二十四の瞳


学校の先生を扱った映画やドラマなどは、教師の本業である授業以外の部分を描いたものがほとんどで、面白さから言えば当然のことである。

高峰秀子が亡くなる何日か前に、彼女が主演の「二十四の瞳」を観た。そこに登場する大石先生もまた然りだ。子供たちに出席をとっている場面やら、外で歌を歌ったり走り回って遊んでいる姿が冒頭で描かれている。特に電車ごっこのシーンは、先生も子供もとても可愛らしく(DVDのジャケット写真)、今思い出しても顔がほころんでくるほどだ。

大石先生が子供たちから慕われたのは、大石先生が特に良い先生だったからではないような気がする。あの時代のあの場所でなら、どんな先生が赴任しても、同じような物語が展開したであろうし、逆に、彼女は世間知らずで未熟な人として描かれていると思う。

しかし、その世間知らずさは彼女の純粋さでもあり、それが反戦的な思想(思想というほど過激なものでもないが)にもつながっていて、校長や同僚たちが冷や冷やさせられたりするのだ。そしてあっけなく学校を辞めたりもする。

このあたりで、この映画は反戦映画だったんだと気が付いた(笑)。あまりにも有名な文芸作品だったので、どこかで観たことがあるような気がしていたのだが、そんなことはなかった。その当時なら何処にもでも居そうな先生だからこそ、リアリティがあり、この作品が訴えたいことを可能にしているのだとと思う。

 

フルメタルジャケット

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この映画は、以前から友人に薦められていて、やっと観ることができたが、これは昔夜中のTVで観たことがあったのを途中で思い出した。そう言えば「ONE SHOT ONE KILL」という映画を昨年観たとき、とてもぬるいと感じたのは、この映画を観たことがあったからなんだと今更ながら思った。海兵隊員を人殺しマシーンに養成するためにはこの程度の訓練は必要だろうと思う。絶対に関わりたくない世界だが。所詮、軍隊ってそんなもんだろ。

 

玄牝

11月1日、映画監督の河瀬直美さんの講演会があった。
今まで撮影した劇映画に関して、年代順にその時の思いやエピソードを語られた。
最後に、最新作の「玄牝(げんぴん)」のダイジェスト版を鑑賞した。

自然分娩についてのドキュメンタリーだ。
民家での出産シーンも二組あった。
子どもたちも立ち会っているのだ。
生まれてきた赤ちゃんを抱きながら「会いたかったよ~」と泣いている母親の傍で
たぶんその赤ちゃんのお兄ちゃんらしき子どもが目をこすって泣いている場面に
思わず僕も泣きそうになった。

自然分娩の良し悪しは僕にはまだよく分からないが
現代人が失くしつつある根本的なものがそこにあるのかもしれないって思う。

これから妊娠を経験するであろう人たちには、観る価値がある映画だと思う。
大阪では七藝で来年あたりの上映だそうだ。

棄てられたひとびと

二本の映画を観た。
「ヒロシマ・ピョンヤン」は、在朝被爆者の話だ。
ヒバクシャに国境はない。サンフランシスコ平和条約で連合国に対する戦争賠償を放棄した限り日本が補償してやらなければならない。在朝被爆者だけを置き去りにしてはいけない。広島に住むオモニと平壌に住む娘とが交わすビデオレターが涙を誘う。

「おみすてになるのですか」は戦災傷害者の話だ。
日本は、傷痍軍人には手厚い補償をしながらも、空襲で被害を受けた一般人には何の補償もない。先進国でそんな扱いをしているのは日本だけである。戦後65年たっても、今もその後遺症に苦しまれている。

この二つの映画に共通しているのは、日本政府が見放しているということだ。放っておけば、みんな亡くなっていまい、有耶無耶になるだろうと高をくくっているのだ。

そのような責任の所在を曖昧にする態度は日本人は得意である。第二次世界大戦では随所にみられる態度だ。一番の責任者は、何もなかったように死んでしまったし。アジアに対する責任もあいまいで、教科書から消されてしまった事件もある。イラク戦争に加担した責任も、当のアメリカでさえ失敗を認めているのにも関わらず、日本は、どこ吹く風という態度のまま。できるなら、私は関係ない、どなたがやってくださいって感じだろうか。
例え今後、政府が何らかの補償に取り組まずに終わったとしても、こういうことがあったという事実は、風化させてはならなず、伝えていかなければならないと思う。

まるで胡蝶の夢~インセプション~

昔読んだ夢枕獏の「サイコダイバーシリーズ」を思い出したが、サイコダイバーがどんな話だったかはあまり思い出せない。

「インセプション」は人の夢の中に入り込み、そこからアイデアを盗み出したり、あるいはアイデア(感情)を植え付けたりして、人を操作するという荒唐無稽な話である。なにがしらの機械を媒介してなにがしらの薬を点滴すれば共通の夢が見られるらしい。そしてターゲットとなる人の夢の中に入っていく。また「設計士」と呼ばれる舞台となる夢を設計する人物も登場する。設計士が考えた通りの舞台が夢の中でできあがる。エッシャーのだまし絵の世界だって作ることができるのだ。

