眠れない夜に

何も考えず、少しの我慢だと思って日々を生きていたらいいのかもしれない。少しぐらい考えたって、少しぐらい行動したって、何が変わるというのだ。僕には何も変える力はない。変わっていく世の中に流されて生きていくしかない。気まぐれに象に踏み潰されるアリの群れの中の一匹にしか過ぎないのだ。踏みつぶされるかどうかは運次第。そうやって何百年も何千年も踏みつぶされ続けてきたではないか、そして踏みつぶしてきたではないか。

娘のお腹の中に命が宿った。まだほんの数センチだけれども、エコー写真には眼や鼻や指が写っている。お腹の中からこっちを見つめている。何万年も受け継がれてきた命の連鎖だ。踏みつぶされずに生き残ってきた命だ。

娘が生まれてきた日のことを思い出した。生まれてきてくれてありがとうと確かに思った。お尻がむず痒くなるような居心地の悪さもあったけれど、その存在は何よりも貴重なものだと感じた。命をかけて守るぞと思った。踏みつぶされたりなどしたら気が狂うだろう、本気でそう思っていた。

やはり許せない。今の世の中が許せない。生きとし生けるものは我の命よりも子の命を本能的に必死に守って生きていくものなのだ。何も考えずヘラヘラ笑っているだけでは、子どもが殺されてしまう。すでに、一部の人のためだけの社会となってそんな政治が行われ、そんな経済活動が行われ、そして軍靴の音が響いてきているではないか。子どもや孫たちを戦場へ送り出しても平気なのか。殺されてもいいのか。殺人者になってもいいのか。今も世界の何処かで殺戮が行われている現実を見れば、そうなることなど容易に想像できる。

かつてナチスの時代には、家の近所に強制収容所があったことさえ知らなかったドイツ人がいたという。さらに、福祉が行き届いた良き時代だったと感じていたドイツ人もいたほどだ。何も考えず、何も知ろうとせず、その日の生活だけを考えて生きていればそんなことになるのだろう。

今の日本だって、大方の人は今の世の中に危機感を覚えている人は、あまり居ないような気がする。いや、もう諦めてしまっているのだろうか。まだ100年もたっていないのに同じ過ちを繰り返そうとしているのだろうか。

数年前まではこんなことを考える自分ではなかった。時代がそうさせたのだ、きっと。しかし、何をどうしていけばいいのか、まだよく分からない。逼迫したものを感じながらも、様々な学びに食らいつき、方向性を、答えを求めてはいるのだが・・・。

金福童さんの言葉

【2012.9.23の講演会にて】

私は時代を間違えて生まれてしまいました。国の力が弱かったために日本に国を奪われて、たくさんの人々が銃剣のもとに倒れていきました。若者たちは徴用、徴兵などの名で引っ張られていき、学生たちまで学徒兵という名で根こそぎ奪われていきました。

それでも足りなくて、女性に対しても、各郡や市町ごとに何十人と募集が行われました。娘を持つ親たちは、娘たちを守るために結婚させたかったのですが、
徴用や徴兵で相手がいませんでした。

14歳のある日、日本人の警察官と、村の班長と、軍服を着た男性が二人がやって来ました。「軍服をたくさん作らなくてはいけない。人手が足りないから、工場に行きなさい」と言われました。「なぜ、こんなに幼い子を連れていくのか。こんなに幼いのに工場で働けるのか?」と母が言ったら「行って学べばいい。行かなかれば、財産を没収して外国に追放する」と脅迫されました。

まさか連れて行かれても死ぬことはないだろうと思い、私は家を出ました。しかし、連れて行かれた場所は、工場どころか、陸軍の軍人の性の相手をさせられる場所だったのです。幼い少女が、日本軍の性奴隷として8年間、そこに囚われていたのです。

この胸の痛みを分かって頂けるでしょうか。みなさんにもお子さんがいるのではないでしょうか。もし自分の幼い子どもが遠くの戦場に連れて行かれて、こんな目にあったとしたら、どんなふうに思われますか?

