場所は何処なんだろう。何故彼女はあんな場所に立つことができたのか?そして、コブが日本のホテルに居た時に、テーブルの上にあった本には「キリスト教」と大きく書かれていた。何故ホテルにそんなものが?どんな意味があるんだろう。

謎は探せばいくつでも出てきそうな映画だ。

絶望のなかに希望を拓くとき―あなたにとって隣人とはだれか

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4789605779/nambonomonya-22/ref=nosim

本書は、僕には到底真似のできない崇高な生き方をされている方々への
インタビューをまとめたものだ。
茨の道を歩みながら社会の一隅を照らされている10人が紹介されている。

その中でも最後の章が一番衝撃的だった。
マザー・テレサだ。
直接インタビューをしているのではなく、
あるシスターを通じて語られているのであるが
その圧倒的な存在感は行間から光として溢れ出ている。

この章を読み始めた時は、電車の中だったのだが
思わず顔が歪みそうになるほどガツンときて、背筋が伸びた。
以下、僕がやられたところを抜粋する。

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貧困をつくるのは神さまではなく、人間です。
人間が分かち合わないからです。
多くの人は一切れのパンでなく、愛や、小さなほほえみに飢えているのです。
豊かな国にも思いやりや愛情を求める激しい飢えがあります。
だれからも愛されず、必要とされないという心の痛みです。
与えてください。
あなたの心が痛むほど。

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キャタピラー


開演1時間前の9時にたどり着いたら、まだ第七藝術劇場は開いていなく
一人だけが廊下に並んでいた。
よく考えたら平日なのだから、もう少しゆっくり来れば良かったと後悔した。
それでも結局八割方は客席が埋まっていたと思う。

映画はいきなりエンドロールのように、戦争のフィルムを背景に
スタッフロールが流れ出した。
そして、満州での日本兵の残虐シーンとなる。
炎のCGが安っぽく写った。
その中で逃げまどう女性を犯している。
これは、四肢を失くした黒川久蔵の回想である。
久蔵は軍神となって村に帰ってくる。
その久蔵を、寺島しのぶ演ずる妻が世話をすることになるのだが…。

何か張り詰めた緊張感が絶えずあり、息苦しくなる映画だった。
寺島しのぶの鬼気迫る演技が見ものだと思う。
心のブレを見事に演じている。

ただひとつ残念なのは、映画は久蔵の死で終わればいいものを
その後に原爆投下のシーンと、元ちとせの「死んだ女の子」が流れる。
何か最後に説教臭く感じて、しらけてしまった。

監督が「これが戦争だ!」と謳っているが、
この映画はそれを充分に伝えている。
だから、最後にわざわざ、あまり筋とは関係ない原爆のシーンを
見せる必要はないのではないだろうか。
原爆の被害にあったわけじゃないから。
だから主題歌も、原爆の歌だから少しずれているような気がするのだ。
物語の流れにあったシーンや主題歌を、もうひと頑張りして用意して欲しかった。
「戦争の悲惨さ=原爆」を安易に使っているような気がする。

歸國

大阪BRAVAで「歸國」を観た。
数日前、TVで「歸國」を観て、とてもテンションが下がっていた。
もうあまり観たくはなかったけど、切符を買ってしまっているので、仕方なく行った。

しかし、同じ台詞でも、TVと舞台ではまったく感じ方が違うことに気がついた。
TVではしらじらしく感じた台詞や演技でも、舞台で観ると、すっと体に入ってくるのだ。
TVの「歸國」と基本的にはほとんど同じだが、構成が少し違って
TVにはないシーンも少しあったり、その逆も少しあった。
構成も当然、舞台のほうがわかりやすかった。
やはり舞台はいいなと、その時は思った。

しかし、TV的な演出が次第に鼻についてきた。
舞台転換が多すぎるのだ。
まるでマジックのように鮮やかに一瞬で舞台は転換するのだが
その鮮やかさが気になり、逆に集中力が妨げられるって感じだ。
そしてそのTV的な演出が舞台と観客の距離を感じさせてしまう。
それが残念だ。

また、TVで気に食わなかったところは、やはり舞台でも気に食わなかった。
靖国神社参拝を政治家がしないことについての愚痴、
80をとうに超えたおばあさんに、今の子どもたちに歌を歌わせるんだという台詞、
殴られて喜ぶ兵隊に殺された65歳のおじさんなどなど。

