紙屋町さくらホテル

 「紙屋町さくらホテル」は、井上ひさしが、1997年に新国立劇場の杮落としのために書き上げた作品だ。井上ひさしの新作は、なかなか台本が仕上がらないのが有名で、この芝居でも、抜擢された大物俳優たちが数人、辞退したほどだった。案の定、上演2週間前でやっと最後のページが仕上がったそうだ。
 井上ひさしが選んだ人物は「丸山定夫」という新劇の団十郎と呼ばれた、大正から戦時中にかけて映画や舞台で大活躍をしていた役者だ。丸山定夫は、「築地小劇場」という劇場で花開いた役者であった。
 「築地小劇場」は、関東大震災(1923)の後、土方与志伯爵が私財を投げ打って建てた、日本初の新劇専門の劇場で、新劇運動の拠点となったが、東京大空襲(1945)で焼失した。築地小劇場が完成した翌年(1925)に治安維持法施行、その3年後には特高警察が全国に設置され、脚本の検閲も厳しくなっていった。役者や演出家たちは、時には留置場に勾留されたりもしながら、それでも芝居を続けていった。
 築地小劇場の演出家の八田元夫が1933年2月に数日勾留されたことがあったのだが、開放された翌日に、同じ警察で小林多喜二が拷問死させらている。八田が勾留された時に、たまたま法務官が警察署にいたから、拷問されなかったのだろうと後述している。
 しかし、1941年、大政翼賛会の中に日本移動演劇連盟というのが設置され、演劇人たちはプロパガンダのために、強制的に地方巡業の演劇隊に組み入れられてしまった。その中の一つが、丸山定夫を中心とする「桜隊」であった。
 井上ひさしは、その「桜隊」を、ひらがなで「さくら隊」と称し、実在の人物と、井上ひさしが創造した人物を織り交ぜて、「紙屋町さくらホテル」を作り上げた。実在の人物は、丸山定夫、園井恵子、長谷川清の三人だ。園井恵子は元宝塚の女優で、映画「無法松の一生」に出演して全国区のスターだった。長谷川清は元海軍大将で、実際に天皇の密使であったが、現実には桜隊との接点はなかっただろうと思う。また、桜隊が最後に取り組んでいた芝居は「無法松の一生」ではなく、三好十郎の「獅子」という戯曲だった。「桜隊」がいた場所も紙屋町ではなく、堀川町で、そこは爆心地から数百メートルの場所にあったため、当時そこにいた9人の役者たちは8月下旬までに全員死亡した。
 苦難の道を歩みながらも演劇に取り組んできた人たちを讃え、演劇の素晴らしさを高らかに謳っているのが、この芝居の真骨頂だ。そんな台詞を書いてみる。
「俳優はこの世に生をうけたありとあらゆる人間を創り出すことができるんです」
「人間の中でも宝石のような人たちが俳優になるんです」
「なぜならこころが宝石のようにきれいで、ピカピカに輝いている者でないかぎり、すなおに人のこころの中に入って行って、その人そのものにになりきることができないからです」
「ほんの数分間のうちに、突然、「ああ、いま、わたしは自分の人生の本当の意味を知っている」と、そう思い当たるときって、ありますね」
「わたしはいま、一人ではできないことをしている、一人の人間の力をはるかに超えたなにか大きなもの、なにか豊かなもの、なにかたのしいもの、それを望んで、それをたしかに手に入れている。わたしの探していたものはこれ、ここにわたしの人生の本当の意味がある」
 戦争というものは、もしかしたらブラックホールだ。そこにあった確かなものを容赦なく飲み込んで、虚無にしてしまう。儚くて悔ししい。
 でも国策に翻弄されながらも、キラキラ輝きながら生きた丸山定夫や園井恵子たちを、井上ひさしがパラレルワールドの中に息を吹き返させた。そして今回、その世界を「演劇集団よろずや」が大阪に、再び蘇らせてくれた。そうやって僕は過去と繋がっていきたい、繋がってるなんて勝手な思い込みかもしれないけれど。無念にも消されてしまった彼らの思いの片鱗の、さらにその一部でも良いから感じてみたいのだ。
 僕は思うのだが、1940年台の膿を、日本人は出しきらないといけないと思う。出して出して出し切った頃にやっと、何かが見えるような気がする。
 戯曲を読むだけでは感じなかったこと、それは熊田正子の存在感やら、戸倉八郎のキュートさ。もちろん、どの人物もキャラがくっきりたっていたけれど、熊田さんに関しては、どっから見ても広島人にしか見えなかった。もちろん、大島教授のN音についての話からの教え子の特攻隊の話には、思わず泣いてしまったし、園井恵子の少しコミカルなところも面白かった。ああ、芝居っていいな。