「海と日傘」

先日、西宮でこの芝居を観た。脚本は岸田国士戯曲賞を受賞している名作だ。原爆病に冒された妻と売れない作家の夫との生活を縁側がある民家を舞台に描かれた長崎弁の芝居だ。脚本を読んで感動をしたので、とても期待していた。

妻が帰宅する場面から始まるのであるが、とても違和感を感じた。何故ならまったく病弱に見えなかったからである。観ているうちに、少しは病的には見えてはきたが…。

それから長崎弁。僕は大阪人なのでよく分からないが、時折、あれ?関西弁のイントネーション?って感じるところがあった。方言ってむずかしいね。大阪人が大阪弁をわざわざ文字にしたら、普段使わないような大阪弁になったりするし。

気になったのはセットだ。なぜ襖や障子を舞台の左右に斜めに貼り付けたのだろう。竹も舞台を囲むように張り巡らしているのは、いったい何を表現しようとしていたんだろう。とても不安定な気持ちにさせるセットだと思った。


それから観客のマナーの悪さ。携帯が鳴ったり、アメが入っている缶なんだろうか、それを始終開けたり閉めたりする音が聞こえていた。やはり芝居が始まる前に、なんらかの注意が必要だったんではないだろうか。年配の観客が多かったわりには、残念だった。


ってことで、マイナスな感想ばかりを書いてしまった。名作だけに…

つぐない

「劇団あおきりみかん」は名古屋で超人気の劇団らしく、ここの芝居を観て、演劇を始める若い人たちが多いのだそうだ。

芝居は、「罪悪感」を感じたことがない女性と「罪悪感」を捨て去りたい男性との会話が中心となって、軽妙に笑いをとりながら、時にはサスペンス風にも、法廷劇にもなりながら、すすめられていく。

たったひとつの罪悪感を消す為に、すべての罪悪感を消す、そんなことって、あるのかな。考えさせられた。そして、遠い記憶の底に沈めてるおのれの罪悪感がぽこぽこ浮かんできてしまい、今後、これをどう処理していこうかと、考えさせられている…。

『贋作ミスワカナ』

—–引用——
戦意高揚?何ですの…え?あたしらが結果的に戦争に協力してた言わはるのかいな。何言うてはりますの。そりゃ、吉本はんがどんな心づもりでお国の方と話して「わらわし隊」こしらえたのかは知りまへん。そやけど、行った人たちの中で一人だって、戦争に協力しようと思うて行った人おまへん…それは確か二回目の時は言われましたけどな、兵隊さん頑張れるような話をせなあかんって。そやけどみなさん、今、お国のために戦ってる最中の兵隊さんや。あたしらの話聞いて、笑うて、次の日戦って死んでった人もおます…それが戦争協力や、言わはるんですか?そやったらあんた方新聞はどうなるん?まるで戦争に行くのが正しいみたいに言うてたおたくらは、どうなんですか…
—–引用終わり—–

他にもええ台詞、いっぱいありました。
しかし、脚本をよう読むと、本にないことも仰山言うてはりました。特に、戦意高揚の漫才を無理強いされてする場面など、圧巻でした。機会があれば、また観たい芝居です!

「再演版:僕のヘビ母さん」

題名からはとても想像できなくて、いい意味で裏切られた作品だった。青年の孤独と狂気を叫ぶ、幻想的で不条理な四畳半劇。

母さんのために、虫やカエルやヘビを育て、ねすみをトリモチで捕獲する青年。とても妖艶なお母さんだったり宇宙人のようなお母さんだったりするが、本当にお母さんは存在したんだろうか?意味のないことをさも意味ありげにとらえる人間を揶揄するために、さも意味がないように取り繕いながら実は深いものが滔々と流れる芝居だったのかもしれない。ひとつひとつの台詞は何か意味ありげで、それがなんであるかわからないもどかしさが、ちりちりと脳裏に焼き付けられた。

 長屋の小さな木造民家の二階の4畳半で演じられた。私たち観客は隣の六畳ほどの部屋で息を潜めながら観ていた。小さな物音さえたてるのも躊躇われ、まるで幽体離脱したあとの浮遊した肉体で観劇していたようである。こんな体験、初めてだった。

ハンアリ

劇団Mayの「ハンアリ」観てきました。京都にある「高麗美術館」を設立した鄭詔文( チョン ジョムン)さんの物語でした。LINK先の新聞記事には書かれていませんが、ジョムンさんの子ども時代の描写は圧巻でした。特高警察に三年間も家の前で見張られながらも、やがて刑事とジョムンさんたちとの交流が芽生えてくるところも、ぐっときたところでした。

そして劇とは関係ないですが、以前劇団Mayが公演した「チャンソ」という芝居の脚本が販売されていました。思わず購入しました。この芝居もむちゃくや面白かったのを覚えています。京都の朝鮮高校を舞台にした青春劇で、パッチギよりも数段素晴らしい作品でした。

 

粛々と運針

昨日「粛々と運針」という芝居を観た。三組のペアが織りなす会話劇だった。

ひと組は新築の一軒家に住む30代後半の夫婦。子どもは作らないという約束で結婚した二人だが、妊娠したかもしれないという妻の言葉をきっかけに、揺れ動く二人の気持ち。課長代理から課長に昇進するつもりの仕事一筋の妻。デザイナーブランドの家具が揃った家に子どものいる余地はないという妻。それに反して父性が目覚める夫。父になることによって自分が何者かになれるのではないかと…。

