忍び寄る影に抗して(10/19後半)

「橋下の濁流はどこへ行く?
いま問いなおすファシズムの歴史と現在」②

~なぜ、いま、ナチズムの過去が想起されるのか?~

1933年1月30日、ヒトラーはドイツの首相に大統領によって任命された。そして1945年4月30日に彼が自殺をするまで首相であり続け、その間を第三帝国時代とも呼ばれる。もし私がその時代に生きていれば、確実にヒトラーを支持していただろう。それは、今の日本とは比べ物にならない程、その当時のドイツは悲惨な現実を抱かえていたにも関わらず、ヒトラーはそれを打破し、人々に希望を与え夢を与え、そしてその夢を部分的ではあるが実現させたからである。

第一次世界大戦後(1918年)のドイツ国家は、天文学的な多額の賠償金のために、経済的に悲惨な状況に陥れられ、そして何よりもドイツ人としての誇りを失ってしまっていた。そこに現れたのがヒトラーだった。

実は、第二次世界大戦後、西ドイツの地方自治体や政府が国民に対して繰り返し「ナチス時代をどう思っているか」という世論調査を行なっていた。ところがその結果は政府の思惑とまったく違ったものになったので公表されずにいたが、1970年代に情報公開法ができた時、その内容が明らかになった。「ヒトラーの時代は良かった」というのが過半数だったのである。それまでは、そんな結果であったということは知られていなかった。

ナチス時代が終わり、強制収容所、絶滅収容所などが明らかになった時点においてでも、「ナチスの時代は良かった」と思っていた国民が過半数だったのである。その良かった理由として一番目に、「ヒトラーは失業をなくした」ということがあげられる。ヒトラーが政権をとった1933年、完全失業率は44%であったが、1938年には1.9%にまで引き下げられた。その翌年に戦争が始まると、労働力が不足となりマイナスの失業率となったしまった。その労働力を補うために、オーストリア・チェコなどの占領地からまずは自由応募を行い、そして強制連行を行った。このことを、その当時の日本の御用学者たちが研究をして、政府に提言したのが、朝鮮や中国からの強制連行であった。

二つ目は「社会の秩序や治安の回復」、三つ目は「身分差別を無くしてやる気のあるものを重用」したという理由があげられている。ドイツには元々、ホワイトカラー(額の労働者)とブルーカラー(拳の労働者)との間に大きな差別が存在した。それを、ヒトラーは権力を持った最初のメーデーの日を「ドイツ的労働の日」と銘打って、花トラック(トラックの車体を花で飾った)を走らせ、その荷台の上にテーブルを設置して、ブルーカラーとホワイトカラーに一緒にビールを飲ませるというような、差別を無くすためのパフォーマンスを行ったりした。また、ヒトラーユーゲント(ヒトラー青年団)においても、親の職業や地位に関わらずヤル気さえあれば、ステイタスを意図的にあげていった。そして四番目の理由として、ドイツ人としての誇りを持てるようになったことがあげられている。
ナチスはこのようなことを、約束をして、そして政権を握っても着実に実現していった。約束の段階で、既成政党は違っていたので鰻登りに得票率はあがっていった。そして第1党となった時、直ちにヒトラー独裁のための措置をとっていき、わずか5ヶ月で独裁政権が完成した。

ヒトラーは合法的に政権を獲得したのは否定できないが、しかし、記憶に留めておくべきことは、ナチ党は最後まで、得票率では過半数を超えたことはなかったということである。過半数を獲らなくても第1党となって政権を握れば、人類史上最も民主的な憲法を持った国でさえ、それが出来たのである。ましてや既にボロボロとなってしまった日本国憲法を持つ日本において、例えばある政党、あるグループが政権を握った時、なんでも出来てしまうことは明らかである。しかも選挙棄権率が高いために、実質数割ほどの得票率で政権を握ることが出来てしまう、さらに情けないことに既成政党が為す術もなく、ハシモトに擦り寄っている現実に対して、私たちは甘く考えてはいけない。

ドイツ共産党とドイツ社会民主党は、ナチ党に最後まで反対した政党である。選挙に勝てないと判断した時に、共産党員の間に「まずヒトラーを干させろ、そのあとから我々がいく」というスローガンが流れた。どうせヒトラーなどはいずれ化けの皮が剥がれて、国民の信は落ちるはずだ、その時こそ我々の出番だと言う意味である。武装闘争をしてまで、ナチを食い止めるなどという積極的な活動は諦めてしまっていた。だから、どうせハシモトなど大したことはできないと放っておいてはいけない。マスコミでハシモトの支持率が少し下がってきたという報道があるが、ナチスも実は、政権をとる直前に支持率がさがったことがる。

~ヒトラーとナチズムと「国民」との「絆」は?~

ドイツ国民は、一生懸命に生きなければならないが故に、ヒトラーを支持したらどういうことになるか目に見えなかったのが現実だろう。そこで唱えられていた改革なるものは、今の「維新の会」の改革と重なって見えることが多い。例えば「敵」とか「非国民」、つまり日本人(ドイツ人)らしからぬ人に対する攻撃、こういうものがナチスの売りであった。だから自分はドイツ人だと思っている人は、ドイツ人としての誇りを持てるようになったということだ。

ナチは「生きる価値のない存在」を作った。それは、同性愛者、身体障害者、精神障害者、アルコール中毒者そしてユダヤ人とジプシーたちだ。そして彼ら彼女らを絶滅させる法律まで作った。遺伝的な障害であると医師が決定すると、男女に不妊手術を施した。さらに、安楽死という措置、そして安楽死に至るまでに人的資源の活用として、人体実験のモルモットとして扱われた。これがナチによって極めて合理的にそして合法的に行われたのだ。このようなことはドイツ人は知っているはずだし、知らなければならない。にも関わらず、ドイツ人であることが誇りに思えただとか、生活が安定しただとか、ヤル気があれば出世する社会であっただとか、それは一生懸命に生きている時に見えていない典型的な例である。

私たちがハシモトを支持する風潮の中に見ることが出来るのは、とても悲しいことではあるが、これらナチス時代のドイツにとても近いのではないかと思う。ハシモト現象を考える時に、「在特会」の存在も見つめなければならない。在特会は仮想敵を作って、この社会の中で一番苦しい位置に追い込まれている人たちを人間ではないかのように扱っている。そしてそのことに、私たちの中にある種の共感を呼びおこしてしまう現在、私たちがそういう貧しい状況に押し込まれているということだ。そしてそれがハシモトを持ち上げている濁流の力である。

ナチは、「生きる価値のない存在」をスケープゴートにして、人々の安定感を生み出して行くとともに「自給自足」という政策を打ち出してきた。諸外国との関係を打ち切らなければ、大国の従属化におかれてしまう。だから戦争をしてでも自分たちの生存権を拡大しなければならないという目標をはっきりと持っていた。「自給自足」は今では考えられないことで、むしろその逆のことが行われている。「自給自足」は他者を認めないことが基本理念であって、それによって自立を確立することである。

