歌うシャイロック

感情を翻弄される快感、芝居ってええなぁ

気がふれてしまっても
父の大切なものを
無くしてしまったことだけを
心の傷に残して
街を彷徨う娘
父と再会しても
もう父とは認識できない
そんな娘を愛おしく
抱きしめるシャイロック

泣かされた

アントニオは憂鬱を抱えている、そんな嘆きから芝居は始まる。
もしかしたらその憂鬱は
パッサーニオへの友情を超えた同性愛からきているのだろうか。

あるいは自分もユダヤの血を引いていることを
隠し続けていることからきているのだろうか。

パッサーニオに無償の愛を捧げ、
そして同胞シャイロックからわが命を奪われることによって、
その憂鬱から解放されることを望んでいたとするのなら、
ポーシャはなんと余計なことをしたのであろう。

そのうえ、心までわかりあえていると思っていたパッサーニオの口から、
ユダヤ人に対する侮蔑の言葉を浴びせられ、
彼への愛も冷めてしまい
さらに憂鬱は増すばかり。

と、反芻しながら眠れない夜の興奮をなだめている。

高利貸しのユダヤ人シャイロックと
在日をだぶらせて描いていた。
シャイロックの心の叫びを聞いた。
気のふれてしまった娘とヴェニスを去る
シャイロックの最後の場面は、
焼肉ドラゴンの最後のシーンを彷彿させた。
全員が純白の衣装に着替えて、
とても美しいエンディングだった。

 

恩師

小学校の時の恩師が、酒の飲み過ぎでぶったおれてケアハウスに入所してしまったので、今日、訪問してきた。なんと、ぶっ倒れる前から2〜3年遡っての記憶が消えてしまったらしい。そして倒れてから5ヶ月半ほど意識を失っていたらしいので、どんなけ酒呑んでたんやという感じだ。さすが我が恩師。僕はそんな不完全な人が好きだ(笑)。でも、この先生には、ものの考え方を教えてもらったように思って感謝している。

「お前らが使ってる電気やけどな、その電気を作ってる発電所ではな、命を削りながら仕事してはるんやぞ。だから大事に電気を使え」と、あのゲバゲバ90分の全盛期、大阪万博の頃に教えてもらった。その意味が50歳を迎える頃に分かったのだから、教育のダイナミズムを実感させられた。

「お前らが履いてる靴下、穴開くやろ。でもな技術的に穴が開かないような靴下は作ることが可能やねん。なんでかわかるか。穴あかんかったら、靴下が売れへんからや」そんな話を昭和40年代に僕らは聞かされていた。

ある日、ゴミ箱に給食のコッペパンが捨てられているのを先生が気づいた。「どアホ!誰じゃ、たべモンを粗末したやつは!!!」と激怒し、捨てたやつがおもいっきりしばかれた。戦中戦後の食べ物がなかった時代に育った先生は、食べ物を粗末にすることが許せなかった。そんなことも、今の僕に染み込んでる。

先生が伝えたかった結晶が僕の身体の中に散りばめられているようだ。教育ってそんなもんやろなと思う。文科省が決めたことをやるだけでは、不完全だと思うし、文科省が決めたことを全部やらなくても教育は成り立つ。その時だけの点数なんて、ほんまに意味のないこと。

さべつ

誰に教わったのかよく分からないけれど「いじめ」とか「さべつ」があかんってことは、本能的な部分で感じ取っているような気がする。あ、でも、いじめやさべつを自分がしたことがないという意味ではない。多分にしてきたと思う。幼い頃は何も考えずに無邪気にしていたかもしれない。でも、心の何処かで、ひっかかるものがあるから、いまだに覚えているのだろう。本来「いじめ」とか「さべつ」はしている側も居心地が悪いものだと思う。それは人としてまっとうに生きてきたらの話。でも、無邪気な時期に、大人が堂々と「いじめ」や「さべつ」する側にたって教育したら、どんな人間ができていくのだろう。そんなことを考えると、血圧があがって、もう吐きそうだ。なんで、こんな世の中になってしまったんやろ。

沈黙

「形だけでいいのじゃ」と踏絵を迫る役人。それを拒み、ムシロで包まれて火に焼かれる信者。踏絵に従っても、十字架にツバを吐けと命じられ、そこまでは出来ずに、波打ち際で十字架に貼り付けられ、殺される信者。司教に棄教させるために、すでに改宗した信者をムシロに包んで海に放りなげたり、逆さ吊りにしたりして殺す為政者。

