「この先はもっといいことがありそうな気がする。自分は二十四歳で、戦後日本は二十歳にも達していない。身の回りのすべてが青春なのだ」と登場人物の一人が語るこの言葉に胸が切なくなる。
高度経済成長期の日本は、おそらくほとんどの人たちはそのような気持ちを抱いていたのではないかと想像する。明日の私は今日より少しはお金持ちだと。
あまりにも急激に成長したために、いろんなものを日本人は見過ごしてきてしまった。戦争の総括、人権問題、環境問題…見て見ぬふりをしたのか、目にも入らなかったのか。もちろん気づいていた人たちもいたのだが、伝え方を間違ったようだった。
多くの人たちは目先にぶらさげられた「お金」に操られてしまったのだ。そしてその恩恵は全ての人に与えられたのではなく、貧富の格差はうめられることなく多くの人柱の犠牲の上で、経済成長はなされてきた。
だから作家奥田英朗が、東北の貧農に生まれた東大生・島崎国男を一人のテロリストとして昭和39年に送り込んだのだ。オリンピックの妨害を盾にして身代金をせしめようとした彼は、私たちの贖罪である。そして今、何の呪縛も解かれていないことに、私たちは気づかねばならない。
国威発揚としてのオリンピック。選手にはなんの罪もない。しかし国家は選手たちのピュアな精神を利用しようとしているのではないか。政府はオリンピックよりもしなければならないことがあるだろ。原発事故の処理は何も終わっていないではないか。いまだ線量が高い日本に、海外の人たちを招いていいのだろうか。オリンピックは目の前にある問題から目をそらせるために使われている。