ハシモトは「自立した国家、自立した地域を支える自立した個人を育てる」と唱えているが、関係の中で自分たちの生き方を考えるのではなく、「ヤル気があれば認められる」、「中国人や韓国人に馬鹿にされない日本人としての誇り」というものが、ナチと何処かで重なって見えてくる。例えば、決断、断定、強さといったものが、プラスのイメージで描かれているのが、そういうふうな意味での「自立」のスローガンとぴったり重なっているように思える。

維新八策には「ほんとうの弱者を大事にする」と書かれている。ほんとうの弱者は何かを考えることも大事ではあるが、社会の中で差別され、無念な思いをして生きてきた人たち、その思いが、自己を解放し、自分たちを踏みつけてきた人たちを変えていくことによって、自分たちの本当の意味での自立を闘いとっていく方向にではなくて、新しい被差別者を作りだすような自立としてしか実現されようとしていないことが、日本維新の会に関して残念なことである。

~最後に~

何かに反対や異論を唱えると、為政者たちは「対案を出せ」という。「お前たちを立案をする責任者として選んできたのだから、お前たちが方針を出せ」と今までは返してきたが、しかし、もう今はそれをしてはいけないのではないだろうか。個別の具体的な案をだすということではなく、「私たちがどんな生き方をしたいか」それを「誰とともにしたいのか」という関係を含めた私たちの生き方をはっきりと討論して、イメージを創りあげていかなければならない。これが、濁流に呑まれないための私たちの一つの仕事ではないだろうか。

忍び寄る影に抗して(10/19前半)

「橋下の濁流はどこへ行く?
いま問いなおすファシズムの歴史と現在」①

10月19日、エル・おおさかにて「南京大虐殺60ヵ年大阪実行委員会」主催の講演会があった。講師は京都大学名誉教授の池田浩士さん。金曜の夜にも関わらず、会場が溢れるくらいの人が集まり、クーラーをつけなければならないほどの熱気で講演会が始まった。先月、阪大大学院の木戸衛一さんによるナチズムの話を聞いたばかりであったので、また少し違った角度からのお話はとても興味深いものがあった。とても大事な話だと思えるので、自分の為に、講演内容をまとめておこうと思う。以下に記していく。

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濁流というのは橋下および橋下の仲間たちと言うよりも、橋下に期待を持っている私たちの隣人たちが濁流のように流れているというイメージである。

~南京大虐殺に関わるいくつかのエピソード~

今年は「南京大虐殺」から75年目になったが、その四分の三世紀という歳月が実りあるものであったのか、私たちは問われている。

小説家・石川達三は南京事件に関与したといわれる第16師団33連隊の特派員として取材し、日本軍が南京を攻略した様子を「生きてゐる兵隊」の中で描いている。1938年3月号の「中央公論」に掲載された。しかし自主規制で四分の一が伏字削除されていたにも拘らず、掲載誌は即日発売禁止の処分となり、掲載部分は鋏やカミソリで切り取られた。戦後、二つの出版社から刊行されたが、それによると、南京に向かっているその途上から日本軍は非戦闘員に対して、とてつもない虐殺と陵辱を重ねていたことが分かる。日本軍の一員である表現者がそれをしっかり描いていた。例えば女性を捕まえて強姦し、「惜しいなぁ」と言いながら銃剣で殺傷するそのような場面が生々しく描かれている。

とある従軍作家の日記によると、中支那方面軍の師団が九州から輸送船で杭州へ向かう途中、1937年11月3日(明治節)早朝、甲板で東方遥拝のあと部隊長からの訓話の記載がある。

「お前たち、ここでは敵に知れる恐れは一切ないから、今日は良き日であるので、言って聴かせる。敵は今日我軍が上陸してくると考えて手ぐすね引いて待っている。であるから我軍は敵の裏を書いて今日は上陸しない」

日本の軍隊は、記念日(天皇関係あるいは戦果があった日)に大きな作戦を行うことが常套手段であった、そしてこのことは他の国にも知れ渡っていた。それを逆手にとり杭州には1937年11月5日にほぼ無血上陸を果たしたのだ。
そして日本軍は北上し、12月1日、中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官松井石根(まついいわね)大将が南京城総攻撃を命令をくだし、13日南京城陥落の公式発表、17日に南京入城式が挙行されるにいたる。圧倒的な兵力を持った日本軍が南京城を占領するだけで12日間もかかり、そして、南京城を占領してからも中国軍や民衆の抵抗に手間取り、入城式をするまでに4日間も必要としている。このことから中国の軍隊及び民衆の抵抗がどれほど激しかったのかが伺われ、そして大虐殺があったと想像される。

さて、1941年12月8日は日本軍が真珠湾攻撃をおこない太平洋戦争が幕を切って落とされた日であるが、何故12月8日であったか。定説では飛行機の機影が見えない新月の日であったと言われるが、日本軍がそれほど科学的であったかは疑問である。1937年12月9日の新聞に「12月8日、南京城の一角をついに占拠」という記事を友人が発見して以来、このことが、日本軍にとっての大きな記念日であり、よってその日を開戦としたのであろうと確信する。

ゲーテと同時代の作家ジャン・パウル(本名ヨハン・パウル・フリードリヒ・リヒター1763-1825)は「想像力とは遠い関係を発見する力である」という言葉を残している。「関係がない」としか見えない遠い関係に、実は関係があるということを発見するのは、人間の想像力である。無関係だと思われるような一つ一つの事実に対して、関係性を発見していくことが人間としてしなければならない大きな作業ではないかと、この言葉から教えられた。

ハシモト現象を考える時に、何故80年も前のドイツのファシズムを考えるのか。歴史に学ぶということは、一見関係がないと見えることの間に私たちが関係を発見していくということである。その現場では見えなかったことが、後から生まれてきたから故に見ることが出来ることもある。

~「輝かしい歴史」に満ちた「我が国」~

「我が国」という言葉が好きな人がいる。「我が国」の歴史は輝かしいものであった。大東亜戦争に負けるまでは「金甌無欠」という「天皇制国家は負けたことがない」という伝説があった。それは日本が「神の国」であるからである。天照大御神を先祖とする天皇家が日本をしろしめてきた。神武天皇は人間になってからの最初の天皇で、その祖母はワニザメとされている。このような建国神話から始まる荒唐無稽な話が戦前の教科書でまことしやかに教えられていた。

しかし戦後の民主主義で本当のことを教えられたのだろうか。1947年版小学1年生教科書「こくご」第1課には次のように書かれている。

おはなをかざる みんないいこ
なかよしこよし みんないいこ
きれいなことば みんないいこ

北村サヨさん(1925年生・元教員)は「きれいなことば みんないいこ」という表現は沖縄における「方言札」で沖縄の言葉を奪った歴史を忘れていると指摘している。戦後民主主義もやはり歴史を忘却したところから始まっている。そんな戦後民主主義の一つの到達点が、今の社会の現実ではないだろうか。

60年安保や70年の全共闘で世界の現実を変えようと闘ったあの時代が戦後民主主義の到達点だと思っていたこともあったが、今やその時代の人たちが自民党以上にひどい政治をしている、そのことは一つの到達点であると思う。