残酷なシーンも多々あるが、リアリティのある重厚な映像で、人物の描き方もステレオタイプではなく、特に塚田さんが秀逸だった。しかし特定の宗教に帰依していない自分にとっては、根底に流れるものに理解しがたいところがあったように思う。貧困や圧政からの心の救済としての宗教に踏みとどまらない恐怖を感じたからこそ為政者はそこまで迫害をしたのだろうけれど。

「形だけでいいのじゃ」とそこまで為政者は譲歩しているにも関わらず、信者はその形にまで拘る、そこが宗教に価値を置いていない僕には分からず、おそらく為政者と同じ恐怖を僕は味わっているのではないかと思う。何を思っているのか分からない恐さ。でも、逆に言えば、そこは為政者が立ち入ってはならない領域だ。卒業式で君が代を歌わない自由、日の丸に起立しない自由、それが冒されている今の時代にも通じるところがありやなしや。

大阪レ・ミゼラブル

 時は2024年、大阪万博の工事現場である夢洲から芝居は始まる。
 そこには、政治的な芝居をおこなったというような軽微な罪で捕まった人たちがで強制労働をさせられていた。その中の一人が船場仁(ジャン・バルジャン)。船場仁は反抗的なために監督の警官である矢部悦留(ジャベール)になにかと目をつけられていた。ある時、トランプ大統領婦人のイヴァンカが寄付した自由の女神像を一人で運ぶことを命じられるが、力持ちの船場仁はそれをやってのける。
 そして7年がたち船場仁は釈放されるが、7年の強制労働で得たお金はたったの12万円。行くあてもない彼は下寺町にある寺に迷い込む。そこで出会った和尚に粥をご馳走になり寝る場所を与えられるが、夜が明ける前に船場仁は、高価なお椀を持って逃げる。しかし、アルソック(民営警察)に捕まってしまい、寺に連れ戻されるが、和尚は、そのお椀はあげたもので、金の燭台も持っていきなさいと言われる。
 そこから再び数年。船場仁は、役所へのサイバーテロを利用して名前を「円浩史(まどかひろふみ)」と名前を変えて、たこ焼きの会社の社長として成功していた。そして中央区の区長にも就任していたが、ある時、道頓堀にあるかに道楽の看板が通行人の上に落ちる事故が発生した。区長として現場に駆けつけて、大きな看板を一人で持ち上げてその人を助ける。それを近くで見ていた矢部刑事は、円浩史が船場仁であることを確信する。そこから矢部刑事は、戸籍偽造罪の罪で船場仁を執拗に追うこととなる。
 一方、たこ焼き会社に勤務していたサキエ(フォンテーヌ)という女性が、子どもがいることを隠して就職していたことを、同僚から工場長に告げ口され解雇されていた。身体の弱いサキエには、知り合いに預けた一人娘の梢(コゼット)がいたが、自分の生活さえできなくなり、女郎町に迷い込んでしまった時に、通りがかりの男にレイプされてしまう。それを矢部刑事が見咎め、売春の罪で連れて行こうとしたところに、船場仁が現れ、力づくでサキエを連れ去っていくが、病気で弱ってしまったサキエを受け入れてくれる病院を見つけることができず、下寺にある寺に厄介になることになる。しかし20日たっても彼女の病状は良くなることはなく、天下茶屋のホルモン屋の寺田(テナルディエ)に預けている娘の梢を通れてきてほしいと船場にお願いをする…。
 ってな感じで、物語が進んでいく。完全にレ・ミゼラブルのパロディで、脱力しながらもなぜかじんわり感動するし、何よりも群像劇が楽しく心踊らされる。歌あり踊りあり殺陣ありで、歌は演歌にラップにバラードからクラッシク風に荘厳な主題歌までバラエティに富んでいる。
 そして、何よりも社会風刺だ。橋桁のぼるという、以前大阪府知事や市長を務めた男が、総理大臣になってしまった世界を描いている。万博がおこなわれ、カジノができ、貧富の差が激しくなって、病院などの公的なものは機能しなくなり、憲法は変えられてしまい、軍隊が民衆に牙をむく、そんな時代設定だ。
 脚本を書かれた岩崎正裕さんは「果たして私たちはこの劇を笑い飛ばせるだろうか。」と言っている。
 ただ「笑う」のではない、「笑い飛ばす」とはどういうことなのか。ただ「笑う」だけなら吉本新喜劇を見ていればいい。僕も大好きだし、そんな時間も大切だ。でも、「笑い飛ばす」の「飛ばす」には、その核に「怒り」や「哀しみ」があるのだ。この浮世の不条理に対する怒りや哀しみを吹き飛ばして、それを生きるエネルギーに変えてくれるのが、今日のような芝居なのだ。だから「私たちはこの劇を」おおいに「笑い飛ば」したし、自分もそんな表現者の一人に思わずなりたいと思ってしまったくらいだ。