夢の中では本来自由だ。気付けば死の恐怖からも逃れられるからだ。僕は子どもの頃、思った通りの夢を見ることができた。高いところから飛び降りたいと願ったら、夢の中で崖の上に立つことが出来た。そして「これは夢なんだろうか。」と躊躇しながら飛び降りた。股座から風を感じながら目が覚めた。そんな記憶がある。今はもうそんなことは出来なくなってしまったが。

映画では、夢の中で夢に潜り込み、さらに夢に潜り込んでいき、どんどん階層が深くなっていき、それぞれの階層で物語が展開していく。夢の階層が深くなるにつれて時間の速度が、覚醒時の5分が夢の中では100分、夢の中の夢では2000分というふうに変化していくのだ。

主人公のコブはかつて、愛する人とお互いをより深く知りたくなり、夢の階層深く潜り込み、そこで50年暮らし、二人だけの世界を築き上げた。しかし、やがて夢と現実の区別が出来なくなった彼女は自らの命を絶ってしまうのだ。そんなトラウマを引きずったまま物語が展開していく。

映画では、彼のトラウマも癒され、子どもたちとも再会する場面で終わっているが、果たして物語はこれで終わっているのだろうか。子どもたちは全く歳もとっていなかったし、服装も夢に出てきた姿と同じだった。そもそも彼女は本当に自殺をしたのだろうか? 彼女が立っていた場所は何処なんだろう。何故彼女はあんな場所に立つことができたのか?そして、コブが日本のホテルに居た時に、テーブルの上にあった本には「キリスト教」と大きく書かれていた。何故ホテルにそんなものが?どんな意味があるんだろう。

謎は探せばいくつでも出てきそうな映画だ。

キャタピラー


開演1時間前の9時にたどり着いたら、まだ第七藝術劇場は開いていなく
一人だけが廊下に並んでいた。
よく考えたら平日なのだから、もう少しゆっくり来れば良かったと後悔した。
それでも結局八割方は客席が埋まっていたと思う。

映画はいきなりエンドロールのように、戦争のフィルムを背景に
スタッフロールが流れ出した。
そして、満州での日本兵の残虐シーンとなる。
炎のCGが安っぽく写った。
その中で逃げまどう女性を犯している。
これは、四肢を失くした黒川久蔵の回想である。
久蔵は軍神となって村に帰ってくる。
その久蔵を、寺島しのぶ演ずる妻が世話をすることになるのだが…。

何か張り詰めた緊張感が絶えずあり、息苦しくなる映画だった。
寺島しのぶの鬼気迫る演技が見ものだと思う。
心のブレを見事に演じている。

ただひとつ残念なのは、映画は久蔵の死で終わればいいものを
その後に原爆投下のシーンと、元ちとせの「死んだ女の子」が流れる。
何か最後に説教臭く感じて、しらけてしまった。

監督が「これが戦争だ!」と謳っているが、
この映画はそれを充分に伝えている。
だから、最後にわざわざ、あまり筋とは関係ない原爆のシーンを
見せる必要はないのではないだろうか。
原爆の被害にあったわけじゃないから。
だから主題歌も、原爆の歌だから少しずれているような気がするのだ。
物語の流れにあったシーンや主題歌を、もうひと頑張りして用意して欲しかった。
「戦争の悲惨さ=原爆」を安易に使っているような気がする。

クロッシング

泣ける映画が良い映画だとは思えないが、この映画は本当に辛くて悲しくて、体が震えるくらい泣けてしまった。観終わった後は、まるでプールから這い上がってきたような疲れを感じたのだった。

生きるために脱北せざるをえない北朝鮮の現実。2007年の現代を描いたとはとても思えない映像ばかりだで、まるでTVや映画で知る終戦直後の日本のようだ。いや、それよりも悲惨である。日本には同じ日本人を閉じ込める強制収容所などはなかっただろうから。

主人公は、結核にかかってしまった身ごもっている妻のために、中国へ出稼ぎに密入国したのだが、結局亡命せざるを得なくなる。妻の為に薬を買いあさり、子供の為にサッカーボールとシューズを買うのだが、食べるものもなくなってしまった妻は亡くなってしまう。そして一人ぼっちになってしまった子供は父を追いかけ中国に密入国しようとするが…。

北朝鮮の村々がどのような感じなのかは見たことがないのでわからないが、この映画の質感はリアリティを感じさせるものがあった。そして、登場人物の精神性を表しているような美しい映像が多かったように思う。たとえば何度か使われる「雨」のシーンが、とても印象的だった。

この映画は単に泣ける安っぽい映画ではないことだけは確かだ。

白バラの祈り


これを読んだ。電車の中で座って読んだら、たいていの本はたとえ面白くても、いつのまにか意識を失ってしまいがちなのだが、この本はそん なことがなかった。

結末は想像つくのだが、その結末に向かわないように祈りながら読んでしまうのだ。息が詰まるような緊張感の中で5日間の物語が進んでいく。

彼女のような勇気や誇りの百分の一でも、自分にあればなぁと思う。もうちっぽけ過ぎて、書くのも馬鹿らしいくらいの自分であるから。

「ビルマVJ 消された革命」

タンシェによる軍事独裁政権のビルマ。
2007年に僧侶たちまでが蜂起した民主化デモを中心に描かれている。
日本のジャーナリストの長井さんが射 殺される場面も写しだされていた。
仏教の国であるのに、坊主に向かって暴行を加え、法衣を剥ぎ取りトラックに放り込む。
挙句の果て、殺害して川に遺体を流 している。
異常な国である。