死刑廃止議員連盟の中心でありながら死刑議論を巻き起こすためにと言いながら死刑を執行する大臣、学生時代に死刑反対論者だったと公言しながらたくさんの死刑囚を殺した一代前の大臣。そんな人たちが登場することによって、何への道を開いてしまったのだろう。浜岡原発を止めた途端に菅直人首相が降ろされた後、政府は原発推進一途となり、私たちの希望であったかもしれない民主党は完全にハシモトへの道を開いてしまったことがとても無念である。それは、ハシモトにしか期待できない私たちそして私たちの隣人たちの責任である。

~「戦後」の到達点、ハシモトの濁流~

「維新八策」はまったく支離滅裂ではあるが、教育改革の中の「自立する国家、自立する地域を担う自立した個人を育てる」はとても重要である。なぜなら沖縄で起きていることを考えれば、私たちは自立した国家を持っていなく、アメリカの属国としか言えない状況である。また被災地に使われるべき災害復興予算が中央官庁の修理費になどに充てられている現実。自立できずに無念に思っている地域・地方がたくさんある中で、誇りを持って自立した個人であるといると言える生活を、極めて多くの国民は許されていない。若者が未来への希望も展望も持てない社会で、個人が自立できるはずがない。このような現在がハシズムと言われるハシモトに対するある種の期待や熱狂を広く蔓延させている。悲しいことに、かつてヒトラーが民衆のそのような思いを収奪して権力を握り、人類史上最大の汚点を引き起こしてしまったことを述べてみても、それは今と違うと多くの人は思う。

かつて、20世紀の思想家エルンスト・ブロッホ(ユダヤ人、1885-1977)は「生きられている瞬間は闇である」と言った。それは、今の瞬間を一生懸命生きていればいるほど、その現実や周りが見えなくなるのは人間の限界である。これは必ずしも悪いことではない。「恋は盲目」という言葉があるが、これは人間がもっとも懸命に生きている瞬間のひとつだ。その時は周りも自分も見えてはいない。コンラート・ローレンツという動物学者は、人間以外の動物の獲物に飛びかかろうとしている瞬間の脳波は、その前後と変わらないものを発しているが、人間は、大事な決断をしなければならない時は、その脳波は止まってしまうと言っている。脳波がとまるということは、周りの状況をキャッチできない状態であるということだ。

だからこそ、その状況で生きていなかった後の世代は、もう一度過去を追体験をし、それを体験した人との対話によって、周りが見えていなかったことを再発見し、歴史が共有されるのではないだろうか。後から生まれてきた者の役割はそこにある。ハシモト現象の濁流に飲まれて周りが見えていない隣人に対して、そうなっていない私たちがある一つの役割を果たさなければならない。

(続く)

ロヒンジャ問題

先日(10/7)、日本ビルマ救援センターの報告会があり、ジャーナリストの宇田有三さん、BRCJ代表の中尾惠子さんがお話をされた。ロヒンジャ問題は何度聞いても難しい。だから忘れないようにと、自分のために記録しておこうと思う。報告会で聞いたものと、色んなサイト(Wikipedia、HRW、etc)から引っ張ってきたものを織り交ぜながらまとめてみた。

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ロヒンジャ(ビルマ読み:ロヒンジャ、英語読み:ロヒンギャ)とは、ミャンマーのヤカイン州とバングラデシュのチッタゴン管区に跨って暮らすベンガル系ムスリム集団である。ロヒンジャは、ミャンマーにおいてはイスラム教徒であるため支配集団の仏教徒ビルマ族から弾圧され、バングラデシュにおいても不法滞在者として冷遇されているため、周辺諸国への難民化が顕著である。なお、ロヒンギャのエスニシティ(民族性。ある民族に固有の性質や特徴)を巡る問題は、今も学界で議論中。

居住

ロヒンギャの居住地域は、ミャンマー連邦共和国西部にあるヤカイン州のブティーダウンマウンドーの両市と、バングラデシュ人民共和国東部にあるチッタゴン管区コックスバザール周辺のマユ国境一帯にある。かつて、ロヒンギャは東インド(現在のバングラデシュ)に住んでいたが、ミャンマー西部に存在したアラカン王国に従者や傭兵として雇われたり、また商人としてもとビルマの間を頻繁に往来していたため、その後ビルマ国境に定住したイスラム教徒がロヒンギャの祖先とされる。バングラデシュへ難民化したり、ミャンマーへ再帰還したりしたため、現在では居住地域が両国を跨っている。

生業

主に農業で生計を営むが、商人としての交易活動も盛んである。

人口
ミャンマーにおけるロヒンギャの人口規模は70万~120万人と推計されるが、政府当局の統計が怪しいため正確な数値は不明である。

歴史

アラカン王国を形成していた人々が代々継承してきた農地が、英国の植民地政策のひとつである「ザミーンダール制度(※1)」で奪われ、チッタゴンからのベンガル(※2)系イスラム教徒の労働移民にあてがわれた。この頃より、仏教徒対イスラム教徒という対立構造が、この国境地帯で熟成していったと説明している。

日本軍の進軍によって英領行政が破綻すると、失地回復したアラカン人はミャンマー軍に協力し(※3)、ロヒンギャの迫害と追放を開始した。

(※3)【対立構図】
連合軍:イスラム(ロヒンジャ)VS日本軍:仏教徒(アラカン族)

1966年、ビルマとバングラディッシュの国境が決まる。

1982年の市民権法でロヒンギャは正式に非国民であるとし、国籍が剥奪されたため、現在のラカイン州にはビルマ族や他の民族集団の移住政策が進められているとの報告がある。

1988年、ロヒンギャがアウンサンスーチー氏らの民主化運動を支持したため、軍事政権はアラカン州のマユ国境地帯に軍隊を派遣し、財産は差し押さえ、インフラ建設の強制労働に従事させるなど、ロヒンギャに対して強烈な弾圧を行った。ネウィン政権下では「ナーガミン作戦」が決行され、約30万人のロヒンギャが難民としてバングラデシュ領に亡命したが、国際的な救援活動が届かず1万人ものロヒンギャが死亡したとされる。

1992年ラカイン州北部でナサカ(NaSaKa)治安部隊が結成される。治安という名目でロヒンジャへの弾圧、人権侵害を行なっている。

1991年~1992年と1996年~1997年の二度、大規模な数のロヒンギャが再び国境を超えてバングラデシュへ流出して難民化したが、同国政府はこれを歓迎せず、UNHCRの仲介事業によってミャンマーに再帰還させられている。

(※1)【ザミンダーリー制】
●1793 年、コーンウォリス総督によってベンガル管区に導入され、北インドを中心に実施された土地所有・徴税制度
●政府と農民の間を仲介する者に徴税をまかせ、仲介者に土地所有権を認める
(※2)【ベンガル人】
ベンガル人はバングラデシュとインド西ベンガル州、北東インド諸州やビルマ・アラカン州(主にロヒンギャ)などベンガル湾周辺の広大な地域に暮らしている。 ベンガル民族は様々な人種(が長い歴史の中で混血されて形成された集団であり、特定の人種的な傾向はなく、人種的な特徴のないことが特徴といえる。肌の色は個人差が大きい。また、顔立ちも欧米風から日本人風の顔をした人まで様々であるが、一見して東アジア、東南アジア的な風貌の人々とは明らかに異なる。ベンガル人は地域的、文化的には一定の共通の基盤はあるものの、ヒンズー教徒とイスラム教など宗教によっても社会的・文化的な背景は大きく異なり意識の上でも特にイスラム教徒にあっては民族よりも宗教へのアイデンティティが強く出る。ベンガル語を母語とする人口は1996年のデータで世界人口の3.2%に当たる1億8900万人であり、中国語(北京語)、英語、スペイン語に次いで第4位を占めている。

