ニッポンの嘘

ニット帽の裾からはみ出た髪を後ろで括り、眼鏡に白い髭を生やした福島菊次郎さんは、スリムな身体に一眼レフを首から二台ぶらさげ、対象物に向きあって様々な角度から撮影をする。時には寝転がってカメラを構える姿は無邪気でもあるが、悲しいかな地面にぶつかるような92歳のその姿は痛々しい。国家権力に立ち向かってきた反骨のジャーナリストの半生は壮絶で、その根底には、軍国主義に洗脳された己の青少年時代への悔恨と、国家に見捨てられた弱者に対する優しい眼差しを感じる。

福島さんは、23歳で2等兵として徴兵され地獄のような軍隊生活を過ごす。広島の部隊に配属されたが、原爆投下の一週間前に、大分方面に本土上陸迎撃部隊として配置転換となり、蛸壺壕の中で爆弾を抱えたまま終戦となる。

敗戦後、原爆ドームの中に生えた草を撮影しようとしたのがカメラを持つきっかけとなり、その後、被爆者の中村杉松さんを紹介してもらったが、最初のうちはカメラを睨みつける中村さんの目が怖くて撮影が出来なかった。しかし、数年通い続けたある日、「ピカにやられてこのざまじゃ。このままじゃ死んでも死にきれん。あんたぁわしの仇を討ってくれんかのう」と中村さんにお願いされてから本格的な撮影が始まった。原爆病でのたうち回り畳を掻きむしっている写真は、福島さんと中村さんの合作であると福島さんは言う。数年後写真集「ピカドン」を発行、写真展も行われたが、中村さんの仇をとれたどうかは福島さんには分からない。いや、その写真の所為で中村さんの家族は世間に晒され、バラバラになってしまい、踏み込みすぎたプライバシーに未だに恐れをなしているのが本心ではないだろうか。

映画の最後に、中村さんのお墓を参る福島さんの姿があった。一段一段階段を登り、墓に着いた福島さんは、まるで中村さんの両肩に手を下ろすように墓に手をつき、じっとしている。そして、ひざまずき、寄りかかり、両手の指を絡め握りしめ、「ごめんね、ごめんね」と涙を流しながらしきりに呟いていた。

身を危険に晒し家まで焼かれながら、国家の嘘を暴こうとしてきたその孤高な生き様は誰にも真似が出来ない。そして今は、年金を拒否して、一日1000円の生活しながら、「写らなかった戦後 ヒロシマからフクシマへ」を壊れかけたワープロで執筆中である。

森の慟哭

日本は世界最大の木材輸入国である。自給率はわずか24%(平成20年統計)で、オーストラリア(13%)、カナダ(10%)、アメリカ(8%)、マレーシア(6%)、チリ(6%)、ロシア(5%)、ニュージーランド(4%)、中国(3%)など、主に太平洋沿岸各国から大量の木材を輸入し、それぞれの森林生態系に多大な影響を与えている。

逆に日本国内では、皮肉にも伐採されなくなった人工林が荒廃し、土砂災害が発生しやくなっている状態である。2年前に訪れた吉野の山で伐採の体験をさせて頂いたことがあるが、「売れなくても木を伐採しないと山が荒れる、でも儲からない林業には跡継ぎがいない」と嘆いておられたのを覚えている。

今日、観た中井信介さん監督の「森の慟哭」は、主にマレーシア・サラワク州の森を取り巻く問題に焦点をあてた映画であった。サラワクは、かつて世界中に熱帯木材を輸出していた豊かな森を有していた。しかしその森林は急速に後退し、残された二次林も次々とアブラヤシ農園(パーム・プランテーション)やアカシア植林(製紙用チップ)に姿を変えていっている。パーム油はインスタント食品やスナック菓子などの食用製品、洗剤・化粧品などの工業製品に広く用いられていて、日本の日常生活に深く浸透しているものだ。

先住民族が住んでいた森林を、政府によって伐採権を与えられた企業が原生林を壊し、アブラヤシ農園に変えていく。単一樹種となった森の生態系は壊され、生き物が絶滅していく。そして生産性をあげるために撒かれた農薬で土地や水が汚染され、農薬被害で健康が害されていく。また、農園では、マレーシア人よりも安い賃金で働くインドネシア人やフィリッピン人が重宝され、地元の労働力が使われることも少ない。

