ロヒンジャ問題

先日(10/7)、日本ビルマ救援センターの報告会があり、ジャーナリストの宇田有三さん、BRCJ代表の中尾惠子さんがお話をされた。ロヒンジャ問題は何度聞いても難しい。だから忘れないようにと、自分のために記録しておこうと思う。報告会で聞いたものと、色んなサイト(Wikipedia、HRW、etc)から引っ張ってきたものを織り交ぜながらまとめてみた。

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ロヒンジャ(ビルマ読み:ロヒンジャ、英語読み:ロヒンギャ)とは、ミャンマーのヤカイン州とバングラデシュのチッタゴン管区に跨って暮らすベンガル系ムスリム集団である。ロヒンジャは、ミャンマーにおいてはイスラム教徒であるため支配集団の仏教徒ビルマ族から弾圧され、バングラデシュにおいても不法滞在者として冷遇されているため、周辺諸国への難民化が顕著である。なお、ロヒンギャのエスニシティ(民族性。ある民族に固有の性質や特徴)を巡る問題は、今も学界で議論中。

居住

ロヒンギャの居住地域は、ミャンマー連邦共和国西部にあるヤカイン州のブティーダウンマウンドーの両市と、バングラデシュ人民共和国東部にあるチッタゴン管区コックスバザール周辺のマユ国境一帯にある。かつて、ロヒンギャは東インド(現在のバングラデシュ)に住んでいたが、ミャンマー西部に存在したアラカン王国に従者や傭兵として雇われたり、また商人としてもとビルマの間を頻繁に往来していたため、その後ビルマ国境に定住したイスラム教徒がロヒンギャの祖先とされる。バングラデシュへ難民化したり、ミャンマーへ再帰還したりしたため、現在では居住地域が両国を跨っている。

生業

主に農業で生計を営むが、商人としての交易活動も盛んである。

人口
ミャンマーにおけるロヒンギャの人口規模は70万~120万人と推計されるが、政府当局の統計が怪しいため正確な数値は不明である。

歴史

アラカン王国を形成していた人々が代々継承してきた農地が、英国の植民地政策のひとつである「ザミーンダール制度(※1)」で奪われ、チッタゴンからのベンガル(※2)系イスラム教徒の労働移民にあてがわれた。この頃より、仏教徒対イスラム教徒という対立構造が、この国境地帯で熟成していったと説明している。

日本軍の進軍によって英領行政が破綻すると、失地回復したアラカン人はミャンマー軍に協力し(※3)、ロヒンギャの迫害と追放を開始した。

(※3)【対立構図】
連合軍:イスラム(ロヒンジャ)VS日本軍:仏教徒(アラカン族)

1966年、ビルマとバングラディッシュの国境が決まる。

1982年の市民権法でロヒンギャは正式に非国民であるとし、国籍が剥奪されたため、現在のラカイン州にはビルマ族や他の民族集団の移住政策が進められているとの報告がある。

1988年、ロヒンギャがアウンサンスーチー氏らの民主化運動を支持したため、軍事政権はアラカン州のマユ国境地帯に軍隊を派遣し、財産は差し押さえ、インフラ建設の強制労働に従事させるなど、ロヒンギャに対して強烈な弾圧を行った。ネウィン政権下では「ナーガミン作戦」が決行され、約30万人のロヒンギャが難民としてバングラデシュ領に亡命したが、国際的な救援活動が届かず1万人ものロヒンギャが死亡したとされる。

1992年ラカイン州北部でナサカ(NaSaKa)治安部隊が結成される。治安という名目でロヒンジャへの弾圧、人権侵害を行なっている。

1991年~1992年と1996年~1997年の二度、大規模な数のロヒンギャが再び国境を超えてバングラデシュへ流出して難民化したが、同国政府はこれを歓迎せず、UNHCRの仲介事業によってミャンマーに再帰還させられている。

(※1)【ザミンダーリー制】
●1793 年、コーンウォリス総督によってベンガル管区に導入され、北インドを中心に実施された土地所有・徴税制度
●政府と農民の間を仲介する者に徴税をまかせ、仲介者に土地所有権を認める
(※2)【ベンガル人】
ベンガル人はバングラデシュとインド西ベンガル州、北東インド諸州やビルマ・アラカン州(主にロヒンギャ)などベンガル湾周辺の広大な地域に暮らしている。 ベンガル民族は様々な人種(が長い歴史の中で混血されて形成された集団であり、特定の人種的な傾向はなく、人種的な特徴のないことが特徴といえる。肌の色は個人差が大きい。また、顔立ちも欧米風から日本人風の顔をした人まで様々であるが、一見して東アジア、東南アジア的な風貌の人々とは明らかに異なる。ベンガル人は地域的、文化的には一定の共通の基盤はあるものの、ヒンズー教徒とイスラム教など宗教によっても社会的・文化的な背景は大きく異なり意識の上でも特にイスラム教徒にあっては民族よりも宗教へのアイデンティティが強く出る。ベンガル語を母語とする人口は1996年のデータで世界人口の3.2%に当たる1億8900万人であり、中国語(北京語)、英語、スペイン語に次いで第4位を占めている。