しかし、隠し持ったハンディカムで写された映像がほとんどなので、
手ぶれがひどく酔ってしまいそうになる。
日本ではビルマのことなどほとんど何も 伝わってこない。
外務省でさえ、本当のビルマのことは知らないだろうと、
上映後のトークショーで宇田有三さんと箱田徹さんが言っていた。
この映画を機に、ビルマのことをもっと知りたいという人が増えればいいなと思った。

トークショーの最後に質問の時間があったので、遠慮がちに最後の方に手を挙げた。
「宇田さんは、十数年間もビルマに通い続け、ビルマ政府にも面が割れているはずなのに、どうして捕まらないのですか?」と聞いてみた。

すると宇田 さんは「ここだけの話にしておいてください。
どうもビルマ政府当局は、私のことを日本の●●機関だと思っているようです。
いや、冗談抜きで。だから私を泳 がしてくれていると。」と答えて下さった。
ほんまかいなと思ったが、捕まっても不思議ではないくらい危ない場面をくぐりぬけているので、案外本当かもしれ ないと思った。

 

「ONE SHOT ONE KILL」

海兵隊ブートキャンプ(新兵訓練所)の様子を取材した映画だ。
僕はアメリカなど信用していないから、この映画も信用しない。
だってカメラが回って いるのだから、本当の姿などが映し出されているはずがない。
上官が新兵たちに
「虐待はしてはならなし。
もし私が君たちを虐待したならば、私の上官に訴えたまえ。」
と言っていたのが、白々しい。

それにしても、あの大声での命令や、
それに答える「イエッサー」の絶叫のような返事が滑稽だ。
声が少しでも小さけれ ば何度でも繰り返される。
軍隊って馬鹿らしい世界だ。
おそらく日本の自衛隊もこんな感じなのだろうと勝手に思った。

ウリハッキョ

「ウリハッキョ(Our School)」という映画を観た。舞台は北海道にただ一つの「北海道朝鮮初中高級学校」で、2006年の作品だ。そこに通う子供たちや先生たちの姿が底 抜けに明るく生き生きと描かれている。彼らの目力は強く、脳裏に焼きつけられてしまうほどだ。

しかし、そのあまりにも濃い人間関係(生活においても、精神的絆においても)に、息苦しさを感じ、自分ならそんな学校には勤まらないだろうと感じ るぐらいであったが、映画を観終わった頃には、自分が失ってしまった、あるいは忘れてしまっている何かをそこに感じ、心を揺さぶられてしまった。

朝鮮民族にたいする差別意識はないかと聞かれたら、まったくないと言い切る自信はない。
子どもの頃から植えつけられた意識が心のどこかに巣食っているかもしれない。また、朝鮮民主主義人民共和国に対するネガティブキャンペーンに翻弄 されている自分がいる。確かに朝鮮民主主義人民共和国は、良い国だと思えないが、それはアメリカ合衆国だって同じだ。人類を殺している数で言えば、合衆国 のほうがずっとアクドイ国であるのは確かなはずなのに、客観的に判断できないのは、何故だろう。

「ウリハッキョ」をYOUTUBEで検索してみたのだが、そこに書かれているコメントの下劣さにうんざりした。反吐が出そうになった。国家の政策 とそこに住む民族を何故同一視するのだろう。日本人は白人から差別されている劣等感を、同じアジアの人にただぶつけているだけのようにしか思えない。

朝鮮学校の生徒は高校3年生で朝鮮に修学旅行に行くのだが、船のタラップから降りる時、手に持っている荷物を一旦降ろして、手で地面を触る場面が 印象的だ。初めて祖国に降り立つ時、足では失礼なような気がして、まず手から降りるのだと生徒が言っていた。祖国では温かく歓迎され、楽しい日々を過ご す。そして日本に帰って来た時、港で迎えていたのは、「拉致被害者を返せ。」「日本に来るな。」などのプラカードを抱えた人たち。チマチョゴリからジャー ジに着替え、沈んだ顔をする生徒たち。

何か腑に落ちないのだ。
この腑の落ちなさを抱えたまま、沈思黙考。

INVICTUS

歓声と応援歌のようなものが次第に大きくなっていく。ラグビーの練習風景が映し出される。綺麗に整備された芝生の上で白人たちがサンドバックにタックルをしている。カメラは移動し、道路をはさんだ反対側のグランドに向けられる。なんの整備もされていないただの広場で、身なりの貧しい黒人の子供たちがサッカーをしている。歓声が大きくなる。サッカーをしている子供たちは道路側に駆け寄る。ラグビーをしていた白人たちもフェンスに集まる。道路を車の集団が走っている。子供たちは「マンデラ!マンデラ!」を拳を振り上げ歓声を送る。マンデラが釈放されたその日だったのだ。
この場面だけで当時の南ア共和国の状況がよくわかり、この後の物語の始まりとして相応しいシーンだ。27年間も牢獄に囚われていたにも関わらず彼が行ったことは、相手を赦すという行為だ。長年アパルトヘイトによって苦しめられてきた黒人たちにも、その行為を促した。そしてラグビーというスポーツを通じて奇跡をマンデラは起こしたのだ。
マンデラの魂の高潔さに心を打たれながら、その心に呼応してひとつになっていく選手たち、観客、そして国民たち。伝播していくその熱と光が否応なく僕にも降り注いできたのだ。最後のラグビーの試合の場面では、体は熱くなり、腹の底より横隔膜を震えさせながら込み上げてくるものが確かにあった。これこそ歓喜だ。国がひとつとなった瞬間に立ち会えた喜びだ。
しかし、一度奇跡が起きたからといって、世の中はそんなに簡単に変るものではないと、今の南ア共和国の現状を見て悲しいかなそう思う。白人と黒人の経済格差は依然として大きく黒人の失業率は約40%と高い。また成人の五人に一人がエイズ感染者で、ヨハネスブルクは世界最悪の犯罪都市と言われている。アパルトヘイト時代に教育を受けることができなかった人たちがたくさんいることが一因とされているので、マンデラが望んだ虹の国となるのは、まだまだ時間がかかりそうだ。だからこそ、この映画は本当に価値のある映画だと思う。