そして一番しらけたのが、劇の最後に
まるで映画のエンドロールのように流れた映像だ。
それは、舞台の場面であったり、芝居を補完するように撮られた映像であったり。
そのバックで長淵剛の歌が流れる。
後でネットで調べると、この「歸國」の舞台でしか流れない曲で
CDも会場でしか売っていないので、オークションで1万円以上の値段がついているらしい。
彼には右翼的なイメージがまとわりついていて、僕は好きではない。

会場の入り口には、「出演者はお見送りは致しません。」という張り紙が貼られていた。
帰りは、倉本さんだけが立っていた。
倉本さんの周りには、握手を待つ人が並んでいた。

芝居が始まる前のアナウンスで、お芝居は出演者と観客が一体となって作り上げるものです。」と流れていたが、今となっては、しらじらしいものを感じる。

結局は訴えたいことも、舞台の上のだけのことで、
それがビジネスとして成功するかどうかだけが、
大切に思われているのかなと、思ったりもして…。

もっと熱い舞台が観たい!

小田実と8月14日

いわゆる「終戦記念日」が終わった。
戦争ものが少し多かったTV番組も、また元に戻るのだろう。

昨日のBS-NHKで、「著名人たちの8月15日(再放送)」というのが放送されていた。
その中で特に印象に残ったのが、「15日の午後、官庁街を歩いていたら
それまで晴れていた空が急に暗くなってきた。そして煤が飛んできた。
あちらこちらで書類を燃やしている煙で、空が真っ暗になったと気がついた。」という証言だった。
連合軍に知られてはまずい書類がどれほど燃やされたのだろう。
いや、国民にも知られてはまずいものが、たくさんあったことだろう。

さて、一日遡って、14日は、「小田実と8月14日」に出かけた。
澤地久枝さんの講演会があったからだ。
彼女の生の声を聞いてみたかったからだ。
でも、肺炎の疑いでドクターストップがかかり、講演会はDVD鑑賞になってしまった。
しかし、映像を通してでも、澤地さんのエネルギーが伝わってきた。
彼女の使命感に心をうたれた。
埋め合わせは必ずするとおっしゃっておられるので
その機会を逃さずに、絶対に聞きにいこうと思う。

小田実さんが14日にこだわっていることが、この会でわかった。
日本は長崎に原爆を落とされた後、連合軍に降伏の内意を伝えていたそうだ。
アメリカ側も天皇を維持させる意思があったにも関わらず
日本側は、国体の維持に拘り、ポツダム宣言を受諾しなかったため
一旦は中断していた空襲が14日に再開されてしまったそうだ。
そして慌てて日本はポツダム宣言を正式に受諾したという。
なので、14日の空襲は、日本がぐずぐずしていたために、
死ななくてもよい命が無駄にされた。
そして、その空襲に小田さんは遭った。
だから、14日に小田さんは拘っているということらしい。

以下、当時のニューヨークタイムスの見出し
■8月11日(土)
「Japan offers to surrender. U.S may let Emperor remain. Master reconversion plan set.」
(日本が降伏を申し出る、米国は天皇を存続させるだろう。主要な戦後復興計画を策定する。)

■8月12日 (日)
「Allies to let Hirohito Remain Subject to occupation chief. MacArthur is slated for post.」
(連合国は、占領司令官の意向によって、裕仁を存続させる。マッカーサーがこのポストに就くだろう。)

■8月13日 (月)
「Allies to loose mighty blows on Japan if surrender is not made by noon today Carrier planes renew Tokyo attacks.」
(連合国は、日本が今日の正午までに降伏しないならば、力強い攻撃を行う。航空母艦からの戦闘機が東京攻撃を再開する。)

■8月14日 (火)
「Japan decides to surrender,The tokyo radio announces as we resume heavvy attackes」
(日本が降伏を決定と東京のラジオ放送が発表。我々が激しい攻撃を再開したことによる。)

上記の新聞は、朝日新聞の白石さんに、プロジェクターを通して見せて頂いた。
11日の新聞の写真には、アメリカ人たちが狂喜乱舞している写真も載っていた。
また、12日の日曜版には、百貨店の宣伝の記事が全面に載っていたりして
戦争をしている国とは思えない余裕が感じられる象徴的なものを見せて頂いた。

戦後解放されなかったマイノリティの声を聞く

15日は「戦争と平和を考える集い」に参加した。
会場はやはりここでも年配者の方が多かった。
彼らは思い出を確かめに来ているのではない。
平和ではなくなる日が再び来ないことを願ってきているのだ。
戦争体験者、あれはそれに近い人たちは、今の世の中を憂いているのだ。
このきな臭さを感じているのだ。