ミャンマー(ビルマ)における3大仏教勢力

① ビルマ族(自称バマー)
ミャンマーの人口の7割を占める民族で、そのうちの9割が上座仏教を信仰する。
② モン族(モン・クメール語族)
ミャンマーの人口の1.2割程を占める民族。
③ アラカン族(ヤカイン、ラカイン)
15~18世紀、ビルマとバングラデシュの国境地域に「アラカン王国」があった。

イスラムの大きな流れ

・8~15世紀、マレーシア・インドネシア方面からアラカンへムスリムが船で流れ着き、住み始める。
・アラカン族はイスラムの教えを受け入れる。むしろファッションとなる。
・アラカン王国には、日本からは山田長政が訪れている。相撲が伝えられた。

ミャンマーに居る主なムスリム

・バマームスリム(インド系)
・パンディー(中国系ムスリム)
・パッシュー(マレーシア系ムスリム)

ムスリムに対する偏見・差別

植民地時代の民族による分割統治政策で、ビルマ人は最下層におかれたことによるイスラム教徒に対する怨恨が生まれた。しかし、ムスリムの人口は少ないが経済的には強者が多く、警察などもあまり恐れない。

 難民キャンプ

ネ・ウィン将軍時代における迫害、そして1982年の法律で国籍を剥奪されたロヒンジャが、バングラディッシュ側に逃亡。クトゥパロンとナヤパラの公式難民キャンプにいる。新しく逃れてきた難民はそこに入ることができず、それぞれに非公式難民キャンプを形成する。公式、非公式ともに自助組織やNGOの活動は禁止されている。また非公式のほうでは、政府から一切なんの支援もなく、学校の設立さえ禁止されている。また、携帯、パソコンTV、ラジオなどの所持も禁止され、服装はロンジー(巻きスカート)の着用を義務付けられている。

クトゥパロン

ナヤパラ

公式難民キャンプ

非公式

公式

非公式(レダ)

人口

10500

40000

14084

14327

家族数

1180

3000

1729

2092

ミャンマー連邦共和国(ビルマ)

【国土】日本の約1.8倍
【行政区画】
・管区または地域(7)エーヤワディ、ザガイン、タニンダーリ、バゴー、グウェ、マンダレー、ヤンゴン
・州(7)       カチン、カヤー、カレン、シャン、チン、モン、ラカイン
・自治区(5)    ザカイン管区ナガ、シャン州ダヌ、パオ、パラウン、コーカン
・自治管区(1)   ワ
【人口】6300万人(2012年)
【首都】ネピドー
【最大都市】ヤンゴン
【公用語】ビルマ語
【大統領】テインセイン
【通貨】チャット
【宗教】上座部仏教(※4)(85%)、キリスト教(4~5%)、イスラム教(4~5%、※実際は15%ほどの存在感)

(※4)【上座部仏教(小乗仏教)】出家して厳しい修行を積んだ僧侶だけが悟りを開き救われる。したがって、修行をしたわずかな人が救われ、一般の人々は救われない。★主要国 スリランカ、タイ、カンボジア、ラオス、ビルマetc
【大乗仏教】釈迦はすべての人々を救いたかったはずである、という思想のもとに誕生したのが大乗仏教。教えの違いにより「顕教」と「密教」とに分かれる。★主要国 日本、中国、チベット、朝鮮半島etc

ビルマ略史

ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことが窺えるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。
10世紀以降、様々な王朝が栄えたが、19世紀に英国の植民地となる。イスラム教徒のインド人・華僑を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教に改宗させて下ビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策を行なった。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(カレン族など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。

1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。

1945年3月、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。

1947年7月19日にアウンサンが暗殺された後、1948年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立。初代首相には、ウー・ヌが就任した。
独立直後からカレンなど各所民族の独立闘争、共産党やムスリムの武装抵抗など、政権は当初から不安定な状態にあった。ムスリムは、パキスタンや中東からの支援があり、政府は北ラカインをムスリムの特別自治区として認めることとなった。

1962年、ネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし、ビルマ式社会主義を掲げ大統領となる。憲法と議会を廃止して実権を握って以来、他の政党の活動を禁止する一党支配体制が続く。

1974年にビルマ連邦社会主義共和国憲法が制定され、ネ・ウィンは大統領二期目に就任。
1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める民主化要求運動が起きる。1988年8月8日のゼネスト・デモが民主化運動の象徴として捉えられているため「8888民主化運動」の名がある。ネ・ウィンの長期独裁政権は退陣したが、9月18日に国家法秩序回復評議会 (SLORC) による軍事クーデターが発生し、民主化運動は流血をともなって鎮圧された。この過程で、僧侶と一般人(主に学生)を含む数千人がビルマ軍により殺された。政権を離反していたソウ・マウン率いる軍部が政権を掌握し再度「ビルマ連邦」へ改名した。軍部は国民統一党を結党し体制維持をはかった。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。

1989年6月18日に軍政側はミャンマー連邦へ国名の改名を行った。
1990年5月の総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。

1992年4月23日にタン・シュエが首相に就任。軍事政権は1994年以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催する。
1998年民主化運動が高揚、軍事クーデターを決行して1000人以上の国民を虐殺し弾圧を加える。
1990年、アメリカ合衆国にビルマ連邦国民連合政府が設立。トップはスーチー従兄弟のセイン・ウィン。
2000年9月、アウンサンスーチーが再び自宅軟禁された。
2003年8月、和平推進派のキン・ニュンが首相に就任。

2004年、キン・ニュン失脚して自宅軟禁され、保守派のソー・ウィンが首相に就任。
2006年10月に行政首都ネピドーへの遷都を公表。
2007年9月仏教僧を中心とした数万人の規模の反政府デモが行われ、APF通信社の長井健司が取材中に射殺された。

2007年10月に軍出身のテイン・セインが首相に就任、軍政主導の政治体制の改革が開始される。
2008年新憲法案についての国民投票が実施・可決され民主化が計られるようになる。
2010年10月国旗の新しいデザインを発表。11月には新憲法に基づく総選挙が実施される。また同月政府はアウンサンスーチーが軟禁期限を迎えると発表し、その後軟禁が解除された。

2011年3月テイン・セインはミャンマー大統領に就任。軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であった国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、権限が新政府に移譲された。これにより軍政に終止符が打たれた形となったが、新政府は軍関係者が多数を占めており、実質的な軍政支配が続くともみられた。11月アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) は政党として再登録される。
国家元首は、2011年3月より大統領となっている。同月、テイン・セインが連邦議会で軍籍ではない初の大統領に選出され、現職中である。それ以前の国家元首は国家平和発展評議会 (SPDC) 議長だった。同評議会は立法権と行政権を行使。首相は評議会メンバーの1人であったが行政府の長ではなかった。2011年3月に同評議会は解散した。

