核・ヒバク・人間

 
大阪女優の会公演の「核・ヒバク・人間」を観てきた。朗読劇であるにも関わらず、最後まで緊張感を持ったまま惹き込まれたのは初めてだ。何度も胸がいっぱいになり涙が溢れそうになってしまった。物語は3.11のフクシマから始まり、原子力の抱える多くの問題が、様々な時や場所や人を変えて語られていく。

「東京で、原発反対の人たちの言葉を聞いていると、どうしようもない距離を感じてしまうときがあるのです。車の事故に例えて言うなら、今、事故が起こって、目の前に血を流して苦しんでいる人がいる。なのに、やっぱりこの道は安全じゃなかった、もっと道路を広くするべきだった、いや、車そのものをなくすべきだ、東京の人たちがそんな話をしている。でも、今、福島は、血を流して倒れているの。車をなくすかどうかよりも先に、今、倒れている人を助けて。私の故郷、福島を助けて。」

印象に残った台詞だ。もちろん、このような視点でのみ書かれた脚本ではないが、つい忘れがちな立ち位置で、自分自身、はっとした部分であったので敢えて書いてみた。

しかし、この芝居を観ていて、今に始まったことではないけれど、今の世に対する腹立たしさとか悲しみが沸々と湧いてきた。この世界は「差別構造」で成り立ってしまっているということを、再確認させられた。戦争然り、原子力然り、基地問題然り、経済然り。

第一、この国の根本が「差別」そのものだ。敗戦時、本来は処刑されるべき軍の最高司令官は、アメリカの思惑とも重なって、戦争責任も問われることなく、象徴になってしまった。そして皇室という身分が残ってしまった。人の上に人を残したままなのである。そして現代も「陛下」などという尊称が堂々と使われている有様だ。この基本的構造が「差別」である限り、「差別をなくそう」だとか「いじめをなくそう」などと言っても白々しく思えてくる。

ワタミの社長は、いじめを無くすためには、いじめが発生した学級の担任の給料を下げればいいと言っている。徹底的な競争原理を取り入れれば、いじめはなくなるそうだ。従業員を自殺に追い込むほど競争させる社長だから言える言葉だろうか。橋下とまったく同類だ。彼の元でも数人自殺している。

その象徴が、近隣諸国におこなった数々の蛮行に対する謝罪をきっちりとしてこなかったことが、いくらアメリカの企みだとは言え、その事が今も消えない火種となって燻っている。いじめ問題で大人たちは、「いじめられているほうが、いじめだと感じたらそれはいじめだ」とよく言う。ならば国と国の関係も同じで、「いじめ」の証拠消しを一方的にはかるなんてどうかと思う。

差別はお金を生むのか、お金が発生するところに差別が生まれるのか。

原発の立地条件は、過疎であること、それは大事故が起きた時に賠償総額が少なくて済むからだ。だから電気をたくさん使う都会に建設されることはない。原発はコンピュータだけで動くものではなく、原子炉の近くで手作業を人間がしなければならない。安全な場所でコンピュータを操作するのは本社の社員で、放射能を確実に浴びて作業をするのは、下請けの作業員たちである。原材料のウランがある場所というのは、なぜかそれぞれの国の原住民が住んでいる地域が多い。そして発掘作業にはそんな原住民の人たちがよく使われる。これから日本が原発を建設しようとしているベトナムの村は、日本の原発の事故の情報など手に入れることもできないような場所で、立ち退きをさせられても、危険性がわからないので、村の人たちは建設予定場所の隣に移動するだけだと聞く。ベトナムで出た廃棄物はモンゴルにいくという。

そうやって電気を使う人たちはいつも安全な場所にいて、そうじゃない人はいつも被曝していく。

戦争だってそうだ。戦争をしたい人たちはいつも安全な場所にいてお金を儲けて、そうじゃない人は上手に洗脳され、あるいはわずかばかりの給与のために戦地に赴き、そこで女、子どもを真っ先に殺し、そして自分も傷つきあるいは殺されていく。基地だってそうだ。安全な場所にいるものたちは、安全保障上必要だと宣う。経済だって、現場で汗を流して作っている人のもとには、わずかばかりのお金しか残らず、どこかでコンピュータでモノを動かしている人のもとにお金は集まっていく。

命が簡単にお金に変えられていく時代になってしまった。もう人類は破滅の道に向かって進んでいるとしか思えないのだ。でも、そんな時代になっても、今日のような芝居が上演されることに、僕は感動を覚える。同じ価値観を分かち合える人がまだいることに、少しだけ勇気がわくのだ。そして僕も、何かできれば、と思う。