沈まんかったら寝られへんがな

先日、「沈まぬ太陽」を観た。その前日にたまたま仲代達也の「不毛地帯」をTVで観たばっかりやったんで、山﨑豊子の世界ってこんなんなんやって思った。

作品としては、不毛地帯のほうが好きやな。「沈まぬ太陽」は、人物の色分けがはっきりし過ぎてる。ええもんと悪いもんの区別がね。主人公の渡辺 や、NAL(国民航空)を再建しようとする会長を演じる石坂とかが、まるで武士のようにカッコよすぎる。「不毛地帯」の仲代は、自らも悪に染まっていく過程に共感ちゅ うか共感したらあかん感覚ちゅうんか、そんなアンビバレンツを感じるんやけど、「沈まぬ太陽」はその点でいうと、キレイすぎてあかん。

それから主人公が「アフリカ」に対して抱く思いや感情がいまいち伝わってけえへんかった。アフリカに傾倒するエピソードもなかったし、ただ現実からの逃避の場所としてしか思えなかったのは残念で、アフリカに対して失礼やと思う。 浅すぎる。

映画の冒頭の象を射殺するシーンは、今の日航を象徴しているんかと思ったんは考えすぎやろか。しかし、御巣鷹山の事故を再現には泣かされた。あれ は辛すぎる。あの事故が起きたのは航空会社の体質が一因だったと言いたかったんやろうな思った。ついでに、劣化ウランを積んでいたことなども描いて欲し かったな。その為に、事故直後は、自衛隊は現場に入ってこなかったということも。ま、そこまで描くと、また違った方向になってしまうけどな。

ノンフィクションな出来事の中にフィクションを織り込んで、その中に理想的な人格の人物を作り上げて物語を作るちゅうのは、なんか虚しいな、ほんま。

遅ればせながらラプソディー

遅ればせながら「六ヶ所ラプソディー」を読み、そして「六ヶ所ラプソディー」を観た。恥ずかしながら原発問題に関しても、今まで、身近なこととして考えることが出来ず、色んな話を聞いてきただろうけど、僕の中を素通りしてきた。実際、そんなことをこれっぽちも考えずにいても、普通に楽しく暮らしていこうと思えばできてしまうし、飽き性の僕は、もしかしたら来年になれば、今思っていることも忘れてしまっているかもしれない。

少し思い出したことがある。もしかしたら小学校の時に担任の先生に聞いたのかもしれない。電気をみんなが少しでも節約すれば、原発で働く人が少なくなり放射能を浴びる可能性が少しでも低くなる。だから、電気を節約しましょうと。今までずっと忘れていたけれど、さっき思い出した。

本にも書いてあったが、この映画を観て心を動かされた人たちがたくさん現れて、あちらこちらで上映会が始まり、いろいろなムーブメントが起きていると。確かに、僕も心がざわついた。何かじっとしていられない気分だ。口で偉そうなことを言うだけであったり、このような日記にまことしやかに書いているだけでは、何もならないと。

でも、自分に何ができるんだろうと思う。例えばこのDVDに出てきた人のように、いきなり農業を始めるとか、サーフィンしながら全国をまわるだとか、そんなことはできない。せめて電子レンジを使う回数を減らすだとか、使っていない電気は消すだとか、節電するくらいだろうか。

ちょっと嬉しかったのは、このDVDを観ている時に美容院から帰ってきた妻が一緒に観だしたり、携帯をいじっていた娘もいつのまにか観ていたことだ。僕は家族にもいろんなことを説得できないでいたから、少しでもこんなことに関心を持ってもらえたのが嬉しかったのだ。

本を読んでいる時に、これはと思った箇所に付箋をつけて後でまとめようと思っていたが、そんなことよりも、この映画や本に触発され、何かを考え始めている今の心境を記しておこうと思った。原子力問題を考えるということは、これからの自分の生き方を考えることでもあると思ったのだ。

そんなキッカケを与えてくれる凄い本であり、凄い映画なのだ。

映画「BASURA」&四ノ宮監督トークショー(私的memo)

「大人たちは全て死ねばいい。そうすればこの国はよくなる。」
と島木譲二似の運転手が語るシーンからフィルムが回り始める。

広大な敷地のゴミ捨て場。そこに舞うビニールのゴミたち。やがて空高く舞い上がり、タイトル「BASURA」の文字が映し出される。「BASURA」とは「ゴミ」と言う意味のタガログ語だ。