2012年5月 ラムリーを発端とする暴動
http://www.hrw.org/ja/news/2012/08/01

2012年5月28日、ラムリー島でアラカン民族女性1人が3人のムスリム男性に強かん、殺害されたとする情報が、ある扇情的なパンフレットに掲載されて地元で広まった。

6月3日、トンゴップに住む多数のアラカン民族住民が1台のバスを停車させ、乗っていたムスリム10人を殺害した。(※トンゴップはNLDが多く、民主化されている。ナシュなリズムが強い地域で、普段はムスリムはあまり通らない街)

6月8日にはマウンドーに住むロヒンギャ民族数千人がイスラムの金曜礼拝後に暴動を起こし、アラカン民族を殺害し(犠牲者数は不明)財産を破壊した。ロヒンギャ民族とアラカン民族の対立はシットウェーと周辺一帯に広がった。
また、同日にバングラディッシュのロヒンジャ難民キャンプでデモがあった。

双方の住民の一部は暴徒となって略奪を行い、無防備な村や地区を襲撃し、住民を残虐に殺害し、家や商店、礼拝施設を破壊・放火した。政府の治安部隊はこうした暴力行為を停止する形ではほとんど展開されない一方、住民は刀や槍、木刀、鉄の棒、ナイフなど簡単な武器で武装していた。扇情的な反ムスリム報道や地元でのプロパガンダが事態を扇動した。

シットウェーにビルマ軍が駐留して暴力事件そのものは沈静化した。しかし6月12日、アラカン民族の暴徒が同市最大のムスリム地区にある、ロヒンギャ民族と非ロヒンギャ民族合わせて最大1万人が住むとみられる住宅地区を焼き払ったところ、警察や準軍事組織である機動隊(通称「ロンテイン」)もロヒンギャ民族だけに実弾を発射した。

シットウェー在住のロヒンギャ民族男性(36)はヒューマン・ライツ・ウォッチに対し、アラカン民族の暴徒が「家に放火し始めました。住民が火を消そうとすると、機動隊が発砲してきました」と述べた。同じ地区に住む別のロヒンギャ民族男性は「私はほんとうにすぐそばにいました。表に出ていたのです。機動隊が少なくとも6人を射殺しました。内訳は女性が1人、子どもが2人、男性が3人です。警察は死体を持ち去りました。」

6月の暴力事件以後、ロヒンギャ民族数千人が隣国バングラデシュに逃れているが、バングラデシュ政府は国際法に違反する形で人びとをビルマ側に押し返している。

 

6月中旬、民族対立による暴力を避け、ボートでバングラデシュ側へ逃れてきたロヒンギャ族。バングラデシュは受け入れを拒んでいる=AP

「いま、大阪の文化を考える」鷲田清一さん

10月6日(土)、大阪自由大学主催「いま、大阪の文化を考える」連続講座の鷲田清一さんの講演会に参加してきた。三連休の初日の昼間に、こんな場所に集まるみなさんは、切ない方々でしょうかという鷲田さんの冗談を聞いて、ほんとにそうかもしれないと頭をかすめた。そしていきなり壊れてしまったマイクを握りながら、鷲田さんは「Liberal」という単語の意味から話を始めた。

「Liberal」を辞書で調べると、1番目に出てくるのは「気前の良い」、2番めは「寛大な」、3番目は「豊富な」であって、よく使われる「自由な、自由主義の」という意味は4番目に出てくるそうだ。

そして、かつての大阪(大坂)はリベラルであったと。それは本当に大切なことはお上に任せるのではなく、市民がやる「自治」都市であったということと、財力のある人たちは、その為には惜しみなく寄付をしてきたという「気前のよい」市民文化があったということだ。しかし大阪万博以降、その都市文化やスピリットはぐちゃぐちゃになっている。

かつて市民力があった時、学ぼうとする力が強かった。昭和初期、帝国大学は、東京、京都、東北、九州、北海道とそれぞれの地方(中国、四国には何故かない)で一校ずつあったのだが、大阪の民間人は関西に二つ目の帝国大学設立を強く望んだ。国家にはなかなか認めてもらえなかったが、民間が校舎などを寄付することによって、最早国立というよりも私立に近い形でスタートされた。

そしてその阪大の源流となるのは、大坂商人たちが設立した学問所の懐徳堂と緒方洪庵が開設した適塾であり、それぞれ文学部と医学部に受け継がれている。

懐徳堂が設立された時代の背景には、元禄バブルが弾け、諸藩の経営が破綻しかけていたということがあった。その時に大阪の商人は「教育」を残そうとしたのだ。

当時、江戸の人々は過半数が武士であったが、大坂は人口30~40万人中1万人しか武士は暮らしていなかった。その代わりに、天下の台所である大坂には、全国の藩から優秀な事務方がたくさん派遣されており、また教養のある隠れ浪人なども住みついていたので、そのような人たちと交流するためには、大坂商人にも高い教養を持つことが要求された。当時の日本の財政を知り尽くしていたのは大坂商人であったのだ。だから、本物の教育を求めて、懐徳堂が設立された。

懐徳堂の運営方法も画期的で、現在の財団法人と同じ方法がとられていた。また平等に生徒を受け入れた。財力のある人からはそれなりの学費をとり、お金のない人には半紙一枚でも学費として認めた。学習内容は、実学は一切なく、人の道を説く中国の古典と、ものの道理を学ぶ天文学を学んだそうだ。

大阪の文化的教養が高かった証左として、日本で最初にシェイクスピアが上演されたのは大阪であり、またジャーナリズム(朝日、毎日、サンケイなど)が生まれたのも大阪である。

一方、懐徳堂から1世紀遅れて出来た「適塾」は、武士の学校であり蘭学を学びに全国から生徒が集った。卒業生の半分は医者になったが、後の半分は、陸軍創設者の大村益次郎、日本赤十字社創設の佐野常民、慶應義塾大学創設の福澤諭吉など、医学とは関係のないところで、才能を発揮した。塾長の緒方洪庵は晩年、江戸の西洋学問所に抜擢されたが、西洋学問所は、東大医学部の源流でもある。

このように、大阪の学問は燦然と輝いていた。適塾の教育がなぜ多くのリーダーを輩出することができたのか。それは、何を学ぶということではなく、ひとつのことをとことん学ぶという経験が、何事に対しても有効で、どんなことでも出来るようになるにではないかと鷲田さんはおっしゃっていた。

江戸の学問は、例えば翻訳をする力をつけて出世をするというように、何かの為の学問になっていた。しかし、大坂では学問が出来ても尊敬されるわけでも、出世するわけでもない。何かの為にしているのではなく、こんなに難しい学問を、こんなに必死(福沢諭吉は24時間勉強をして布団で寝たことがなかった)に、こんな悪い環境(100人に一冊の辞書しかない)で、こんなにしんどいことをしている奴は、日本には俺以外いないと言うさして意味のない、目的のないのが大坂の学問であった。純粋に学問に向かうことができたのである。