ミャンマー(ビルマ)における3大仏教勢力

① ビルマ族(自称バマー)
ミャンマーの人口の7割を占める民族で、そのうちの9割が上座仏教を信仰する。
② モン族(モン・クメール語族)
ミャンマーの人口の1.2割程を占める民族。
③ アラカン族(ヤカイン、ラカイン)
15~18世紀、ビルマとバングラデシュの国境地域に「アラカン王国」があった。

イスラムの大きな流れ

・8~15世紀、マレーシア・インドネシア方面からアラカンへムスリムが船で流れ着き、住み始める。
・アラカン族はイスラムの教えを受け入れる。むしろファッションとなる。
・アラカン王国には、日本からは山田長政が訪れている。相撲が伝えられた。

ミャンマーに居る主なムスリム

・バマームスリム(インド系)
・パンディー(中国系ムスリム)
・パッシュー(マレーシア系ムスリム)

ムスリムに対する偏見・差別

植民地時代の民族による分割統治政策で、ビルマ人は最下層におかれたことによるイスラム教徒に対する怨恨が生まれた。しかし、ムスリムの人口は少ないが経済的には強者が多く、警察などもあまり恐れない。

 難民キャンプ

ネ・ウィン将軍時代における迫害、そして1982年の法律で国籍を剥奪されたロヒンジャが、バングラディッシュ側に逃亡。クトゥパロンとナヤパラの公式難民キャンプにいる。新しく逃れてきた難民はそこに入ることができず、それぞれに非公式難民キャンプを形成する。公式、非公式ともに自助組織やNGOの活動は禁止されている。また非公式のほうでは、政府から一切なんの支援もなく、学校の設立さえ禁止されている。また、携帯、パソコンTV、ラジオなどの所持も禁止され、服装はロンジー(巻きスカート)の着用を義務付けられている。

クトゥパロン

ナヤパラ

公式難民キャンプ

非公式

公式

非公式(レダ)

人口

10500

40000

14084

14327

家族数

1180

3000

1729

2092

ミャンマー連邦共和国(ビルマ)

【国土】日本の約1.8倍
【行政区画】
・管区または地域(7)エーヤワディ、ザガイン、タニンダーリ、バゴー、グウェ、マンダレー、ヤンゴン
・州(7)       カチン、カヤー、カレン、シャン、チン、モン、ラカイン
・自治区(5)    ザカイン管区ナガ、シャン州ダヌ、パオ、パラウン、コーカン
・自治管区(1)   ワ
【人口】6300万人(2012年)
【首都】ネピドー
【最大都市】ヤンゴン
【公用語】ビルマ語
【大統領】テインセイン
【通貨】チャット
【宗教】上座部仏教(※4)(85%)、キリスト教(4~5%)、イスラム教(4~5%、※実際は15%ほどの存在感)

(※4)【上座部仏教(小乗仏教)】出家して厳しい修行を積んだ僧侶だけが悟りを開き救われる。したがって、修行をしたわずかな人が救われ、一般の人々は救われない。★主要国 スリランカ、タイ、カンボジア、ラオス、ビルマetc
【大乗仏教】釈迦はすべての人々を救いたかったはずである、という思想のもとに誕生したのが大乗仏教。教えの違いにより「顕教」と「密教」とに分かれる。★主要国 日本、中国、チベット、朝鮮半島etc

ビルマ略史

ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことが窺えるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。
10世紀以降、様々な王朝が栄えたが、19世紀に英国の植民地となる。イスラム教徒のインド人・華僑を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教に改宗させて下ビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策を行なった。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(カレン族など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。

1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。

1945年3月、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。

1947年7月19日にアウンサンが暗殺された後、1948年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立。初代首相には、ウー・ヌが就任した。
独立直後からカレンなど各所民族の独立闘争、共産党やムスリムの武装抵抗など、政権は当初から不安定な状態にあった。ムスリムは、パキスタンや中東からの支援があり、政府は北ラカインをムスリムの特別自治区として認めることとなった。

1962年、ネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし、ビルマ式社会主義を掲げ大統領となる。憲法と議会を廃止して実権を握って以来、他の政党の活動を禁止する一党支配体制が続く。

1974年にビルマ連邦社会主義共和国憲法が制定され、ネ・ウィンは大統領二期目に就任。
1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める民主化要求運動が起きる。1988年8月8日のゼネスト・デモが民主化運動の象徴として捉えられているため「8888民主化運動」の名がある。ネ・ウィンの長期独裁政権は退陣したが、9月18日に国家法秩序回復評議会 (SLORC) による軍事クーデターが発生し、民主化運動は流血をともなって鎮圧された。この過程で、僧侶と一般人(主に学生)を含む数千人がビルマ軍により殺された。政権を離反していたソウ・マウン率いる軍部が政権を掌握し再度「ビルマ連邦」へ改名した。軍部は国民統一党を結党し体制維持をはかった。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年に自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。