副題がついていた。
「戦後解放されなかったマイノリティの声を聞く」
沖縄戦体験者の大森盛俊さんが話を始めると、開場は静まり返ったように感じた。
何故なら、少なくとも僕は、その声に驚いたからだ。
そう言えばレジュメに喉頭癌を患い声帯を失くしていて、それでも
人工声帯で1200回以上の講演会をこなしていると。

上の写真が大森さんだ。
当時12歳だったが、男の子なら兵隊にとられるということで
育ての親が女装させたらしい。
自分の母親がスパイと決めつけられ、ガマで手榴弾によって日本兵に殺された話とか
家族の残された唯一の食料の黒砂糖を日本兵に奪われ
その時の暴行によって右目が失明した話、
他にも様々な話を、手振り身振りを交えながら熱弁された。

発言者は、その後、在日の立場として金和子さん、沖縄から、沖縄文庫の金城馨さん、
そして主催者側の西川さんからのアピールがあり、最後はフリートークとなった。

その中で印象的だったのは、金城さんの以下のような発言である。

「戦後、天皇からの戦争責任に対する謝罪がなかったということは、戦争はまだ終わっていないという捉え方もできるのではないだろうか。今はアメリ カと手を組んで戦争をしていますというのなら、謝罪がなくても当然であろう。沖縄文庫で沖縄戦の聞きとりをしている時に、大正区に住む一人の女性が語って くれた。しかし、それを日本人の前で語ることはできないという。怖いのだそうだ。それを考えた時、やはり戦争はまだ終わっていないと捉えても良いのではな いかと思う。」
というような主旨だったと思う。

戦争はまだ終わっていなかったのだ…。

歸國(TV)


「北の国から」は若いころ僕はバイブルのようだと崇めていたのだけれど
やはり倉本聰氏の旬は終わったということだろうか。

彼の言いたいことや、気持ちは充分伝わってはきたが、
ドラマ作品として、どうだったんだろうか?

あまりにも語りすぎだ。
特に前半は、狂言回しの生瀬が、すべて説明してまわる。
画面にほとんど動きがない。
まるでナレーターだらけの中学生の芝居のようだ。
映像がなくても、成立しそうだった。

その時点でチャンネルを変えた人はたくさんいたことだろう。
これが舞台なら、仕方なしに最後まで観てしまうが
TVなら、リモコン操作で簡単に退場できる。

もっといろんな葛藤が欲しかった。
そして映像でそれを見せて欲しかった。

僕なら、例えば、汽車から降りた兵隊さんが都会のど真ん中の、
自動車がびゅんびゅん走る道路にうずくまって泣きだすという場面を作る。
そしてその四方30mほどだけが、時間的に遡っていく。
都会がやがて焼け野原になり、
焼夷弾が降る町になり、
出征を祝っている家族の場面になり
戦争前の平和な町になり、
してそこで若き父母に出会い、自分を可愛がっている場面になり
思わず、父母の名前を呼ぼうとした瞬間に現代に引き戻される。
そんな場面を考えた。

小栗旬と八千草薫の場面も、感動的なものであるはずなのに、
最後の台詞でしらけてしまった。
「今の子どもたちは歌を忘れたカナリヤなのよ。」
なんてステレオタイプの台詞だ。
そしてその台詞にたいして小栗旬は、もっと子どもたちに歌を歌わせるんだと言う。
いくら音楽が好きな設定だとしても、愛しい人との再会で、気持ちがそこにいくだろうか。
なにかチグハグなものを感じた。
ようは語りすぎなのだ。

一番語りすぎの場面は、最後の東京駅での場面だろう。
今の日本について、長淵剛が生瀬にまとめをさせている。
おっしゃることは確かにそうで、「便利さは豊かさでない。」は共感できる。
しかし、ドラマの手法としてはどうだろう。
あまりにも直接的すぎるのでは。

戦争の被害者は、何も戦争に赴いた兵隊たちだけではない。
銃後で無念な死に方をした人もたくさんいる。
語るのなら、そこまできちんと語って欲しかった。
生瀬の傷を晒すだけで、済ませて欲しくはなかった。

昨日、8月14日は、最後の大阪大空襲があった日だ。
もう降伏がほとんど決定されている中での、駄目押しの空襲だったという。
どれだけ無駄な死があったことだろう。

だから靖国神社を中心に語って欲しくはない。
靖国神社を参拝しない政府をなじっても良いが
手を会わせてもらえずにいる無駄死にをした一般国民だってたくさんいるのだ。
今の日本を悲しんでいるのは、戦地に赴いた兵隊さんたちだけではないだろう。