二組目は、30代後半の男兄弟二人。癌を宣告された母に対して、尊厳死を認めるかどうかについて語り合われていく。兄は長年、コンビニでアルバイトしながら母と暮らしてきた。弟は会社に就職し結婚もしているが、とある事情で子どもはいない。父は7年前に亡くなっている。母の意志を尊重したいという弟と、治療すれば長生きするかもしれないという兄。自分のためだけに生きていて欲しいというのは甘えだという弟。

三組目は、布を縫っている年配の女性と子どものような女性。二組の会話の間に、登場する。どうも年配の女性は男兄弟の母のようであり、若い方はこれから生まれてくる赤ちゃんのようだ。二組の会話に「どうしたらいいの」とか「ちゃんと伝えたから分かってくれるよね」と揺れ動く二人の女性。

ばらばらだった三組の会話が次第に重なり、なぜか空間を超えて会話が成立していく。鳥肌がたった瞬間だ。二つの命に対して、6人で紡ぎだされてゆく言葉の数々。

今は、子どもを産む病院を探すところから苦労する時代。特に若い世代は安定した仕事につくことも難しく、産んでしまっても食べていくことは厳しい。また高齢者の数も加速的に増えていて、介護やらターミナルケアの問題は山積状態で、おそらくどの家庭でも様々な選択をいつかは迫られる時代になった。

「命」って誰のためにあるんだろう。本来はそれぞれの個々のものであるんだろうけれど、自分と他者との繋がりの中で、語られてゆく。そんな中で生かされたり殺されたり大事にされたり粗末にされたり。そんなことを考えさせられるとても上質な芝居だったと思う。

「西海渡花香」

僕はシェイクスピアなど、まともに向き合ったことがなかったので、後学のために観ようと思って行ったら、まさかシェイクスピアの劇が、日本と韓国の竹島をめぐる領土問題を思い起こさせるような話を絡ませていたとは!原作は喜劇「恋の骨折り損」で、4組の男女の恋の駆け引きの話らしい。もちろん、この芝居も、恋の駆け引きが面白おかしく描かれてはいたけれど、2つの国の王たちの、戦争を回避するための努力や苦悩が描かれていたと思う。

このような台詞もいたるところに散りばめられていた。
「お役人様、私は頭が悪いので教えてほしゅうございます。戦争で人を殺すのと、戦争でない時に町で人を殺すのと、どう違うのですか?」「ばかもの!戦争で人を殺すのは国を守るためなのだ。一緒にするな!」「お役人様。人を殺した場合、それを命じた人も罰せられますよね」「当たり前だ、ばかやろう」「では、お役人様、戦争で人を殺した場合、それを命じた王様は罰せられないのですか」「ばかやろう、それとこれを一緒にするなと言ったではないか」「私は頭が悪くてその違いがわからないのでございます」

 パンフレットの最後に翻案者の喜志哲雄さんがこんなふうに書かれていた。
「成功が保証されていない事業に努力を傾ける時、人間は崇高な存在となるのである」

かえるでんち

三十路男の郷愁は困ったもんだ。まだ生々しさがいくらか残った哀愁がある。初恋談義などしようとしても六十も近くなれば、好きになった女の子名前さえ忘れてしまうのだけれど。
「かえるでんち」には、そんな三十路の男が集まって、中学校時代のマドンナの話で盛り上がる。彼らは、当時、3K(汚い、臭い、気色悪い)と呼ばれた生物研究会に属していた、今で言えば「オタク」のような存在だった。主人公のケロッグ(朝ごはんにケロッグを食べていたことからついた渾名)、ゲーリー(たぶん学校でちびったためにつけられた渾名)、マンゲ(理由は不明)の3人組だ。その彼らが文化祭でマドンナに聞かせるためにバンドを組んだのだけれど、直前に転校してしまった思い出などを語りあう。もう幾度と繰り返してきた話なんだろう。
ケロッグは最近離婚したばかりだが、純子と不倫をしている。しかし、その関係も今や危うい。そしてゲーリーも離婚しようとしている。それは、ケロッグへの思いに気がついたそうだからだ。
そして、ケロッグの元妻も不倫相手も、ゲーリーの妻も、みんな同じパン教室に通っている。そこへ、マドンナが戻ってくるということに。
簡単に言えばそんな話だ。時間軸が行ったり来たりしながら展開されていく。その上、謎の病気「イヌ風邪」にみんな冒されていく。
演出をされた岩崎さんは、深津作品には大きな?を昔はつけていたそうな。それを今回は読み解いてみれば、鮮明にそれぞれの孤独が浮かび上がってきたと、挨拶文に書かれていた。
確かにそう言われればそうかもしれないが、素人の僕には分かりづらかった。だって、最後は、パンを捏ねていたおばさんたちが、「あ、マドンナ」の一言で、一斉に客席の上のほうを見て、終わるんだもん。唐突。何も終わっていない。何もまとまってない。もしかしたら、何も始まっていなかったかも。まるで、痔の手術で、患部を切りっぱなしで終わったような。そう言えば、最初に出てきた元妻と友人の女性は、死んでしまった幽霊として登場してきたのではなかったの?僕の台詞の聞き違い?「さ、帰ろうか?でも、どこに帰るというの?」って確かに言ったよね。あ、「かえるでんち」の「かえる」は、その「帰る」?ということは、「でんち」って?え?「ちゃんちゃんこ」の京ことば?深津さんは京都だから、やっぱし、ちゃんちゃんこって意味?じゃ、「ちゃんちゃんこ帰る」って意味か?「父帰る」みたいな?でも、どういうことやねん。「マドンナ帰る」やったらわかるけど。ああ、結局なんもわからん。みんなイヌ風邪で死んでまえ〜〜。