1989年6月18日に軍政側はミャンマー連邦へ国名の改名を行った。
1990年5月の総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。

1992年4月23日にタン・シュエが首相に就任。軍事政権は1994年以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催する。
1998年民主化運動が高揚、軍事クーデターを決行して1000人以上の国民を虐殺し弾圧を加える。
1990年、アメリカ合衆国にビルマ連邦国民連合政府が設立。トップはスーチー従兄弟のセイン・ウィン。
2000年9月、アウンサンスーチーが再び自宅軟禁された。
2003年8月、和平推進派のキン・ニュンが首相に就任。

2004年、キン・ニュン失脚して自宅軟禁され、保守派のソー・ウィンが首相に就任。
2006年10月に行政首都ネピドーへの遷都を公表。
2007年9月仏教僧を中心とした数万人の規模の反政府デモが行われ、APF通信社の長井健司が取材中に射殺された。

2007年10月に軍出身のテイン・セインが首相に就任、軍政主導の政治体制の改革が開始される。
2008年新憲法案についての国民投票が実施・可決され民主化が計られるようになる。
2010年10月国旗の新しいデザインを発表。11月には新憲法に基づく総選挙が実施される。また同月政府はアウンサンスーチーが軟禁期限を迎えると発表し、その後軟禁が解除された。

2011年3月テイン・セインはミャンマー大統領に就任。軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であった国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、権限が新政府に移譲された。これにより軍政に終止符が打たれた形となったが、新政府は軍関係者が多数を占めており、実質的な軍政支配が続くともみられた。11月アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) は政党として再登録される。
国家元首は、2011年3月より大統領となっている。同月、テイン・セインが連邦議会で軍籍ではない初の大統領に選出され、現職中である。それ以前の国家元首は国家平和発展評議会 (SPDC) 議長だった。同評議会は立法権と行政権を行使。首相は評議会メンバーの1人であったが行政府の長ではなかった。2011年3月に同評議会は解散した。

2012年5月 ラムリーを発端とする暴動
http://www.hrw.org/ja/news/2012/08/01

2012年5月28日、ラムリー島でアラカン民族女性1人が3人のムスリム男性に強かん、殺害されたとする情報が、ある扇情的なパンフレットに掲載されて地元で広まった。

6月3日、トンゴップに住む多数のアラカン民族住民が1台のバスを停車させ、乗っていたムスリム10人を殺害した。(※トンゴップはNLDが多く、民主化されている。ナシュなリズムが強い地域で、普段はムスリムはあまり通らない街)

6月8日にはマウンドーに住むロヒンギャ民族数千人がイスラムの金曜礼拝後に暴動を起こし、アラカン民族を殺害し(犠牲者数は不明)財産を破壊した。ロヒンギャ民族とアラカン民族の対立はシットウェーと周辺一帯に広がった。
また、同日にバングラディッシュのロヒンジャ難民キャンプでデモがあった。

双方の住民の一部は暴徒となって略奪を行い、無防備な村や地区を襲撃し、住民を残虐に殺害し、家や商店、礼拝施設を破壊・放火した。政府の治安部隊はこうした暴力行為を停止する形ではほとんど展開されない一方、住民は刀や槍、木刀、鉄の棒、ナイフなど簡単な武器で武装していた。扇情的な反ムスリム報道や地元でのプロパガンダが事態を扇動した。

シットウェーにビルマ軍が駐留して暴力事件そのものは沈静化した。しかし6月12日、アラカン民族の暴徒が同市最大のムスリム地区にある、ロヒンギャ民族と非ロヒンギャ民族合わせて最大1万人が住むとみられる住宅地区を焼き払ったところ、警察や準軍事組織である機動隊(通称「ロンテイン」)もロヒンギャ民族だけに実弾を発射した。

シットウェー在住のロヒンギャ民族男性(36)はヒューマン・ライツ・ウォッチに対し、アラカン民族の暴徒が「家に放火し始めました。住民が火を消そうとすると、機動隊が発砲してきました」と述べた。同じ地区に住む別のロヒンギャ民族男性は「私はほんとうにすぐそばにいました。表に出ていたのです。機動隊が少なくとも6人を射殺しました。内訳は女性が1人、子どもが2人、男性が3人です。警察は死体を持ち去りました。」

6月の暴力事件以後、ロヒンギャ民族数千人が隣国バングラデシュに逃れているが、バングラデシュ政府は国際法に違反する形で人びとをビルマ側に押し返している。

 

6月中旬、民族対立による暴力を避け、ボートでバングラデシュ側へ逃れてきたロヒンギャ族。バングラデシュは受け入れを拒んでいる=AP