そして私は、陸軍第15師団の本部について、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール、バンコクと連れ回されました。私たちは陸軍本部についていました。本部から40Km前線で部隊が上陸し戦闘を行います。そこに後から本部が乗り込んでいくのです。

私たちは、人間としてではなく、まるで機械、あるいは獣のような扱いを受けました。土曜日は12時から夕方の5時まで、日曜日は朝の8時から夕方の5時まで日本兵の性の相手をさせらたのです。軍人たちが列をなして立っています。一人を相手にするだけで、もう血が流れて痛くてたまらないのに、3分ほどで次の男が入ってきます。数十人の相手をそんなふうにすると、その後はもう立つこともできませんでした。

このようなことをしておいて日本政府は、何故謝らないのでしょうか。私は、何も今の日本政府が悪いと言っているのではないのです。過去に天皇制のもとで、過ちを犯したその事実に対して現政府にきちんと謝罪をして法的な賠償をしてもらいたいと思っています。

民間人がやったことだとか、お金儲けのために行ったんだとか言われていますが、しかし、戦場にたくさんの幼い少女たちを民間人が連れていくことは可能だったのでしょうか。軍の許可がなければ、出来なかったことだと思います。また、いくらお金儲けが出来たとしても、あんな戦場に行きたいと思う人がいるはずがありません。

根拠がないとか、証拠がないとか言っているようです。証拠はあるはずです。根拠がないと言いますが、ここに証人が生きています。本人が生きているのに、根拠がないなんて、あまりにもひどいと思います。それがあまりにも悔しくて、「根拠がない、証拠がない」と言う人に私は直接会いたいと思って日本にやって来ました。私たち被害者はもうほとんど死んでしまって何人も残っていません。生きている人がいる間に解決して欲しいと思います。

何も持たずに生まれてきて、何も持たずに死んでいくのが人間です。生きている間にお互いに理解しあい、慰めあって仲良く生きていくことが大事だと思います。在日の人たちに関しても、大事にして欲しいと思います。私が言いたいことを全部話そうと思ったら、一晩かかっても話しはできません。今日はこのようにたくさんの方が来て下さって、本当にありがとうございました。

 

ミャンマー軍政下20年の真実~フォトジャーナリスト・再会の旅~

「私はただのビルマのシンボルに過ぎません。もしこの国を取材したいのなら、私ではなく普通の人々を取材して下さい」というスーチーさんの言葉で、宇田有三さんは、ビルマを隈なく歩き、軍政下に生きる民衆の中に入って取材しようと決心した。

そしてこの春、民主化に動き出したビルマを訪れ、今までは顔や名前を明かせなかった人々と再会する旅にでた。

日銭暮らしの漁師や服の仕立屋までが、熱く民主主義や人権を語るビルマの人たちが映し出される。そのために命をかけて戦い、何度も牢獄に囚われてきた人たちだ。そのビルマが今、民主化に動き出している。何度も騙され苦しめられてきた人たちだから、心の中では半信半疑かもしれないが、スーチーさんの登場に熱狂的になっている民衆たちがカメラの前に居た。

形骸化された民主主義の中でごまかされながら生きている私たち日本人にとっては、とても勇気づけられるものがある。僕たちはまだまだ頑張れるんだって。日本はどんどん右傾化はしているけど、まだ諦めたらだめなんだと。

宇田さんは、先週の講演会で「ビルマは見る人の目によって違ったものが見えてくる」と言っていた。そうなんだとしたら、この映像だけを見て、ビルマを分かった気にはなってはいけないだろう。宇田さんか玉本さんかがちらっと言っていたが、田舎のほうに行くと、スーチーさんのことに対しても醒めた目でみている人たちもいると。また、スーチーさんの発言では武力を否定しているわけでもないと。