倉本氏が、英霊たちの「鎮魂」のために書いたというのなら
誰の為に、彼らは死んでいったのか、
いや彼らだけではなく、国民の無駄死には誰の所為なのか、
その責任を明らかにして、その人に謝罪させる場面を作るのが、
一番の鎮魂だと、僕は思う。

長崎は今日もどしゃぶりだった。

長崎で被爆された山科和子さんの講演会を聞いた翌日から、三日間長崎に行ってきた。長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典というものに初めて参加した。

一般席はほんの少ししかなかったので申し訳なかったが、遺族席の後ろの方に座った。
横に座ったご年配の女性の方がその隣の同じくらいの年齢の方とお話されているのが、少し耳に聞こえてきた。あの時の光景は忘れなれないというようなお話だった。声をかけて詳しくお話を聞きたくなったが、そんな勇気はなかった。

式典など堅苦しいものは、元来苦手だったけれど、参加して良かったと心から思った。張り詰めた空気の中に凛としたものがあり、平和を希求する熱い思いが感じられた。式典が終わり、遺族の方だけのセレモニーがあったようだが、半数ぐらいの人たちが引き上げていったので、僕たちのような外部の人も多かったようだ。様々なツアーで来られている人が多かった。「韓国如己の会」という永井博士の業績を称える韓国の方々も来られていた。
式典が終わると、それまでは小雨だったのに、待っていたように土砂降りの雨になった。そんな雨の中、原爆資料館や、浦上天主堂天主堂の鐘楼如己堂山里小学校などを訪れた。

浦上天主堂へ向かう坂道の途中に、被爆前の天主堂の外壁に装飾されていた天使の顔や像などが置かれている場所があった。その中に異質なものがあった。それは神社に飾られている狛犬のようなものが二体。近くにいたタクシーの運転手さんに聞いてみると、どこか他所から持ってきたものだと言われた。その時は、そうなのかと思っていたのだが。

その日の最後に山里小学校を訪れた。保存されている防空壕を見た後、資料館に入った。そこに居た人が、親切な方で閉館が4時半だったにも関わらず5時過ぎまで、たくさん話をして頂き、かなり勉強になった。その中で、浦上天主堂の狛犬のことを尋ねると、あれは他所から持ってきたものではなく、昔の天主堂の外壁に設置されていたものだったと。ただ、当時のそれを作った人が、ライオンをイメージして作ったのだが、ライオンを見たことがなかったので、まるで神社にある狛犬のようになってしまったということだった。

翌日には、城山小学校立山防空壕三菱兵器住吉トンネル工場跡を訪ねた。城山小学校には、被爆のクスノキや碑や平和像などに児童の手書きの説明書がぶらさがっていた。被爆校舎が、資料館として残されていて、その中では様々な資料とともに、学校の取り組みも紹介されていた。毎月9日に「平和祈念式」を行っていて、もう700回を超えているらしい。これはすごいことだ。そして六年生が語り部をしている取り組みが紹介されていた。これは、かなり素晴らしいことだと思う。

我々が語り継がなければならないことは、何も原爆のことだけではないはずである。大阪でも空襲があったけれども、それを語り継ぐ子どもの「語り部」を養成しているだろうか。僕らの世代でさえも、語り継げるほどの勉強はしていないのが実情だろう。

防空壕や工場跡も、長崎は後世のために保存していて、素晴らしいなと思う。大阪の「タチソ(高槻地下倉庫)」など、その上に高速道路ができるということで、壊されるらしい。この違い…。

僕たちは、ナガサキに学ばなければならないと思う。

東吉野での林業体験

東吉野に行ってきた。そして林業体験をしてきた。枝打ちやら間伐材の木を切り倒すやら。つい張り切ってしまい、人よりも太い木にチャレンジしてしまい、疲労困憊だ。腰が痛い…。

言わずもがな、森林は今生きている人間たちだけのものではない。森林はいつしか生活の糧を得る手段としての役割を担ってしまった。財としての森は、本来あるべき自然の姿ではなく、植林によって作られた不自然な自然である。

その不自然な自然を維持させる為には、絶えず人間の手によるメンテナンスが必要だ。それを怠ると、微妙なバランスで維持されていた生態系が崩壊をはじめていき、その場所から広範囲に人間の生活を脅かしていくことになる。