四ノ宮監督は20年前と何も変っていないと、マニラを取材しながらつぶやく。町にはストリートチルドレンが溢れている。メリージェーンと言う11歳の女の子は、売春をしながら小遣いを稼いでいる。その目はもう子供ではなく、何処か虚無感が漂う表情だ。「私のお客。」と中年男性の腕を取りながらシナを作る姿は生々しくもあり痛々しくもあり。

マニラ市内には900万人が住んでいるが、60パーセントは正規の仕事についていないそうだ。20年前よりも、ホームレスの家族も確実に増えている。繁華街の路上でダンボールを敷き、家族が寝ている姿が映し出されている。彼らは町のゴミを拾って、1日300円から700円の収入を稼いで生活しているのだ。

スモーキーマウンテンの住宅はここ数年で様変わりしたそうだ。国が団地を建設して、そこに無償で提供したらしい。四ノ宮監督の映画が世界各国で上映され、スモーキータウンが世界に知れ渡った所為で国が動いたかもしれないと、監督がトークショーで語っていた。その住宅のお陰で、新生児の死亡率は極端に下がったらしい。

しかし、そこに住む人たちの仕事と言えば、やはり九割の人がゴミ拾いをしていて、何も変ってはいない。昔は裕福層(しかも大阪市ぐらいの広さの土地を持っているような極端な裕福層)が一割で、九割がゴミ拾いなどをしている貧困層だったそうだが、今は、裕福層の一割はそのままで、公務員などの中間層が二割、そして貧困層が七割というのが、フィリピンの現状らしい。国そのものを根本的に変えていかなければ、この現状は変っていかないだろうと監督は語っていた。

監督がスモーキータウンの子供たちをテーマにしようとしたきっかけは、地獄のような場所に住みながらも、澄んだ瞳を持ち、家族を思いやる優しさを持っていることに心を打たれたからだ。毎日ゴミ拾いをして得たわずかな収入をほとんど親に渡している。そして教会で祈っていることは、「私はゴミ拾いをずっとしてもいいですから、弟や妹を学校に行かせてください。」「私の命が短くなってもいいから、お父さんの病気を治してください。」と、自分を犠牲にしてまでも家族を思うその心に監督はショックを受けたそうだ。そのことがそれまで物質的な豊かさしか求めてこなかった人生のターニングポイントになったとおっしゃっていた。

そして監督自身が、スモーキータウンをテーマに撮り続けることができた源は、ノーラ夫人だそうだ。奥さんがフィリピン人でなかったら、逃げ出していたと思うとおしゃっていた。スモーキーマウンテンでの撮影は劣悪な環境の中でかなり過酷であったらしい。やはり健康まで損なわれてしまい、限界を感じたそうだ。そしてその瞬間に、生きることでの大切なことが見えてきたと強く語っておられた。そしてゴミ捨て場に育てられ、フィリピンに育てられ、フィリピンに感謝しているともおっしゃった。

この「スカベンジャー」「神の子」「BASURA」三部作は、若い人たちに是非観てもらいたいということで、高校生以下は無料だ。そして観るだけで終らずに、次に何か行動を起こして欲しいとおしゃっていた。すでに、この映画に出演していた人のところへ、物資を送る運動とか、現地でのスタディツアーが始まっているらしい。ツアー以外でも、日本の若い人たちが、スモーキータウンをよく訪れているそうだ。

次回作は、第二次世界大戦の時にフィリピンで餓死した日本兵の人たちをテーマにした映画だそうだ。体が悪いので、この映画が最後になるかもしれないと、少し弱気な発言をされていたのが気になった。

「フィリピンに知的好奇心をむけ、フィリピンを体験するということは、同時に日本と日本人を見つめ直すということに繋がる。私たちがフィリピン・フィリピン人に関わるということは、フィリピン・フィリピン人をサポートするということではなく、フィリピンを通して世界から私たちが支えられたり励まされたりするということだ。」とトークショーに同席した阪大のフィリピン研究家の津田教授が最後に締めくくっておられた。

現代フィリピンを知るための61章【第2版】 (エリア・スタディーズ 11)
大野 拓司,寺田 勇文

忘れられた子供たち

忘れられた子供たち スカベンジャー (ハートシリーズ)
忘れられた子供たち スカベンジャー (ハートシリーズ)
四ノ宮 浩


1995年に上映された映画で1989年から6年をかけて作られたドキュメンタリーだ。フィリピン・マニラの北部にある当時東洋最大のスラムと言われたスモーキーマウンテンで、ゴミ拾いをして生活をしている子供たちに焦点を当てて撮影されている。

一日300台のトラックが運んでくるマニラ市内のゴミに、背中に大きなカゴを背負った大人や、ドンゴロスの袋を引き摺った子供たちが群がり、その中からビンや金属や拾って、その日のうちにジャンクショップに売りにいくのだ。午前中の数時間で30kgほど集め、30ペソ(150円)になるそうだ。

ゴミの奪い合いからケンカが絶えず、殺人になるケースも少なくないらしい。映像にも殺された人が映し出されていた。
またゴミの中には、赤ん坊の死体や、切断された体の一部が混じっていることもよくあり、太ももから切断された足がフィルムに納まれていた。
悪臭や吐き気から逃れるためにシンナーを吸うんだとJRと名乗る青年が言っていた。その彼は幼いときに親と離れ離れになり、ゴミの中からかき集めたもので家を作り、一人で暮らしている。

