「いま、大阪の文化を考える」鷲田清一さん

10月6日(土)、大阪自由大学主催「いま、大阪の文化を考える」連続講座の鷲田清一さんの講演会に参加してきた。三連休の初日の昼間に、こんな場所に集まるみなさんは、切ない方々でしょうかという鷲田さんの冗談を聞いて、ほんとにそうかもしれないと頭をかすめた。そしていきなり壊れてしまったマイクを握りながら、鷲田さんは「Liberal」という単語の意味から話を始めた。

「Liberal」を辞書で調べると、1番目に出てくるのは「気前の良い」、2番めは「寛大な」、3番目は「豊富な」であって、よく使われる「自由な、自由主義の」という意味は4番目に出てくるそうだ。

そして、かつての大阪(大坂)はリベラルであったと。それは本当に大切なことはお上に任せるのではなく、市民がやる「自治」都市であったということと、財力のある人たちは、その為には惜しみなく寄付をしてきたという「気前のよい」市民文化があったということだ。しかし大阪万博以降、その都市文化やスピリットはぐちゃぐちゃになっている。

かつて市民力があった時、学ぼうとする力が強かった。昭和初期、帝国大学は、東京、京都、東北、九州、北海道とそれぞれの地方(中国、四国には何故かない)で一校ずつあったのだが、大阪の民間人は関西に二つ目の帝国大学設立を強く望んだ。国家にはなかなか認めてもらえなかったが、民間が校舎などを寄付することによって、最早国立というよりも私立に近い形でスタートされた。

そしてその阪大の源流となるのは、大坂商人たちが設立した学問所の懐徳堂と緒方洪庵が開設した適塾であり、それぞれ文学部と医学部に受け継がれている。

懐徳堂が設立された時代の背景には、元禄バブルが弾け、諸藩の経営が破綻しかけていたということがあった。その時に大阪の商人は「教育」を残そうとしたのだ。

当時、江戸の人々は過半数が武士であったが、大坂は人口30~40万人中1万人しか武士は暮らしていなかった。その代わりに、天下の台所である大坂には、全国の藩から優秀な事務方がたくさん派遣されており、また教養のある隠れ浪人なども住みついていたので、そのような人たちと交流するためには、大坂商人にも高い教養を持つことが要求された。当時の日本の財政を知り尽くしていたのは大坂商人であったのだ。だから、本物の教育を求めて、懐徳堂が設立された。

懐徳堂の運営方法も画期的で、現在の財団法人と同じ方法がとられていた。また平等に生徒を受け入れた。財力のある人からはそれなりの学費をとり、お金のない人には半紙一枚でも学費として認めた。学習内容は、実学は一切なく、人の道を説く中国の古典と、ものの道理を学ぶ天文学を学んだそうだ。

大阪の文化的教養が高かった証左として、日本で最初にシェイクスピアが上演されたのは大阪であり、またジャーナリズム(朝日、毎日、サンケイなど)が生まれたのも大阪である。

一方、懐徳堂から1世紀遅れて出来た「適塾」は、武士の学校であり蘭学を学びに全国から生徒が集った。卒業生の半分は医者になったが、後の半分は、陸軍創設者の大村益次郎、日本赤十字社創設の佐野常民、慶應義塾大学創設の福澤諭吉など、医学とは関係のないところで、才能を発揮した。塾長の緒方洪庵は晩年、江戸の西洋学問所に抜擢されたが、西洋学問所は、東大医学部の源流でもある。

このように、大阪の学問は燦然と輝いていた。適塾の教育がなぜ多くのリーダーを輩出することができたのか。それは、何を学ぶということではなく、ひとつのことをとことん学ぶという経験が、何事に対しても有効で、どんなことでも出来るようになるにではないかと鷲田さんはおっしゃっていた。

江戸の学問は、例えば翻訳をする力をつけて出世をするというように、何かの為の学問になっていた。しかし、大坂では学問が出来ても尊敬されるわけでも、出世するわけでもない。何かの為にしているのではなく、こんなに難しい学問を、こんなに必死(福沢諭吉は24時間勉強をして布団で寝たことがなかった)に、こんな悪い環境(100人に一冊の辞書しかない)で、こんなにしんどいことをしている奴は、日本には俺以外いないと言うさして意味のない、目的のないのが大坂の学問であった。純粋に学問に向かうことができたのである。

大阪人は、本当に大事なことは自分たちでやってきた。それは教育であったり、橋造りであったり、中公会堂、図書館、病院、大学、動物園など、民間人は惜しみなく寄付をして作ってきた。その精神は規模は小さくなったが、大阪城天守閣の再建、繁昌亭、大川の桜並木などに今でも受け継がれている。

福沢諭吉は、何度も政府の高官職を持ちかけられたが断り続け、一民間人として過ごしたのは、そこに「大事なことは民間でやれ」という「私立」思想がある。「国民たるものは、主客の二人前となれ」と福沢諭吉は説く。それは、平時の時は、国民は「客」であってもいいが、政治が劣化した時は「主」に戻れということなのである。政府がやることを、有難いと思うような「客」になるなということであるが、今の日本の国民は完璧な「客」となってしまっている。

生き物として人間がやらなければならないことを、国力を高めるために国は様々なシステムを作り、国民は生産力を高めることだけに集中すれば良くなった。そのお陰で、世界一のスピードで長寿化を成し遂げ、工業製品のクオリティも世界一となり、停電はない、電車は時刻表通りで、そして安全な生活を手に入れた。

しかし、近代化以前に地域社会でやっていたことが何も出来なくなってしまった。昔のむら社会は地域で力をあわせてやることが10個あった。成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行、葬式、火事の消火である。村八分という言葉は、どんなに絶交していても、葬式と火事の消火だけは手伝うという意味である。しかし、現代の日本はその二分でさえ地域社会ですることがなくなった。そして、そんなテクニックも失ってしまった。あらゆることをお金で買うことになってしまっている。

成熟した市民は、行政が劣化した時に、自分たちで引き取ることが出来たし、対案を示すことも出来た。しかし今は、クレイマーにしかなれない。ヨーロッパ社会は今も不便である。それは全てを行政とサービス企業に委ねていないからで、大事なことは地域の共同作業でやるということを残しているからだ。例えば、日本でのホスピスは病院で終末を迎えることが多いが、ドイツでのホスピスの目標は、終末は家に帰すことであり、それがプロフェッショナルの仕事となっている。医師が往診をして家庭と連携をとりながら、自宅で最期を看取るそういうシステムが出来ている。

私たちは選挙で選んだらあとはお任せという「お任せ政治」の極みまでいってしまっている。それでうまくいかなかったらまた選挙を繰り返していくのが、政治家も市民も当たり前のようにやっている。それを福沢諭吉は、国民は主客二人前の役を果たさないで、客だけになってしまっていると言っている。大阪の行政は、集客都市にしたいと言う言葉を使うが、私たちはお金を落とすだけの客ではなく「主」である。

大阪は、大事なことは自分たちでする「自治」という自由主義的な街である。また、大事なものには惜しみなくお金を使う、恐ろしいほどの気前の良い寄付文化を持っている。大阪人はがめついとかケチというイメージが作られているが、そうではなく無駄金は一切使わない徹底的な合理主義者なのである。

大阪は、リバティ(自由主義)とリベラリティ(気前の良さ)の二重の意味でリベラルな街であったという原点を思い出したい。大阪市のマークは澪標である。澪標は船が砂地に引っかからないように川の深いところを示すマークである。目に見えている表面的な事には惑わされないで、深いところをきっちり選んで船を進めていく、そういう街にするという高い志で選ばれた「澪標」であることを心に留めたい。