先住民族のイバン族やプナン族の人たちは座り込み、道路を封鎖して土地を取り返そうとするが、警察が介入し、逮捕され暴力や拷問を受けたりしている。座り込んでいる姿は、辺野古や高江、そして大飯原発前に座り込んだ人たちと姿がだぶって見えた。

最後にプナン族マロン集落の代表アニさんが言う。「日本の方々は企業の伐採によって森の天然資源が急速に消えつつある現実を知って欲しいと思います。このままいくとすべて無くなってしまうでしょう。」

マレーシアの最大顧客は日本である。私たちの消費は、マレーシアの自然を壊すという犠牲の上に成り立っている。

ふじ学徒隊


「ふじ学徒隊」を観てきた。
沖縄戦で動員された女子学徒隊は「ひめゆり」「白梅」「瑞泉」など10校およそ500人。激戦の本島南部では、ほとんどの学徒隊が半数近くの戦死者を出した。そんな中、わずか3名の戦死者にとどまったのがふじ学徒隊である。この映画は、その元ふじ学徒たちによって語られる証言映像である。

1945年3月13日、積徳高等女学校4年生56人に対し、軍の命令で合宿看護訓練が行われた。しかし戦況の進展で訓練もほどほどに同月23日に野戦病院へ配属される。隊長の小池勇助軍医少佐は従軍か除隊かの調書をとった結果、31名が除隊、25名がふじ学徒として勤務することになった。この点、他の学徒はどうだったのだろう。調書はとられたのだろうか。調書が取られたろしても、過半数以上の除隊者が他の部隊ではあったのだろうか。

戦況が悪くなってきた時に小池隊長は「こんなことになるのなら、みなさんを預からなければよかった。申し訳ない。」と学徒たちに謝ったそうだ。そして敗色濃厚となった6月18日に、軍部から学徒の解散命令が出される。他の部隊ではそれからの一週間で、野に放り出された学徒たちは壮絶な体験をして、たくさんの命が失われるわけであるが、このふじ学徒隊では、小池隊長は軍の命令に従わず、すぐには解散は出されなかった。

小池隊長は、戦闘が沈静化するのを待ち、6月26日、ついにふじ学徒隊に解散命令を発令する。最後の訓示は「かならず、生き残れ。親元へ帰れ」だった。青酸カリも手榴弾も渡されることはなく乾パンが支給された。そして学徒たちが出ていったあと、小池隊長は青酸カリを飲んで自殺する。

戦時中に軍の命令に従わないことなど出来るのであろうか。おそらく命がけの行為であったと思われるにも関わらず、人としての優しさを最後まで失わなかった小池隊長に尊敬の念を感じる。

最近の社会が、戦前戦中に似てきていると指摘する人がいる。確かにそんなきな臭さを感じる今、自分なりの考えやフィルターを持つことが大事だと思うし、「人権」というブレない視点が必要だ。そんな感性をもっと磨きたいのだ。

 

核・ヒバク・人間

 
大阪女優の会公演の「核・ヒバク・人間」を観てきた。朗読劇であるにも関わらず、最後まで緊張感を持ったまま惹き込まれたのは初めてだ。何度も胸がいっぱいになり涙が溢れそうになってしまった。物語は3.11のフクシマから始まり、原子力の抱える多くの問題が、様々な時や場所や人を変えて語られていく。

「東京で、原発反対の人たちの言葉を聞いていると、どうしようもない距離を感じてしまうときがあるのです。車の事故に例えて言うなら、今、事故が起こって、目の前に血を流して苦しんでいる人がいる。なのに、やっぱりこの道は安全じゃなかった、もっと道路を広くするべきだった、いや、車そのものをなくすべきだ、東京の人たちがそんな話をしている。でも、今、福島は、血を流して倒れているの。車をなくすかどうかよりも先に、今、倒れている人を助けて。私の故郷、福島を助けて。」

印象に残った台詞だ。もちろん、このような視点でのみ書かれた脚本ではないが、つい忘れがちな立ち位置で、自分自身、はっとした部分であったので敢えて書いてみた。

しかし、この芝居を観ていて、今に始まったことではないけれど、今の世に対する腹立たしさとか悲しみが沸々と湧いてきた。この世界は「差別構造」で成り立ってしまっているということを、再確認させられた。戦争然り、原子力然り、基地問題然り、経済然り。

