「話し方教室」に通う様々な背景を持った生徒たちと先生。それぞれの悩みの元になる「モノを言うこと」の不自由さ。単なる発声練習だけでは解決はできない。お互いに傷つかないためにも、演じながら距離をとらなければならないのか。
こんな台詞があった。
「鳥の雛っているやないですか。木の上の巣の中に。あ、鳥じゃなくてもいいんか、動物の子供。何匹か兄弟がおるでしょ?あれ、いっぱい鳴いて親に餌もらうんですよね。鳴かないでおとなしくしてたら、死んでしまう。動物は声を出さないと死んでしまう。人は余計な事を言うと生きていかれへん。不思議やと思いませんか?」
伊藤計劃の「虐殺器官」を思い出した。
その小説のなかで「ことば」は「腎臓や腸や、腕や眼と同じような意味での『器官』」のひとつだということが書かれている。「ことば」は「人間が生存適応の過程で獲得した進化の産物」であり、それによって、情報を個体間で交換して、いろいろな危険を避けられるようになった」と。
だから人間は大きな声をあげなくても、情報を交換することに酔って、生きていける?
だがしかし、こうも書かれている。
「自分自身の『器官』によって滅びた生物もいるじゃないか。長い牙によって滅びた、サーベルタイガーのように。」
そう言えば、いま現実に、その言葉の応酬で世界は危機にさらされている。愚かなリーダーを選んだ所為で…。でも、その危機感が高まることで、金儲けをしている連中もいる。
なんだか訳が分からなくなってきた。
一言で言えば、「ことば」ってすごい。
ってことか…。