より安価なものを求め、経済効果を得ようとした結果、財としての吉野の森林は、その存在感を薄めつつある。財としての森を手放さなければならなくなった時、不自然な自然を自然な自然に戻してやらなければならない。林業を推し進めてきた国家の責任は当然のこととしてある。国と草の根の活動の両輪で、自然な生態系に戻す努力をしていかなければならないと思う。

論理学はアリストテレス以来の古典的学問である。
彼らには感覚がふんだんにあったから論理学が必要だった。
感覚が衰えてきた私たち現代人に必要なのは、感覚学なのである。
…黒田清「わが青春のクリスマス」より

かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない
~コヘレトの言葉~

神様、私は生きたい。

「新聞うずみ火」主催の「平和を考える集い」~DVD「大阪大空襲」上映会~に参加してきた。「新聞うずみ火」とは、かつての読売新聞の黒田軍団の流れをくむ新聞社で、反戦平和を訴える筋金入りのジャーナリスト集団である。

そんな「新聞うずみ火」が大阪大空襲の体験者の聞きとり調査を行い、五本のDVDにまとめた。昨日はそのうちの二本が上映された。大阪空襲は56回ほどあったが、そのうち100機以上の爆撃機が来襲したものを「大空襲」と呼び、大空襲は八回に数えられる。

昨日の二本は、1945年6月にあった大空襲の体験者の証言記録だった。6月だけで1500機ほどの来襲があり、1万トン近くの焼夷弾が落とされ、大阪市 はほぼ壊滅状態になった。爆撃機B29だけではなく、P51ムスタングという戦闘機も現れ、逃げまどう人たちに無差別の機銃掃射も行われた。

DVDには被災者の方々の証言を、時間系列に並べなおし編集されている。大空襲の様子が重奏的に語られていき、悲惨な中で必死で生き延びようとしたその命の尊さが胸に迫ってくるのだ。

その中で広実輝子さんの証言が特に印象的であった。広実輝子さんは焼夷弾の空襲で逃げまどう中、P51の襲撃を受け、左腕を銃弾が貫通した。

「出血多量でしょ。息ができなくなってきますね。そした時にね、死ぬってこんなに辛いことかと。助けて下さい。神様、私は生きたい。どんなことがあってもいいから助けて下さいと、本当に胸の底から思いました。生きたい。生きてるってあんなに素晴らしいことやったかとね。

そしたら初めてそこへね、おじいさんが、とぼとぼとした足取りで通りかかった。誰もいないんですよ。そのおじいさんに「おじいさん。」って声かけたら寄っ てきてくれて、「誰かもう一人いたら、あんたを助けてあげられるのにな。」って言ったら、それが中学生が出てくるんです。なんか不思議、ええ?ってて思う くらい。そうして「にいちゃん、にいちゃん。」ってそのおじいさん「この子助けてやろう。ここに置いといたら死ぬから。」言うてね、その中学生も来てくれ て、二人で抱き上げてくれたんですよ。

たった三人ですよ、野道。それをね、P51が追いかけてくるんですよ。ぐわーって来るんですよ。そしたら私を置いといて二人はどっか逃げかて、隠れるわけ ね。当たりませんように。弾が当たりませんように。私は生きたいと思う。ほんとにね、あの、ひたすら祈って。そしたら行きますね。そしたらまた二人が出て きて、また私を助けてくれて、抱いて運んでくれるんですよ。

それがね、三回目ぐらいか四回目やった時に小さな川があって、その時に、出てこない、おじいさん。出てこなかったんです。今思ってもほんとに悲しいですよ。私を助けなかったら、あのおじいさん生きてたよね。」

65年前の出来事が、目の前に鮮やかに蘇ってくるようで、息が詰まるほど苦しかった。少なくとも僕は何もなかったように暮らしてきたけど、その地面を一枚 はがすと、大阪のほとんどの町には、このような生々しい傷があるのだ。かつてはその地面にはたくさんの人の血が流れ、黒焦げの死体がいたるところに横た わっていたのだ。そして、まだその苦しみから逃れられずに生きている人、その苦しみをばねにして強く生きてきた人たちがいる。

こうして証言できる方は、もうとても少ない。是非とも語り継いでいかなければならない。そして、戦争ができる国になろうとしてる風潮への楔となることを切 に思う。しかし、会場に来ていた人は、半分以上が戦争体験者と思われる年配の方々だった。20代30代など数えるほどもいなかったように思う。もどかしく て残念だ。