大阪人は、本当に大事なことは自分たちでやってきた。それは教育であったり、橋造りであったり、中公会堂、図書館、病院、大学、動物園など、民間人は惜しみなく寄付をして作ってきた。その精神は規模は小さくなったが、大阪城天守閣の再建、繁昌亭、大川の桜並木などに今でも受け継がれている。

福沢諭吉は、何度も政府の高官職を持ちかけられたが断り続け、一民間人として過ごしたのは、そこに「大事なことは民間でやれ」という「私立」思想がある。「国民たるものは、主客の二人前となれ」と福沢諭吉は説く。それは、平時の時は、国民は「客」であってもいいが、政治が劣化した時は「主」に戻れということなのである。政府がやることを、有難いと思うような「客」になるなということであるが、今の日本の国民は完璧な「客」となってしまっている。

生き物として人間がやらなければならないことを、国力を高めるために国は様々なシステムを作り、国民は生産力を高めることだけに集中すれば良くなった。そのお陰で、世界一のスピードで長寿化を成し遂げ、工業製品のクオリティも世界一となり、停電はない、電車は時刻表通りで、そして安全な生活を手に入れた。

しかし、近代化以前に地域社会でやっていたことが何も出来なくなってしまった。昔のむら社会は地域で力をあわせてやることが10個あった。成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行、葬式、火事の消火である。村八分という言葉は、どんなに絶交していても、葬式と火事の消火だけは手伝うという意味である。しかし、現代の日本はその二分でさえ地域社会ですることがなくなった。そして、そんなテクニックも失ってしまった。あらゆることをお金で買うことになってしまっている。

成熟した市民は、行政が劣化した時に、自分たちで引き取ることが出来たし、対案を示すことも出来た。しかし今は、クレイマーにしかなれない。ヨーロッパ社会は今も不便である。それは全てを行政とサービス企業に委ねていないからで、大事なことは地域の共同作業でやるということを残しているからだ。例えば、日本でのホスピスは病院で終末を迎えることが多いが、ドイツでのホスピスの目標は、終末は家に帰すことであり、それがプロフェッショナルの仕事となっている。医師が往診をして家庭と連携をとりながら、自宅で最期を看取るそういうシステムが出来ている。

私たちは選挙で選んだらあとはお任せという「お任せ政治」の極みまでいってしまっている。それでうまくいかなかったらまた選挙を繰り返していくのが、政治家も市民も当たり前のようにやっている。それを福沢諭吉は、国民は主客二人前の役を果たさないで、客だけになってしまっていると言っている。大阪の行政は、集客都市にしたいと言う言葉を使うが、私たちはお金を落とすだけの客ではなく「主」である。

大阪は、大事なことは自分たちでする「自治」という自由主義的な街である。また、大事なものには惜しみなくお金を使う、恐ろしいほどの気前の良い寄付文化を持っている。大阪人はがめついとかケチというイメージが作られているが、そうではなく無駄金は一切使わない徹底的な合理主義者なのである。

大阪は、リバティ(自由主義)とリベラリティ(気前の良さ)の二重の意味でリベラルな街であったという原点を思い出したい。大阪市のマークは澪標である。澪標は船が砂地に引っかからないように川の深いところを示すマークである。目に見えている表面的な事には惑わされないで、深いところをきっちり選んで船を進めていく、そういう街にするという高い志で選ばれた「澪標」であることを心に留めたい。

 

暴言、暴力、反対!

現場にいなかったし、抗議行動やデモにもほとんど参加していないものが言うのも心苦しいが、関電前抗議行動における不当逮捕のIWJ動画を見て、警察側に非があるのは大前提の話ではあるが、市民側も汚い言葉を使って警察を挑発しているような気がしてならない。腹立たしい気持ちは十分わかるが、あれでは、在◯会が吠えているのとあまり変わらないような気もする。一般の市民が反原発行動に嫌気を差しかねないような言動なので、残念である。警察の挑発には乗らないような毅然とした言動を期待したい。

警官個人個人には色んな考えをもった人がいるとは思うが、就職したからには組織の人間なので、そこから逸脱した行動が出来ないのは社会人として当たり前のことなのだから、まさに現場にいる警官に語りかけても、市民側が満足を得られるような答えを期待するのは間違っている。先日、中央公会堂でがれきの説明会ででもよく似た光景を見た。会場整理をしている末端の市役所の人間に、暴言を吐いている人がいた。彼らが何も言い返せないのは当然で、まるで弱いものいじめのように見えた。

彼らに一人一人に挑発をしている行為は悲しい。彼らにも家族や親友がいて、あのような場面を見たら、市民運動をしている連中はなんて理不尽な奴らなんだろうと思うだろう。だって彼らは末端なのだから。個人攻撃はやめて欲しい。若い警官なら、あんな場面には慣れていなく、つい興奮をしてしまう人もいるだろう。街中で、一般人にあのような挑発行為をすれば、殴り合いの喧嘩になってもおかしくはない。別に警察の肩を持つつもりはないのが、数日前の沖縄でのオスプレイ阻止行動をされた沖縄市民の人たちの行動と比べると、少し感情に走り過ぎてはいないかと思う。逆に権力側の思う壺にはめられているのではないだろうか。市民が分断されないためにも、誇り高き行動がとれる市民であって欲しい。

西谷さんのシリア報告を聞いて思うあれこれ

先日、西谷文和さんのシリア報告会を聞いてきた。アレッポに潜入した映像を見せてもらった。政府軍によって破壊された町。瓦礫の中に埋もれている自転車。3時で止まっている目覚まし時計。ガラスの破片だらけの路地。うっすら煙が立ち上る焼けただれた家。爆弾が打ち込まれ、屋根や壁がない家に住んでいる子ども。ど真ん中が大きくえぐれているビルディング。

朝から自由シリア軍の若者たちが街角でお茶を飲んでいる。町を脱出した人も多くいるらしいが、朝からパンを求めて並ぶ大人や子どもたちが、まだたくさんいる。カメラに無邪気に手をふる子供たち。ほんの数百メートル先には政府軍がいて、もうすぐ朝の戦闘が始まるというのに、そんな風景がある。時間になれば戦闘機が飛んできて、爆弾を落としていくのだ。そして自由シリア軍の若者は銃を持って地上軍と撃ち合う。人殺しの時間が始まるのだ。

世界標準から見れば、とても裕福で平和なこの日本に住んでいる僕たちが、古今東西の戦争の話を、映画や写真や書物で見たり読んだり、あるいは体験者から話を聞いたりしても、悲しいかな、リアル感じられるのはその一瞬だけで、その場を離れれば、日常に埋没してしまう。

そう、誰も殺されていないし、体の何処も痛くないし、ひもじい思いもしていないし、爆音も銃声も聞こえなし、異臭もしないから。

そんなことに思いを寄せるより、大人たちは、家のローンや子どもたちの学費や年老いた親の面倒のために、働かなくてはいけない。若者も、仕事探しに懸命にならなくては生活さえもできなくなってしまう。子供たちは学校の勉強やクラブ活動や塾で休んでいる暇もない。

