東京裁判でA級戦犯として処刑された人たちの中に、一人だけ軍人ではない人がいた。広田弘毅第32代内閣総理大臣だ。
彼は正真正銘の平民宰相である。本当は貴族の出身であるにも関わらず平民宰相と言われた原敬とはまったく違う。彼は石屋の息子で、石に名を刻ませるために習わせた習字が元で、人と人の繋がりの中で総理大臣へとなっていった人である。
外務大臣時代は協和外交に心血を注ぎ、「在任中に戦争は起こさないと確信する」と議会で発言したほどである。その姿勢は諸外国からは評価され、軍部に対し、微に入り細に入り変幻自在に対応しながら、暴走に歯止めをかけてきた。
そして二・二六事件で総辞職した岡田内閣のあとを受け、当初、近衛文麿が推薦されたが本人は拒んだために、広田が引き受けることになった。
しかし、天皇から歴代総理に与えられる三か条の注意(憲法遵守、無用の摩擦なき外交、急激な変動なき財界)の他に「名門を崩すことのないように」が付け加えられた。この時、広田は自分が生まれたのは五〇年早かったと言ったそうだ。
そして二・二六事件に対しては軍部に毅然とした処分を下し、また退役軍人の影響を排除するために、「軍部大臣現役武官制」を復活させた。これが逆に軍部の暴走をさらに堅固なものにさせてしまい、これが後の東京裁判で裁かれることになる。
広田が総理の座から去った後のことを、「少しだけ、無理をして生きる」城山三郎著から抜粋する。
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広田は、静子夫人が少し体が弱かったこともあって、鵠沼に小さな家を建てましたが、近くに小田急の線路があってうるさいので、ほかのところへ移ろうと土地を探していました。すると、「総理に買ってもらえるなら」と土地を安く提供してくる人たちが出てくる。広田は調べて、少しでも安いと、すぐに断ってしまう。金銭にきれいなんです。今の政治家は、逆のことをやって土地を買っていますけどね。広田は息子たちに「政治家が土地を買う時は、よほど注意しなくちゃいかん。安かったら絶対に買っちゃいかん。」と言っています。
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その後も、探し当てた土地に水道がないと、今度は市長が水道を引くと言い出して、結局そこも諦め、どこにも引っ越しをしなかったそうだ。そんな清廉潔白な人だ。
「自ら計らわず」を信条に生きてきた広田は、裁判にかけられた時も、自らが発言すると誰かが不利になるという思いで、一切反論もしなかったという。これは天皇を守り、戦後の日本の出発を一心に引き受けたということだ。裁判の審議がすべて終わった時、静子夫人は青酸カリを飲んで自殺をする。巣鴨にいる広田がその報を聞いても顔色も変えずに、ただ「うん」と言っただけ。しかし、その後、自宅へ書き送る手紙は、すべて静子夫人宛だったそうだ。
こんな政治家がいたということを、あの人たちは知っているのだろうか?もう人としての「恥ずかしさ」も忘れてしまっているのだろうか?