そんなビルマを20年も追っている宇田さんは凄い人だなと思う。民主化になってしまったら、僕の出番はなくなるともおっしゃっていたが、政治は玉虫色だ。これからも取材を続けていろいろ教えて欲しいと思う。

http://www.asiapress.org/archives/2012/05/29125658.html

轟音-龍神村物語-

1945年5月5日、和歌山県田辺市龍神村殿原の上空に轟音を轟かせた一機の飛行機が現れた。空襲の経験のない村人たちには、まるで飛行機の悲鳴のように聞こえた。そしてその飛行機が龍神村の山間に墜落して行ったのだ。

その米軍爆撃機「B29」には11人が乗り込んでいて、7人が死亡した。現場では身体の一部が散乱していたり、木に宙吊りになって死んでいた人もいた。住民はそんな遺体に石を投げつけたりした。

生き残った4人のうち2人はすぐに捕まえられ、後の2人は山中に逃げ込んだが、数日後に捕らえられた。捕虜となった米兵は、憲兵隊が宿泊していた旅館に連れていかれたあと、御坊の憲兵隊へ、そして大阪へと送られた。町中を連れて歩く時、石を投げる人やら殴りかかる人もいたが、戦争に行った自分の息子を思い出し、白米のおにぎりを差し入れる人もいたようだ。

大阪へ送られた米兵は、国際法では捕虜は人道的に扱わられなければならないのだが、「B29は無差別攻撃をしたのだから、殺してもかまわない」などの理由で隠密に処刑されたのだという。大阪では52人、名古屋では38人、福岡では41人が処刑された記録があるようだ。

殿原では慰霊碑を建て彼ら11人を弔い、毎年慰霊祭をおこなっている。記録では1945年6月9日から行ったことになっている。ただこの点に関しては疑問が残る。慰霊祭の届けでは戦後に行われているからだ。戦時中に米兵の慰霊祭など行うと、スパイ扱いされるからだ。戦後、GHQから米兵への扱いについての追求を逃れ殿原を守るために工作をはかったのではないかとも考えられる。

しかし、映画ではその真相追求はさておき、戦後、慰霊祭を滞らせることなく、今も続けられているのは、龍神村の人々の心優しい気持ち、命を敬う気持ち、平和を尊ぶ気持ちがあるからこそだと、観ているものに訴えかけてくる。単なる工作であったのなら、70年近くも続けてこられるだろうか。

そして何より重要なことは、この映画を作ったのは大学生だったいう点だ。大阪芸術大学芸術学部映像学科の笠原栄理さんら9人が卒業制作として2010年12月から撮影に取り組み撮影テープは110時間にも及んだという。地元の人たちとも仲良くなり、心のこもった作品に仕上がっている。

笠原さんは「戦争について何もしらなかった。でもこの映画を制作する機会を与えてもらい、一つ一つの内容を調べながら作り上げていく中で、出会ったご高齢の方たちの生の経験を伝えていくことが、私の使命なんだと思えるようになってきた。驚いたことや胸が苦しくなったことを、伝えていきたい」と話していた。

素晴らしい作品だと思う。こんな作品作りの機会に恵まれた学生たちに嫉妬さえ感じるほどだ。そしてその機会を十分に生かし、歴史に残るような作品仕に上げた彼女たちに大きな拍手を送りたい。たくさんの人たちに観て欲しい作品だ。

「TPPもやばい!緊急学習会」

「ODA改革ネットワーク・関西」と「NPO法人AMネット」主催の「TPPもやばい!緊急学習会」に参加してきました。TPPのことは以前からちょい噛りで色んなことを聞いてきましたが、きちんと学習したことはなかったので、そのきっかけとして今回の学習会は大変有意義な時間となりました。しかし、内容が多岐にわたり、全てを理解するにはかなりの学習が必要になると思います。ほんの一部だけですが、自分のメモ替わりに掲載しておきます。稚拙で恥ずかしいですが…。