しかし、果たして、そんな日常が永遠に続くのだろうか。いや、すでに自然災害や原発事故で、日常を奪われた人たちがたくさんいるではないか。実はもう違った日常になっているのに気がついていないだけなのかもしれない。

まるで、映画のマトリックスの世界だ。今見えている世界が本当なのだろうか。実は僕たちは薄い膜に覆われた羊水の中で目を閉じてしまっているのかもしれない。居心地の良い「ここ」から抜け出したくないのだ。でも、薄い膜の外ではすでに戦闘が始まっている。いつかきっとその膜は破られてしまう。

今日までの日常が、明日からの日常になるという保証など何もない。しかし、日常がある日突然変化するのではなく、ほとんどの場合少しずつ変化していくので、よほど目を凝らしていない限り、その変化を感じとることはできない。

しかし変化を感じ取れないほうが楽に生きられるよなぁと最近思うわけだ。そう言えば、戦時中のドイツも、ナチス政権に対してほとんど不満もなく暮らしていた国民が結構いたようだ。時代の渦に巻き込まれてしまえば、良心さえ何処かへ消し飛んでしまうのだろか。

さて、シリアでの戦争を僕はどう捉えたらいいのだろう。大阪の片隅に住む何の力も人間が、そんなことを知ってどうするのだ。マンションの下で起きた喧嘩なら、降りていって「まあまあ」と間に入ることもできるが、よほどの知り合いではない限り、そんなことをしようとはしないだろうし、殺し合いなどしてたら身内でない限り絶対に近づきもしない。だったら何故、僕は話を聞きに行ったのか考えてみた。

何の罪もない市民が無残に殺されている。フェイスブックを通じて、子どもたちが殺されている写真を何枚も見た。心が痛いのだ。自分の子どもに置き換えて想像しようとすると感情の回路がショートしそうになる。そう、戦争の悲惨さを少しでも共有しようとして僕は話を聞きに行ったのだ。その悲しみや辛さをシェアすることによって、自分の感性を研ぎ澄まし、自分なりの基準を作って今の世界を見ることができたらと思うからなんだ、きっと。

あれ?それで終わっていいの?

堪忍してくれ。
今日はこれくらいにしといたろ~。

眠られへん夜に

民主党の終わりが近づいておますけど、その次に控えている奴らも気に食わへんなぁ。憲法を変えようとしてるんやろ。軍隊持ちたいねんなぁ。今でも軍隊と変わらんやんけ。

戦争ごっこしたいんか?ほんまけ?どんなに強い軍隊持っても、日本襲われたら一瞬で終わりやで。爆弾もいらんがな。オスプレイみたいなんが福井県の原発の上に落ちるだけで、日本はThe ENDですがな。あっはっはっは。福井方面に地震きよったら、戦争するまでもなく自滅でんがな。

せやから、憲法9条を無くすのは、諸外国と対等に付き合うとかそんなためじゃおまへん~。日本を守るためでもおまへん~。逆に危険に陥れまんがな。アメリカはんにお付き合いして、どっかよそさんの国でパンパンって銃撃ったら、日本にやってきますで~、仕返しに。で、原発ジャックされて一巻の終わりでんがな。

要はおおっぴらに武器商人をぎょうさん儲けさせたいちゅうことでっしゃろ。次の地震が来たら日本は終わりちゅうことが目に見えてまっさかい、今のうちに銭つかむだけつかんどこうちゅう魂胆でおまっしゃろ。原発再稼働やら建設もどうせそんなこっちゃろ。目先の金のためじゃろ。金、金、金、金。金、金、金、金!え?ちゃうんかい!ほんまのこと言うてみぃ!

日本のみなさん、お金を持ってる連中は何もかも知ってるんですわ。日本がもう長うないことを。せやさかい、今のうちに吸い取るだけ吸い取って、で、日本から出ていくつもりなんですわ、政財界のやつらは。

ほんなわしも海外出てきますわ、淡路島にでも。ほな、さいなら。

普天間基地ゲート前

9月30日の夜は、IWJによる普天間ゲート前の映像を見だしたら、目が話せなくなってしまったのだ。他に予定していたことも手に付かず、トイレにいくのも躊躇ってしまった。漂ってくる緊張感で、僕は胸が苦しくなった。

フェンスの前でお互いにしがみつくように座り込んでいる沖縄市民、フェンスを車で封鎖しその上に籠城している沖縄市民、フェンスから引き離された場所で警察と押し合いへし合いをしている沖縄市民。それに対峙しているのは、沖縄の警察官、機動隊員たち。力づくでまるでゴボウを抜くように市民を解体していく。フェンスの内側では数人の若い海兵隊員が数人並んで立って、外の様子を伺っている。「ヤンキーゴーホム!」と言われても何の表情も変えず立っている。

あの場所に自分の意志で来ているのは、市民の人たちだけだ。日本の警察も、米兵も上から命令されて、そこにいるのだ。そして日本人同士が戦わされ、それを米兵が眺めている構図っていったい、どういうことなんだ。

命令されて来ている警察官の中にも心が揺れ動いている人がいるらしい。いろいろ話かけたら小さくうなづく警官や、涙を流す警官がいるらしい。そして座り込んでいる人たちへの差し入れも、ちゃんと届けてくれる警察官もいる。

立てこもっている市民の人たちも、警官にたいして「あんまりあわてんとやろうな。お互いケガをせんようにな。声をかけあってやりましょう」と話しかけてる。なんか涙がでそうになった。

なんて人格的に素晴らしい人たちがやっているんだと感じる。何処かの国で暴れまわっている人たちと大きく違う。そうやって対峙しながらも相手のことを思いやれる心の余裕を持った人たちなのだ。それは自分の意志でもって阻止行動に参加し、命を守るために闘っている姿だ。しかし、マスコミは暴れまわる外国の民はニュースに何度も流すくせに、自国で誇り高く闘っている沖縄の人を映し出そうとはしない。それが腹立たしくって仕方ない。警察が暴行を働いている場面を何故流さない!

最後まで車の上で戦っている人たちが叫んでいた。「おしっこさせろ~」って。いったい彼らは何時間トイレにも行ってないんだろう。彼を囲む警察の状態が、少し雰囲気が変ってきて、どうも逮捕に踏み切られるのではないかという心配が出てきたようだ。もし逮捕されてしまえば明日の抗議行動ができなくなると言うことで、とうとう自ら車から降りていった。本当にお疲れさまでした。沖縄で闘っているみなさん、ありがとうございました。心から感謝します。

マスコミが権力のウソを見抜けない本当のワケ—報道はなぜ『当局』に弱いのか—

台風がまともに来ていたが主催者に電話をすると予定通り開催するということなので、風にあおられ傘が裏返しになりながらも会場へ向かった。開始10分前に到着したが、すでにほぼ満席で、主催者側の発表によると105人の参加だということだった。

お話をされたのは、元北海道新聞社の「北海道警察の裏金問題取材」で有名な高田昌幸さんである。現在は高知新聞社会部に所属されている。

新聞社も一企業

テーマの「マスコミが権力のウソを見抜けないワケ」を結論から書く。それは新聞社やTV局などの報道機関が特別な存在のように思われがちであるが、それらも民間企業の一つであり、役所が各省庁に細かく分かれているのと同じように細かなシステムが出来あがってしまっていて、記者個人の問題意識や良心のみで取材したり、記事を書くことが出来ないというのが、その主たる理由だ。

