「悲しむ力」中下大樹


子供の時、感受性の強かった僕はそれを素直に受け止めることが出来なくて、できるだけ能面を装うようにしていたように記憶する。でも、心はいつもヒリヒリしていた。大人になってからもそんな一面は残っていて、感情を制御するためにいろいろなものを切り捨ててきたような気がする。

それは、悲しみであったり、寄り添う気持ちであったり、祈りであったり、抱きしめる行為であったり、お詫びする心であったり、感謝であったり喜びであったり、そのようなものではないだろうか。僕はそれらを伝えたり行動するのが下手くそだったのである。

著者はまだお若いお坊さんであるが、ホスピス勤務そして東北の大震災で多くの方の死を看取られ、悲しみや苦しみに寄り添ってこられた方である。決して強い人ではなく、ご自分の心を引き裂きながらも、悟りを開こうと努力されている方のように思える。

本書の様々なエピソードは、著者の中下大樹さんの心の弱さもさらけ出しながら、人に寄り添い繋がって生きていくことの大切さが謙虚に描かれている。そして、たとえ苦しみの中でも、その苦しみを受け入れ、苦しみと共にあるがままに生きることを説いている。そう、被災地の方には、遠くの安全な場所から「がんばれ」ではなく、一緒に悲しむことが大切だと。

今、五郎の生き方

昨年、TVと舞台の両方で倉本聰さんの「歸國」を観た時に、それまでの倉本聰ではない何か嫌なものを感じて落胆したのだったけれど、さきほどBSフジの『北の国から』放映30周年記念特別番組『今、五郎の生き方 ~2011夏 倉本 聰~』というドキュメンタリーを観て、再び「北の国から」の時の倉本聰さんに戻っているような気がして嬉しくなった。

倉本の中にはまだ五郎は生き続けていて、今の五郎の家族を語ってくれた。蛍の旦那の正吉はいわき市で津波に流されて亡くなったそうだ。蛍は看護婦だから旦那を無くした悲しみを抱えながら被災地でボランティアをしているという。純は埼玉に住んでいたが、正吉が亡くなったことがショックで彼も東北に出かけて瓦礫を撤去するボランティアをしているそうだ。で、五郎は蛍の息子と二人で富良野で相変わらず自足自給の生活をしている。でも彼は税金も払っていないし年金も積み立てていなかったから、役所にとっては厄介な存在になっている。役所の人間が尋ねてきたら逃げまわるそうだ。彼は自分には生活保護も何ももらう資格ないと思っていて、ほとんどお金を使うような生活はしていない。物を作っては物々交換などをしているそうだ。今の「北の国から」を観たいと思った。倉本さん、書いてください。

戦後の日本はブレーキとバックギアのない車と同じだったと倉本さんは言う。前へ進むことしかできない高速道路をずっと走ってきたのだと。「浪費が善だ」とする消費至上主義に対する批判をこめて倉本さんは富良野塾をやってきたわけだけど、3.11で「やはり来たか」と思ったそうだ。

彼は、不便だけど昔の生活にもどって原発のない暮らしと、便利だけど原発の恐怖を感じながら生活する暮らしと、どっちを選びますかと、講演で聞いてみるそうだ。年配の人たちは原発のない暮らしを選びたいという人がほとんどだが、若い人達はその反対だという。不便な生活を想像することができないから、そちらの恐怖を感じるのだと若い劇団員は言っていた。

その点、倉本聰さんならもっと想像力を働かせて欲しかったと思う。原発は今生きている人たちだけの問題ではないということを。そこまで講演会で話をしてくれると、若い世代でも原発のない暮らしを選んだと思うのだが。

倉本さんのインタビューの合間合間に「北の国から」の有名なシーンが少しずつ流れた。純と蛍が、ボロボロになって捨てられた運動靴を、ゴミ置き場の中を探している。その靴は母親が買ってくれたもので、大事に大事に履いてきたものだったが、母親の葬式の時、その再婚予定のおじさんが、ボロボロの靴を見かねて新しい靴を買ってくれたのだった。おじさんが捨てる時も嫌だとは言えず、夜になって二人でゴミ置き場に探しにきたのだった。でも、そこへ警官がやってきて問い詰められる。純はシドロモドロになりながら答えるのだが、母さんは四日前に死にましたと言った途端、警官は急に態度が変わり一緒に探し始める。二人は呆然とたったまま涙を流す。そんなシーンだ。ほんの一分ほどのシーンだけど、また泣いてしまった(笑)

富良野塾は昨年閉鎖されて、塾生たちが作ってきた建物も自然に返すということらしい。その場所に富良野塾の起草文が刻まれた石碑がある。

あなたは文明に麻痺していませんか?
石油と水はどっちが大事ですか?
車と足はどっちが大事ですか?
知識と智恵はどっちが大事ですか?
批評と創造はどっちが大事ですか?
理屈と行動はどっちが大事ですか?
あなたは感動を忘れていませんか?
あなたは結局
何のかのと云いながら
わが世の春を謳歌していませんか?

倉本さんの脚本を書くエネルギーの元は「怒り」だそう。僕も「怒り」続けたいと思う。
今だからこそ、倉本さんに「北の国から」を再び書いて欲しいと切に思う。

肥田舜太郎先生講演会

日曜日に肥田舜太郎先生の講演を聴いてきました。
「内部被曝の脅威」を読んでから、是非、生の肥田先生のお話をお聞きしたいと
思っていましたので、その念願が早くも叶いました。

最近、自分の体調がガタガタで、物覚えも悪くなってきて
もう老人の領域に入っているのかもと感じていましたが
肥田先生の前に出ると、僕などまだまだヒヨッコで
もっと頑張らなければと励まされました。

50代60代の人間はさんざん楽しく生きてきたんだから
後の30年ほどは、人の役にたつことを考えて生きてみてはどうですか
という肥田先生の言葉は胸に染み込みました。

自分にできることは、なんであるか…

市民科学者高木仁三郎

高木仁三郎さんのベッドの正面には次の色紙が飾られていた。

本気

本気ですれば
大抵のことができる
本気ですれば
何でもおもしろい
本気でしていると
誰かが助けてくれる

これは、高木さんが病に倒れた時に友人のKさん夫妻が
長野県の別所温泉に行き、安楽寺の住職さんの書を買い求めて
プレゼントしてくれたものらしい。
これの書はまさに高木さんのことである。

様々な困難にあいながらも、プルトニウムの危険性を世界中の人々に知らしめ
情報公開を政府に迫って一定の効果をあげるなど市民の立場にたった科学者として
功績を評価され、ライト・ライブリフッド賞という「もうひとつのノーベル賞」を
1997年に受賞した人だ。

恥ずかしながら僕も最近まで知らなかった人だ。
この原発の事故があって、始めて本を開いたのだった。
2000年に癌でお亡くなりになっているが
もし、高木さんがまだ生きていたなら、と考えてしまう。

脱プルトニウム宣言
1993年1月3日
プルトニウムに未来はなく、未来を託すこともできない。
それは冷戦時代の負の遺産にすぎない。
今、世界中の心ある人々、そして国々がこの遺産—
超猛毒で核兵器材料である物質の脅威をどう断ち、
子供たちにプルトニウムの恐怖のない未来をどう残せるか、
苦闘を開始している。(以下略)