教誨師

堀川さんの圧倒的な筆力に酔いしれながら「教誨師」を読み終えた。まるで上質な映画を観ているようであった。教誨師としての渡邉普相さんの人生が描かれている。

「死刑」は、同じ人間がするべきものではないだろう。制度として間違っていると思う。死刑囚の中には、拘置所で心から反省をし、人として成長する人もたくさんいるようだ。死刑に値しなくなった人もいることは確かで、この本にも登場する。

また、死刑を執行する側の苦しみが描かれている。死刑の判決を出すのは司法だが、それを執行するのは行政だ。いくら仕事とは言え、死刑に関わり、殺人をしてしまうのは、必ずや精神が破綻してしまうだろう。この本の主人公である教誨師もアルコール依存症になってしまった。しかし、そのことが結果的には死刑囚との垣根を取り除くことになり、死刑囚に励まされながら依存症を克服するという凄まじい展開である。

しかし、簡単に死刑に反対だとも言い切れない自分がいる。もし、身近にいる大切な人が理不尽なかたちで殺されてしまったら、僕は復讐をしたくなると思う。自分の手で殺せないのなら、制度として「死刑」を望むだろう。自分は弱い人間だから。

あえて言えば、素晴らしい教誨師に出会え、心のやすらぎを一瞬でも感じることが出来た死刑囚は幸せだったかもしれない。もしかしたら被害者の家族は、もっと悲惨な心の闇を彷徨っているかもしれないから。

JB&追憶の森

「ジェイソン・ボーン」を観た。確かにおもろかった。たぶん今までの4作品は全部映画館で観てると思う。そのたびに、おもろかったと思うけど、次の作品ができる頃には、どんな内容だったのかもう忘れてしまってる。覚えていたら、もっと面白いだろうに、DVD借りて予習するのは面倒くさい。きっつい炭酸の飲み物飲んだような感じかな。背もたれに持たれず、前のめりになっても疲れない映画であったことは間違いないけど、でも、すぐ忘れるんやろうな、今回も。

家では「追憶の森」を観た。マシュー・マコノヒーと渡辺謙とナオミ・ワッツの3人芝居の映画で、原題は「The Sea of Trees」。青木ヶ原の樹海で彷徨う男二人の話しだ。レビューを見ると、むっちゃ評価が低い。カンヌ映画祭でもブーイングがあったとか。確かに、ツッコミどころがいろいろあるし、僕がもっと若かったら、もしかしたら低評価かもしれないけれど、いまの僕には好きな類だ。痛みを持って生きる切なさに惹かれたのかもしれない。この切なさは、いつまでも覚えていそうだ。

もしも、詩があったら

〜「」アーサー・ビナード〜より引用

「死刑をありがたく思わなきゃ。だって、もし死刑がなかったら、復活祭の楽しい祝日ないはずだよ!」
なるほどイエス・キリストはまさに、磔という名の刑に処さられ、その三日後には「復活した!」弟子たちが言い張って宣伝活動を展開、そこからキリスト教が本格的に始まったわけだ。
(略)
もしイエスが十字架と冤罪に遭遇せずに長生きできたならば、復活祭のみならずキリスト教そのものも、存在しなかったかもしれない。
(略)
イエスの死刑がカギだと気づけば、キリスト教はトラウマがすみずみまにまで染みわたっている宗教に見えてくる。どうして常に罪の意識を信者たちに押しつけるか、それはイエスが無実の罪を着せられて殺されても、弟子たちはただ傍観して彼を守ることができす、その癒えることのない後ろめたさが、みんなの心に残ったからではないか。
イエス本人が骨までの非暴力主義だったというのに、キリスト教が組織的に戦争と大量虐殺に加担してきた矛盾も、少し理解できそうだ。もし教義を心的外傷の塊として読み解いてみれば。