「わしらの仲間に入りたかったら、わしの言うことなんでも聞くんやったら入れたる」

というのが「信頼情勢措置」だそうで、TPPに加入したければ、この「信頼醸成措置」に日本は応じて、親分のアメリカの言うこと全部言いなりにならんとあかんらしいです。ほんま嫌な奴です。で、「例外なき関税撤廃」というルールがありながら、アメリカは乳製品や砂糖はTPPから品目をはずしているそうです。なんやそれ。

日本の食料自給率は現在40%なんですが、人口が1億越える国で自給率がこんなに低い国はないらしいです。そしてTPPに入ってしまえば、自給率は13%にまで落ち込むことが予想されています。そうなると大量の離農者が出ます。日本の米の消費量は年間820万トンですが、それをアジアから輸入することになると、そのためにアジアの飢餓人口が増大してしまいます。日本人が食を満たそうとすると、アジアの貧困層が餓死するという構図にさらに拍車がかかるちゅうことですな。また、海外からの輸入ができなくなると、日本の都市部においても飢餓状態になるそうです。実際、ハイチがアメリカからの米の輸入がストップされたことがあったそうです。いったん荒れた農地の復旧は数年かかるので、そう簡単には飢餓からは抜け出せないのです。

政府が行政のために物品やサービス、あるいは建設工事などを調達する時(=「政府調達」)は、調達額に関わらず加盟国全てに(ネット上に英文で)公示しなければ、国が企業から訴えられるそうです。例えば、田舎の役所の便所を改装する時にも、いちいちネットでお知らせして入札せんとあかんちゅうことですよね。日本の大企業の連中は、加盟国のベトナムやペルーやブルネイやマレーシアやシンガポールなどにそんなことができるようになるから、ウハウハと思っているんでしょうか。自分たちの企業が儲かることだけを考えていて、日本全体のことなど全く頭にないのでしょう。ああ、守銭奴ばっかしや。医療も同じ論理で、TPPに入ってしまえば、医療費がどんどん高くなっていき、貧乏人はまともな医療を受けることができなくなることでしょう。

原発も基地もTPPも、根っこはみんなおんなじですなぁ…。このままでは、もうお先真っ暗。

ひろしま



「ユー・アー・ジェントルマン。パパ、ママ、ピカドンでハングリ、ハングリー。」

これは原爆孤児たちが生き残るために広島を訪れた観光客にかけた言葉である。原爆死没者慰霊碑の周囲にそんな孤児がたくさん居たのだと思う。宮島の防空壕にある骸骨まで売りつけて生活していたのだ。設置された1952年当時は、慰霊碑から望む原爆ドームは、公園内にあるバラック小屋で遮られ、上のほうしか見えない。

そんな戦争の傷跡も生々しい1953年に、原爆の悲惨さを後世に残そうと日本教職員組合が制作した映画が「ひろしま」である。全国の教員約50万人が一人50円ずつ拠出し2400万円の制作費を集め、またエキストラとして広島市民を九万人を集めたという超大作だ。

手弁当のエキストラたちによって、原爆投下直後の地獄図会が再現された。その映像は圧巻で、本編104分中の50分がそれに費やされている。焼けただれた皮膚が指先から垂れるような特殊メイクはなかったが、エキストラ全員が頭から灰を被ったため、撮影後の市内の銭湯は全て無料になったというエピソードもある。また、監督の演技指導がなくとも、エキストラたちの両手は自然に前に出ていて、八年前のその日を思い出しながら涙を流して市民はヒバクシャを演じていたようである。

また女学校の教師役の月丘夢路は、所属プロ以外の映画に出ることが難しい時代であったにも関わらず、女優生命をかけてこの映画にノーギャラで出演した。
このような超大作であるにも関わらず、反米色が強いなどという理由で全国配給ができず、学校上映さえもままならず、そのまま陽の目をみずに埋もれていったのたが、この作品の監督補佐を務めた小林太平さんの息子・小林一平さんによって2008年から広島を皮切りに上映が再開された。原爆投下後の様子が映画史上、一番正確に描かれていると言われるこの作品が、できるだけ多くの人に観られ、原爆の実相が伝わり「平和のメッセージ」となっていくことを望んでやまない。