原発さよなら関西集会

参加者は200人だったそうだ。
講演者の一人の武藤北斗さん曰く
「思っていたより人が集まっていない。関西はまだまだ関心が低い。」

確かにそうだと思う。
このような集会に参加する人たちは当然ながら関心が高く、危機感を持っている。
でも、職場でこのような話題を持ち出すきかっけを作るのは僕ぐらいで
だからどうにかしていかなければならないとまでは発展しなく、
なんだかもやもやとした気分になってしまう。
そして、目に見えない放射能のことよりも、
現実に目の前に見えている仕事のことに気をとらわれてしまう。

僕が利用しているSNSだってそうだ。
放射能の話題にはいっさい触れない人がとても多い。
書いても仕方ないことだからだろうか。

放射能は染色体を傷つけてしまい人間を人間でないものにしてしまう最も恐ろしいものであり、そんなものが、今もう目の前にやってきているというのに…。

メインの講演の中手聖一さん(子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク代表)のお話で
印象に残ったものを書きだしておく。

「津波が来れば逃げろっていうじゃないですか。なのに高濃度の放射線量が計測されているにも関わらず、逃げろって言わない国家って何なんですか?」

「もう福島県の汚染マップなどを作っている状態ではない。おそらく日本全域が放射能汚染されてしまっている。もう何処も放射能とは無縁ではなく なっているのだ。だから、日本全土の放射能マップを作り、日本の子どもたちを何処で育てたらいいのかを考えなければならない。そして汚染されていない食べ 物をどうやって子どもたちに食べさせていくのかを考える時に入っている。」

「全ての原発が止まることはもう確かなことです。それが事故の前に止まるのか、事故の後に止まるか、そのどちらかです。」

「子どもたちの命、そして未来は、決して原発と共存できないものです。」

息もできない


「人を殴る奴は自分が殴られるとは思わない」と冒頭のシーンで主人公のチンピラがつぶやく場面がある。まったくそうだ。思ってもいないから、殴られたら気が狂ったように相手をぶちのめしに行ったりするのだろう。

これはチンピラと女子高校生の話である。
チンピラが子どもの時、父親が母親に対する暴力を妹が間に入り止めようとして、妹が父親に刺し殺されてしまう。病院に駆け込もうとした母親も、その途中で交通事故に遭い、死んでしまう。父親は15年の服役の後、今はチンピラと一緒に暮らしている。そして毎日、息子に殴る蹴るの暴力を受けている。父親はただ泣きながらごめんなさいごめんなさいと謝るだけである。

女子高校生の父親はベトナム戦争の功労金で生活をしているが、頭がおかしくなってしまっている。数年前に死んでしまった母親のことも理解出来ていない。食事のたびに母親への愚痴を聞かされ、やがて暴れだす。その母親は屋台を営業している時に、チンピラの集団に襲われて、その時に殺されたのだった。兄もまともな仕事をしようともせず、妹にお金をたかる毎日。女子高校生は家では飯炊き女のようにこき使われていたのだ。

そんな二人が出会ってしまう物語だ。暴力と唾を吐く場面が非常に多く不愉快な気分にもなる。まさに息苦しくなってくるような映画だ。しかし愛を語り合うわけでもない二人の純愛的な部分に惹かれていくのである。暴力といえばセックスもペアで付いてきそうなもんだが、キスの場面さえなく、「好きだ」の一言さえない。

やっと大切にするべき人が見つかり、生活を変えようと思った時に、彼自身が振るってきた暴力のお返しが彼を襲う。彼も「人を殴る奴は自分が殴られるとは思わな」かったのだ。彼女のために新しい人生を送ろうと「思った」だけで、彼女に伝えていたわけでもない。勝手に彼ひとりが思っただけのことだった。でも伝えることさえ出来ずに、皮肉にも彼女の兄に殺されてしまうのである。彼女の兄はやがてその世界で頭角を現すであろうことを匂わせる場面でこの映画は終わっている。

暴力の連鎖は受け継がれていく。それを断ち切ろうとしたほんの一瞬の輝きが、救いであったような気がする。