日本には新聞協会加盟の新聞社が96社あり、その中で編集部門に在籍するものは、約2万1千人いる。それぞれの新聞社では、共同通信社約1100人、朝日新聞社約2千数百人、北海道新聞社約600人、高知新聞社約100人、神戸新聞社約300人といった数の記者が従事している。

そんなに多くの記者たちが普段は一体何処にいるのか。基本的に取材記者は社外にいることが多いが、自由に動きまわっているわけではなく、それぞれの役割が決まっている。新聞社は経済部、社会部、政治部、運動部、文化部などの部署に分かれていて、その部を飛び越えて取材をすることなど考えられない。

例えば、官邸前のデモを記者個人がいくら取材したくとも、新聞社としての担当部署が違えば勝手に取材することは組織としては認められないし、またそんな時間的余裕も与えられていない。

刑事事件の犯罪はいつも掲載されるが、労働紛争の記事など見ることがないのは、警察には記者が常駐しているが、労働基準監督局にはどのマスコミも記者を置いていないからだ。

また記事を書くのにも、分業化されていて、例えば一つの事件の逮捕、起訴、公判、判決などに対してもそれぞれ担当記者が変わるので、冤罪事件に対する謝罪さえもなかなか出来ないのはこの所為である。

要するに新聞社も役所と同じように官僚化されており、何事につけて前例踏襲主義となってしまっているのだ。

権力と新聞社

今の日本の新聞社は1941年11月の「新聞統制令」によって出来たものである。「新聞統制令」により新聞社が整理統合され、一県一紙制が導入されたことにより、739社あった地方紙が最終的には54社までに削減された。それが現在にまで続いている。

当時の新聞社は経営の不安定を政府が解消してくれるということに喜び、統廃合が進められていったのである。そして大きくなっていった新聞社と政府や軍部との密着度が強まっていったのである。朝日新聞社の緒方竹虎が政府の情報局総裁に就任したり、朝日新聞社航空部長が陸軍に飛行機を贈呈したりするなど、戦争へ加担する存在となっていった。そのような流の中に今の新聞社はあり、現在においても基本的な構造はほとんど変っていないのが実情である。

アジェンダ設定

新聞紙面の8割は日付が入った所謂「発表報道」である。それは日付が入ったものがNEWSであり、動きのないものはNEWSにはならない。「原発は危険です」という意見だけでは記事を書くことができない。

しかし、それは当局の発表をそのまま書いたものであり、記者自身の価値判断で書いたものではない。本来は記者自身の価値判断で取材し書いたものが新聞記事であり、問題設定(アジェンダ設定)をするのは新聞記者であると高田さんは述べている。

公的機関にある記者クラブでは当局からの公式発表の場であるが、時おり記者個別にオフレコ情報が流される。オフレコというのは、取材ソースを明かさないが書いても構わないニュースのことである。記者は、スクープを望み、また逆に自社だけの報じていない「特オチ」を恐れるために、その情報を受け入れてしまう。本来は公的機関の監視のためにある記者クラブが、権力側に操られ、そして加担してしまう構造ができているのである。

北海道警察裏金問題取材

そこで高田さんの北海道新聞社時代の「北海道警察裏金問題取材」について話が及んだ。その問題について、高田さんをデスクとする取材班は、2003年11月から2004年11月まで、1400本の記事を書き続けた。警察の捜査には、国費として「捜査費」、道費として「捜査用報償金」というお金が年に数百億円おりている。それらのお金は本来、捜査で発生した様々な費用にたいするものだ。それを道警はニセの領収を発行して裏金を作っていたのだ。主に捜査協力者に対する礼金のニセ領収書を作っていたらしい。判子は落し物を利用していた。高田さんの見積りでは、130億円の裏金がある計算ではあったが、道警が最終的に認めたのは10億円だった。そのニセ領収書は1年間で30数万枚作られていたから、道警の全署員はなんらかの形で関わっていたと思われるそうだ。

この取材を始めた時「飼い犬に手を咬まれた」とか「北海道新聞は赤旗か」と道警は言っていたらしい。そして警察発表の事件や事故報告をもらえなくなってしまったが、それでも高田さんの取材班は裏金問題のほうが大切だと取材を強引に続けた。「北海道にテロが起きても北海道新聞には一切記事を書かせないぞ」とまで言われたようだが、道警は、次第に北海道新聞に明日載る記事が分からなくなり恐れを感じたのか、2004年、ついに警察は裏金を認めることになった。アジェンダを新聞社が握った数少ない例の一つである。

新聞社の世界では時折、突然変異が起きて、このような取材ができることはあるが、その先に何が起こるかは、未知のことであった。高田さんの取材は対外的には高く評価され、様々な賞までもらったが、社はそれに反比例するように、取材班のメンバーに圧力をかけ始め、警察との関係を元に戻すために2006年にお詫び広告を出した。高田さん自身も事件のことを執筆した本で、名誉毀損で訴えられたり、サブキャップが偽証罪で訴訟されたり、つい先日はキャップが、奥さんとの路上でのトラブルで警察に逮捕されたりしている。「次は僕が何かの罪で逮捕されるのかなぁ」と高田さんは言っていた。

これからのマスメディア

今のマスメディアの状況を変えていくには、メディアが更に没落して、経営者自身が今のシステム自体が良くないことに気付き、大きく方向転換をするか、あるいは既存のメディア以外のメディアが立ち上がりそこに記者が結集するか、あるいは現場の記者が少しずつ変えていくしかないと高田さんは言う。

しかし、高田さん自身は、北海道新聞を退職した後も、再びマスメディアの高知新聞に入社している。まだメディアに絶望したわけではない、だから高知新聞に入社し、日々何か新しいことができないかと考えていると最後に締めくくっていた。

高田さんの話の中で、放射の汚染の問題を新聞社は書いていないという批判に対して、地方の新聞は書いているというくだりがあったが、しかしそれでいいのかという疑問を大いに感じる。オスプレイの問題にしても然りである。確かに少しは書いてはいるが、沖縄の新聞との温度差があまりにも大きすぎると私は感じる。日本の問題として捉えれば、そんな扱いはできないはずである。

それは新聞社自体が抱えている問題もあるかもしれないが、記者個人の問題意識、アジェンダ設定に、弱さがあるのではないかと思う。最近、聞いた話ではあるが、とある市長がある女性記者に対して個人攻撃をした時に、本来なら社をあげてその記者をバックアップすべきことであるにも関わらず、その女性記者を批判した記者が社内にいたと聞いた。なんとも情けなく、ジャーナリズム魂の一欠片も感じられない腹立たしい話である。

兎に角、マスメディアを通じて我々国民が知りたいことを知るのは幻想でしかないとも言いながらも、そのマスメディアにしがみつき、再び突然変異を起こそうとしている高田さんに期待する。

官僚化され自己保身のみが優先される上層部の頭とシステムをはやく解体して欲しいものだ。