第一、この国の根本が「差別」そのものだ。敗戦時、本来は処刑されるべき軍の最高司令官は、アメリカの思惑とも重なって、戦争責任も問われることなく、象徴になってしまった。そして皇室という身分が残ってしまった。人の上に人を残したままなのである。そして現代も「陛下」などという尊称が堂々と使われている有様だ。この基本的構造が「差別」である限り、「差別をなくそう」だとか「いじめをなくそう」などと言っても白々しく思えてくる。

ワタミの社長は、いじめを無くすためには、いじめが発生した学級の担任の給料を下げればいいと言っている。徹底的な競争原理を取り入れれば、いじめはなくなるそうだ。従業員を自殺に追い込むほど競争させる社長だから言える言葉だろうか。橋下とまったく同類だ。彼の元でも数人自殺している。

その象徴が、近隣諸国におこなった数々の蛮行に対する謝罪をきっちりとしてこなかったことが、いくらアメリカの企みだとは言え、その事が今も消えない火種となって燻っている。いじめ問題で大人たちは、「いじめられているほうが、いじめだと感じたらそれはいじめだ」とよく言う。ならば国と国の関係も同じで、「いじめ」の証拠消しを一方的にはかるなんてどうかと思う。

差別はお金を生むのか、お金が発生するところに差別が生まれるのか。

原発の立地条件は、過疎であること、それは大事故が起きた時に賠償総額が少なくて済むからだ。だから電気をたくさん使う都会に建設されることはない。原発はコンピュータだけで動くものではなく、原子炉の近くで手作業を人間がしなければならない。安全な場所でコンピュータを操作するのは本社の社員で、放射能を確実に浴びて作業をするのは、下請けの作業員たちである。原材料のウランがある場所というのは、なぜかそれぞれの国の原住民が住んでいる地域が多い。そして発掘作業にはそんな原住民の人たちがよく使われる。これから日本が原発を建設しようとしているベトナムの村は、日本の原発の事故の情報など手に入れることもできないような場所で、立ち退きをさせられても、危険性がわからないので、村の人たちは建設予定場所の隣に移動するだけだと聞く。ベトナムで出た廃棄物はモンゴルにいくという。

そうやって電気を使う人たちはいつも安全な場所にいて、そうじゃない人はいつも被曝していく。

戦争だってそうだ。戦争をしたい人たちはいつも安全な場所にいてお金を儲けて、そうじゃない人は上手に洗脳され、あるいはわずかばかりの給与のために戦地に赴き、そこで女、子どもを真っ先に殺し、そして自分も傷つきあるいは殺されていく。基地だってそうだ。安全な場所にいるものたちは、安全保障上必要だと宣う。経済だって、現場で汗を流して作っている人のもとには、わずかばかりのお金しか残らず、どこかでコンピュータでモノを動かしている人のもとにお金は集まっていく。

命が簡単にお金に変えられていく時代になってしまった。もう人類は破滅の道に向かって進んでいるとしか思えないのだ。でも、そんな時代になっても、今日のような芝居が上演されることに、僕は感動を覚える。同じ価値観を分かち合える人がまだいることに、少しだけ勇気がわくのだ。そして僕も、何かできれば、と思う。

 

まともな人間と…

戦争について、平和について考えさせられるようなTV番組が八月であるにも関わらず、少なくなってきたと友人と話す機会があったが、例えば講演会なども、昨年まであったものが今年開かれていないというのも結構あるような気がする。これも世の中の富の集中化が一因なのであろうか。戦争について講演会をする団体などには、もうお金が回らなくなってきたということか。

先日、ご年配のある女性からお話を聞いた。その女性の夫は戦争で、上司の命令により中国人を三人刺殺したという。夫はそのことで一生苦しみ抜き、「奥さんや子どもや親や兄弟がきっといたであろう人を自分は三人も殺してしまった。だからせめて自分は葬式はしないでくれ。」と常々言っていたそうだ。奥さんはそのことを忠実に守りぬいた。

またある方に聞いた話だが、仕事先で出会った男性に、戦争で中国人の首を切り落とした話を聞いたそうだ。軍刀を持つことが出来るのは少尉以上なので、自分はスコップで切り落としたと、まるで自慢話のように聞こえたそうだ。