エモンと言う13歳の男の子は、母親と幼い二人の弟たちを養うために、夜中に町のゴミを拾って生活をしている。後三人の兄弟がいたが、ゴミ山でトラックに轢かれ死んだり、はしかで死んだり、行方不明になったりで、三人を亡くしているが、この映画の撮影中にも、すぐ下の弟が行方不明になっている。

20年以上の前の話だから、たぶん今は少しは良くなっていることだろうと思いたいが、最新作「BASURA」がこのシリーズの三部目として上映している最中で、そのイントロダクションを読むと、どうもあまり変っていないことが伺える。

この世界の貧富の格差は、いったいなんなんだろう。
「モスキートタウンに生まれなくて良かった。」と心のどこかで思ってしまうが、世界は何処かで繋がっているのだから、この人たちの貧困のお陰で、僕たちはもしかしたら多少の贅沢ができているのかもしれない。

しかし、日本の自殺者数は毎年3万人を超え、自殺率は10万人に対して24人のところ、フィリピンは2人だそうだ。日本人とモスキートタウンに住むフィリピン人とではどちらが幸せなんだろう。この映画の最後のほうで、JRの妻になった女の子が語った言葉が印象に残った。

「私たちにいい生活は必要ない。1日3回食べられて、子どものミルク代が不足しなければいい。私たちは家族みんな一緒なので幸せですよ。」

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スカべンジャー
再生可能なゴミを拾い、転売して生きる人々。

リトルバーズ

リトルバーズ―戦火のバグダッドから
リトルバーズ―戦火のバグダッドから
綿井 健陽

ドキュメンタリー映画「Little Birds~イラク 戦火の家族たち」に入りきらなかったシーン、映像化できなかった人たちの証言で構成されているらしい。僕はまだ映画を観ていないので、是非観たいと思う。

内容は、イラク戦争開戦前からバグダッドに滞在し、日々迫ってくる米軍の空爆音、爆撃音を聞きながらも市内をレポートし、フセインの像が引き倒された場面に立会い、その後も一般市民の被害状況を調査した2003年3月から始まり、その後数カ月おきにイラクを訪れ、2004年6月までの状況をレポートしている。

日本のマスメディアが引き上げてしまうような場所にも留まり、その状況を伝えようとする使命感には脱帽する。
本書にも書かれていたが、直接の砲弾に晒される危険もさることながら、爆弾が炸裂したその無数の破片は数百メートルも飛び散るという。その小さな破片が身体のいたるところに突き刺さり、重症さもなくば死に到る。そんな被害にあった人たちを取材しているのだが、同じ危険に筆者も晒されていたはずだ。

自衛隊のサマワ派遣の時に「ようこそ自衛隊の皆様」という横断幕の件について、豊田さんの「戦争をとめたい」にも載っていたが、同じことが書かれていた。アラビア語では「ようこそ日本人の皆様」と書いているにも関わらず、日本人ジャーナリストのEさんが、勝手にそんなふうに下書きをして書かせたらしい。そしてその横断幕を撮影して日本のメディアに送ったとか。

自衛隊をイラクに送ったのだ誰なのか?

沖縄の基地から飛び立った爆撃機は、いったい何人のイラクの人たちを殺したのだろう。

光市の裁判への発言の所為か、綿井氏のHPなどの更新などもストップして活動もされているかどうかわからない状態であるが、それはさておき、自分の命を顧みず、「この戦争は見届けなければならない」と胸を熱くしながらなされたこのレポートは読む価値がある。

妻の貌

「妻の貌」を観てきた。

偉大なアマチュアドキュメンタリー映画だ。

50年も自分の妻そして家族を撮り続けて、それを一つの作品として完成させた映画だ。素人ゆえ音楽の使い方やや編集には居心地の悪さを感じないでもないが、逆にそこに誠実さを感じたりもする。

妻のキヨ子さんは19歳の時、女子挺身隊で工場勤務の時に監督である夫に出会い、そしてその時に被爆された。キヨ子さん自身は工場の中にいたので、放射線や爆風には直接当たっていないので火傷の痕などはないが、やがて甲状腺癌が発症する。

映画では、キヨ子さんを中心に静かに時間が流れていく。キヨ子さんの所作の一つ一つに品性を感じるのは、監督が持つ妻への愛情と敬意がフィルムの中に現れているからなんだろうと思う。キヨ子さん自身も原爆症で酸素吸入や輸血をするほど体の状態が良くないにも関わらず、寝たきりのお義母さんの世話を十数年もの間、懸命にされた。重労働だ。「寂しい。お義母さんは心の支えじゃたんよ。」とお義母さんが亡くなってからも呟くほど愛情を持って介護をしている姿は美しかった。

印象的なシーンがいくつもあった。キヨ子さんがベッドのお義母さんを覗き込みながら何か話をしている。その側でキヨ子さんの娘とその娘が何かをしている。一つのフレームの中に親子四代が静かな時間を過ごしているのだ。この映画はキヨ子さんを中心にした家族の物語でもある。でも、決して尊大ではなくいつも控えめに写っている。義母さんの納骨の場面でも、親戚が多く集まって墓の前で手を合わしているのに、キヨ子さんは少し後ろで肩を落としたように小さくなって手を合わしている。一番世話をしたのはキヨ子さんであるのにも関わらず。
カメラを通しての映像は時に冷たくも感じる。映像のこちら側には夫がいるにも関わらず、夫の姿が見えないからだ。そんな夫に向かって、時にはキヨ子さんも毒を吐く。