その二つの話を聞いて、フランクルの「夜と霧」を思い出した。

『こうしたことから、私たちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる。いや、ふたつの種族しかいない。まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともでない人間の集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。』(新板「夜と霧」p144)

いざその時になれば、自分はどちらの人間なのだろうと思う。苦しみから逃れるために後者の立場を選んでしまうかもしれない弱い自分が頭をよぎる。

戦争は、我々がまとっているベールを剥がし、どんな種族であるかを明らかにする。今の日本は、まるで戦争時代だ。(これを平和な世などと思うのは、マトリックスの世界にいるということに気がついていないだけである。)あるいは戦争突入前夜である。明らかになりつつある、まともな人間とそうでない人間。もう右翼だの左翼だのと言っている場合じゃないのだよ。

 

ダークナイト ライジング

ハリウッド的な映画も好きだ。頭の中をからっぽに出来て、爽快になるからだ。ノーラン監督の「バッドマン・ビギンズ」を観た時は、今までのヒーロー物とは少し違う印象を受けたが、でもハリウッド的範疇からは逸脱してはいなかった。しかし第2作「ダークナイト」を観た時は衝撃を受けた。バットマンというアメコミのキャラを使って、こんなにも深い映画を作ることが出来るんだと感動した。言い尽くされてはいるが、ヒース・レジャーのジョーカーの存在感は圧巻で、は映画史上に残る悪役だった。

そして第三作「ダークナイト ライジング」を観た。ジョーカーが死んで7年が過ぎたゴッサム・シティ(ニューヨークに見える)には平和が訪れ、バットマンはもう必要とされなくなっていた。ブルース・ウェイン自身はジョーカーたちとの闘いで傷ついた身体も癒されることなく、杖なしでは暮らせない老いぼれた身体になっていた。また愛する人を失った心の傷で、屋敷の中に引き籠った生活を送っていた。しかし、ゴッサム・シティの地下では刻々と悪が息を吹き返す準備を始めていた。そしてブルースは策略にはまり全財産まで失ってしまう。ついに傷ついた身体のままで悪に立ち向かうが、簡単に打ちのめされてしまい、どこかの国の地下牢獄に閉じ込められてしまうのだ。

第2作で、バットマンは存在価値を否定され、その上ハービー・デント検事や警官殺しという泥を被りながら街から姿を消したけれども、なんとか生きてこれたのは、レイチェルとの心の繋がりを信じたからではなかっただろうか。しかし、本作で執事からレイチェルはウェインを愛していなかったことも伝えられる。そしてその執事さえもウェインの元を去る。とことん陥れられたバットマンに再度立ち上がる理由や動機はいったい何処にあったのだろうかと思う。僕には分からない。

そんな本質的な暗さとは裏腹に、物語は度肝を抜かれるような映像で展開されていく。冒頭の飛行機のハイジャックなど、考えられない方法でありながらもリアリティのある衝撃的な映像だった。そんな場面が随所にある。しかし残念がら第2作のような深みは無くなっていた。そこまで落とされたのなら、もうロッキーのように立ち上がらなければ仕方がなく、ハリウッド的に強引に結末まで進んでいく。地下牢はファンタジー過ぎるし、中性子爆弾の爆発の仕方は解せない。まるでアトムじゃないかと思った。アトムのように太陽まで連れていってくれたら納得もいくが、海で爆発させて大丈夫なのか。まだアメリカ人は核爆発を甘くみているんだなと思わされた場面だ。

またしてもバットマンの自己犠牲で街(いや世界?)は救われたのだけれど、最後にカフェでくつろいでいるウェインとキャットウーマンを執事が目撃する。ウェインはこちらを向いてウィンクまでする。これはどう考えても執事の見た幻としてしか考えられないのだが…。バットマンの遺志を継ぐであろうロビンの存在を匂わす場面もある。正直言って、これらの場面にはがっかりした。最初にハリウッド的な映画も好きだと書いたが、この映画はそれを超えたものだと思っていたからだ。期待度が高すぎたのかもしれない。

少しずつ傾いている。
だから気がつかない。
グロテスクなものに「正義」という仮面をかぶせながら
優しくささやく人がいる。
こぶしをつきあげる人がいる。
ほくそ笑む人がいる。
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「絶望に慣れることは絶望そのものよりさらに悪い」 カミュ
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2010.07.31 Saturday

日の光を藉りて照る大いなる月たらんよりは自ら光を放つ小き燈火たれ
森鴎外「知恵袋」より
2010.07.21 Wednesday

慣れなきゃ生きていけない。
慣れてしまったら誤魔化される。
慣れなかった犠牲者年間三万人。
2010.07.16 Friday

群青の種撒き散らし彼方よりおかえりなさいお風呂はまだか
2010.07.09 Friday

三段の段差でこけるダンサーに「ほんま旦さんだんないでんな」
2010.07.05 Monday

感謝できることを探しなさい。
不幸な人など誰もいない。
by 美輪 明宏(NHK-hi)
2010.07.02 Friday

宴席で、同僚や後輩と仕事の話しかできないのはカッコ悪いだろ。
2010.06.28 Monday

こううんなのは、少し頭が悪かったこと。
ふこうなのは、それに気がついたこと。
2010.06.27 Sunday

ミー玉さえありばゆたさんヤンバルに土建屋来てもキジムナーニタジィ
2010.01.25 Monday

一月の向日葵の咲くその場所は原色のグスクヌケヌケと青
2010.01.24 Sunday

ゆびさきにざらざらとしたうわあごのおくにこそばいそんなかんかく
2010.01.22 Friday

ロラたちに正義を!

ナルシサさんのお父さんは、ゲリラをかくまったという疑いをかけられて、日本軍に銃剣で皮膚をはがされる。そのお父さんを助けようと棒を持って立ち向かった幼い弟と妹もその場で銃剣で刺殺される。そしてナルシサさんは姉と一緒に駐屯場へ連行され、テラサキという日本兵に強姦される。ナルシサさんが10歳の時の出来事だ。

アナスタシアさんは兵士だった夫と共に日本の憲兵隊に捕まった。夫は拷問で顔を引き裂かれ、殺害される。アナスタシアさんは要塞に半年間閉じ込められ、一日六人の日本兵に輪姦された。

ピラールさんは、ゲリラの疑いで日本兵に捕まり、返事をしなかったため頬にタバコを押し付けられたり、耳を切られたりした。今でもタバコの痕と切り落とされた痕がくっきりと残っている。

他にも日本兵の歓迎会を開いた小学校で、先生から日本兵について行きなさいと指示され、そのまま監禁されて強姦されたりなど、様々な証言が映し出される。

「カタロゥガン!ロラたちに正義を!」(2011年、監督:竹見智恵子、編集:中井信介)という映画を、昨日観た。「ロラ」とフィリピン語で「おばあちゃん」という意味だそうだ。

フィリピンでは日本兵による性暴力の被害にあったと名乗り出た女性たちは400名ほど。実際に被害にあった女性はその何倍にもなると言われている。90年代、被害女性たちは日本政府相手に謝罪と補償を求める闘いを開始したが、日本政府は、わずかなチャリティ・マネー(アジア女性基金)で責任を回避し、今も問題は解決していない。ロラたちはこのままでは自分たちいの正義は回復されないと、80才を過ぎた今も街頭デモに参加し、闘い続けている。

映画を観ながら、男と言う性、残虐性をむき出しにさせられる戦争に嫌悪、悲痛、絶望感が渦巻き、吐き気さえ催した。しかしながら、自分が当事者の兵隊であれば、それを回避できただろうかと思うと、男であることも辞めたくなる。戦争の実相はこんなもんであろう。

今日、野田はヒロシマで「非核三原則を堅持する」と言ったが、「武器輸出三原則はすでに緩和されているし、原子力基本法も改悪され「我が国の安全保障に資すること」というどうにでも解釈できるような文言が基本方針に盛り込まれている。徴兵制を復活すべきだという著名人や政治家もちょろちょろ出てきている。オスプレイは日本全国の上空で飛行訓練が行われそうだし、沖縄から基地が消えそうもない。その上、大阪で基本的人権が侵害されているような条例が次々と施行されている。戦争の臭いがプンプンするではないか。一歩でも半歩でもそこから遠ざかるためにも、このような映画はもっと見られるべきで、ロラたちにきちんと謝罪ができるような日本にしていきたい。