「戻して。私に人生を。バカ。」
「あんたはパーよ。私を素材にして、自分の仕事の肥やしにしようと私を連れとる。」

キヨ子さんは美しい。老いるほど皺は細かく刻まれていく。でもその皺が美しいのだ。

「元気になりたいの。何も考えずまっすぐ生きていきたい。一生懸命食べなきゃ。」

この映画の紹介では「ヒロシマ」の色を濃く表現しているが、例えその「ヒロシマ」と言う要素がなくても充分に成立した映画ではないかと思う。それぞれの家族にそれぞれの物語があるのだから。

アフガンに命の水を

「アフガンに命の水を」と言うDVDを観た。

アフガニスタンに6年がかりで全長24Kmの用水路を、ペシャワール会の中村医師が中心になって作り上げたそのドキュメンタリーだ。大旱魃で渇ききった砂漠が緑の大地に変貌していく様を眼にして、中村先生ってなんて偉大な人だろうと思う。
「私は国際貢献をしているなんて思っていない。感覚的には地方貢献ですね。私は医者でもあるためか、目の前に困っている人がいたら助けざるをえないんです。」と言うようなことをおっしゃている。
このDVDには一切出てこないが、実はこの灌漑作業中に難病の子供さんを失くしたということを、何かの書物で読んだことがある。大事な作業中だったので、死に目には会えなかったらしい。自分の家族よりアフガニスタンの人・・・。何か壮絶なものを感じる。
中村先生は、今は「神学校」の建設に着手している。そんな映像の最後のほうにあった。「神学校」=「タリバン」というイメージがあるので、普通のNGOならそこまで関わらない。だが、現地の人が今本当に必要なものをと考えた時の中村先生の結論は「学校」だったのだろう。

花と兵隊

と言う映画を観た。

http://www.hanatoheitai.jp/
敗戦をタイ・ビルマ国境付近で迎えた、日本に帰らなかった6人の元日本兵のドキュメンタリーだ。

「未帰還兵」と紹介に書いてあったので、小野田さんや横井さんのように、ジャングルで暮らしているような人たちの話かなと思っていたら、そんな時代も経ながらタイで現地に根付いて(中国人になりすました人もいる)しっかり生活してこられた方々の話だった。無知で恥ずかしい。

手に職を持った人たちはそれで生活の基盤を築き、会社を設立している人もおられた。またそれぞれ綺麗な奥さんをもらい、晩年まで支えてもらっている姿が微笑ましかった。

しかし、先日「南京 引き裂かれた記憶」を観た僕には何か違和感を覚えていたのだが、その内、「何故日本に帰らなかったのか」と言う質問を監督がする。一人の老人は、答えることができない。言えない事情があると、そして、一緒に戦って来た戦友が最後になって信頼できなくなったと言う。「人を食べたことがるって聞いたことがあるんですが、それはどうですか?」と聞くと、何も答えない。
場面が急に変わり、同じ質問を別の老人にした。すると・・・。

これ以上、ここでは書いてはいけないような気がするのでやめておく。

とある他のブログを検索したら、上映会での監督の言葉が載っていたので引用する。

「僕たちは、戦争を知らない世代って言われるけれど、それは違うと思う。戦争を知らないのではなくて、戦場を知らないだけ。戦争っていうのは政治の延長だから、自分たちのすぐ手元にある。政治に興味を持たなければ、戦争はなくならない。戦争を辞めたければ、政治に興味を持つしかない。酒を飲みながらでも、政治を語ることによって、戦争はなくなると思います。皆さん、よろしくお願いします」

弱冠30歳の骨太の監督だ。

南京 引き裂かれた記憶

「南京 引き裂かれた記憶」を観てきた。

http://nanjinghikisakaretakioku.osakazine.net/

中国人7人、元日本兵6人のインタビューで構成されている。
証言内容は頭がクラクラするくらい悲惨なものだった。

中国人は今も心の傷が癒えず(8歳で強姦された女性はその後遺症でずっとオムツをしていると言う証言もあった。体の傷も癒えていない人ももちろんいる。)泣きながら証言するのに対して、日本人は他人事のように機関銃で殺したことや強姦したことを昔話として話している。「楽しいこともありました。」と笑顔になった瞬間に中国人の証言に切り替える場面はちょっとあざとくは感じたが、でも、戦争の狂気を照射されたようで、ぞっとした。

南京大虐殺に関しては昔、本多勝一氏の本を読んだことがあったが、もう内容はほとんど忘れてしまっている。その頃から「否定派」の声も大きかったが、今も平行線のままなんだろう。ネットで検索してみると、この映画でインタビューしている松岡環さんに対しての中傷がいくつもヒットした。単なる揚げ足取りでヒステリックなものが多かったように思う。

戦争の狂気ってこんなものなんだと言うことを知るためにも、この映画は観る価値があると思う。

殯(もがり)の森

森の木々を揺らす風、大地に染み渡る水、土からむせ返る空気を感じた。それらが僕の体の中に沁みこんで、そして通り抜けていった。

「こうしやなあかんことは、なんもない。」

だからこう解釈しなければならないことなんてこの映画には何もない。ただ映画に身を預けるだけでいい。いつのまにかこちらの世界と映画の世界の垣根が消えてしまうのだ。そう、寝てしまってもいい。

この映画を観てしまうと、他の映画は調味料や香辛料をふんだんにかけられて味付けされたものだと思ってしまう。なんて自然なんだろう。台詞が小さくて聞こえなくても、台詞が他の音とかぶって聞こえなくても、それはそれで僕にとっては新鮮だった。決して編集や演出のミスではなくて、そんなことまでも計算と言うか河瀬監督の感性を感じさせる。

「僕は生きてますか?」としげるが問うと、「生きるには二つの意味があります。一つはご飯を食べて生きていると言うことと、もう一つは生きている実感を味わうことです。」と住職が答えた。

理屈は嫌いだ。僕が通っている絵の教室でも理屈で描いている奴がいる。「***の世界を描きたくてこの部分は***を、ここは***が***しようとしていることを表現したいんですが、先生。」などとぶつぶつ言っている。

この映画は理屈ではなく「実感」する映画だ。感性を研ぎ澄ませることができるものにしか感じ得ない映画だろう。ネットで色んな方のレビューを見る限り酷評が多く、残念だ。しかし好き嫌い、感性の違いはどうしようもないが。

最高の人生の見つけ方

考えさせられる映画かと思いきやそう言うことでもなく、ありえない設定であるので自分に置き換えて見ることもできず、たいした葛藤もなくいかにもアメリカンドリーム的な軽い映画であると思うから、カタルシスを求めて少し期待して行った僕には物足らない映画であったのではあるが、会場ではあちらこちらですすり泣きが聞こえた時、一緒にすすり泣いてしまった僕は、なんて軽薄な奴なんだろうと恥ずかしかったが、でもやっぱり物足らないものは物足らないと思うので、これを読んでから映画を観る人は期待せずに見ることができるから、そんなあなたはラッキーだ(笑)

誰かに見られている

誰かに見られている(字幕スーパー版)

十数年前の年末、僕はちょっとした病気で入院していた。
その時の、夜中にTVで放映されてた映画が忘れられなかった。
もう一度観たかったのだが、タイトルも何もわからず、
そのことを、HPの掲示板に書いたら、
親切にもある方が、探して来てくれた。

リドリースコット監督
トム・ベレンジャー/ミミ・ロジャース主演
「誰かに見られている」

で、最近やっと借りて観た。

内容を簡単に言えば、
殺人現場を目撃した大富豪の女性ミミと、
そのミミを護衛する妻子持ちの刑事トムが
恋に落ちてしてしまうと言う話。

途中で不倫が奥さんにばれてしまうのだが
泣いてあやまるトムは、なんとも情けなく、
おまけにパンチをくらい、鼻血まで出す。
やけになったトムは同僚が護衛している時に
堂々とミミの家に入り込んでセックスをする。
その余韻に浸っている間に
忍び込んできた犯人の手下に同僚が殺されかかる。
トムは、その手下を射殺する。刑事らしい場面はこのシーンだけ。
しかしそのために、仕事からおろされることになり、
奥さんとも完全に別居状態になる。
最後は、犯人に奥さんと子どもが殺されそうになり
トムは不倫相手と現場へ行くのだが、なんと奥さんが犯人を射殺する。
そしてトムは奥さんに抱きつき、「もう一度やりなおそう」と言う。
それを見たミミは去っていく。

最後の最後まで情けない中年刑事を演じるトムに共感を覚えた。
ビデオ屋さんでは、いちおう「サスペンス」に分類されていたのだが
これは「不倫もの」だ。
嫁さんと一緒に観たので、ちょっと落ち着かなく
一人で観ればよかったと後悔していた。

後日、嫁さんに感想を聞いてみた。
「男の人がかわいそうやったわ。
なんか奥さんに押さえつけられてるから、
不倫相手とうまくいけばなぁと思ってた。」だと。

OLDBOY

オールド・ボーイ プレミアム・エディション

原作も、レビューもまったく見ないままこの映画(DVD)を観た。

酔っ払いが警察で保護されている場面から始まる。
腹の出た中年のオ・デスが散々悪態をつくシーンが淡々と流れる。
迎えにきた友人が公衆電話で家庭に電話している間に
娘へのプレゼントだけ路上に落としたまま、彼は消え去る。
15年間の監禁の始まりだったのだ。

細部にはつっこみどころはあるし
見てられないほどのグロな部分もあるが
そんなことはふっとんでしまうほど
あれよあれよと言うまに映画に惹き付けれていった。

オ・デス役のチェ・ミンシクはアホな酔っ払いから
自らの●●を切り落としてしまう鬼気迫る役まで
見事に演じきっている。
カン・ヘジョンとのセックスのシーンはリアリティを感じて
胸が痛くなった。
しかし、彼女が一緒に家族の捜索を始めた時に感じた
ある事が、最後には本当になったのは、ショックだった。
おそらく、このことが原作にはなかったことなんだろうけど。

確かにグロ過ぎるけれど、それと同じくらい哀愁を感じた。
それはたぶん、同じくらいの娘がいるからだろうか。

ふたつの不道徳が、心をざわつかせる。
忌み嫌うべきものであるはずなんだけど。